平成17年(2005年)沖縄遺骨収集奉仕活動
- 2月18日(金)南部戦跡の慰霊碑・慰霊塔を巡拝
- 2月19日(土)第32回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
- 2月20日(日)第32回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加
2月18日(金) 南部戦跡の慰霊碑・慰霊塔を巡拝
昨日午後7時過ぎに、沖縄那覇空港に無事に到着しました。今朝は少しゆっくりめに起床しようと、意図的に目覚ましコールの設定をせずに昨夜はベッドに入りましたが、今朝は6時30分に目覚めました。本日の予定は個人的に慰霊碑巡りを予定していましたので、準備でき次第出発というある程度ルーズな予定で行動しようと思っています。
7時に朝食のバイキングを食べにレストランに入りました。バイキング形式の食事は嫌いではないので、起き抜けではありましたが驚くほどのなりのボリュームを食べました。
カメラ機材の準備をして、ホテルを8時半に出発しました。沖縄には数年前から那覇空港と市街地を結ぶモノレールが運行しています。沖縄にはどこにでもタクシーが走っていますので、ついついタクシーに乗ってしまっていましたが、この機会に乗ってみることにしました。初めての乗車でしたが、施設も新しく動線もスムーズでなかなか快適に移動する事が出来ました。高い位置で運行されているので、見える景色もバッチリでした。ルートが一本しかないので乗る機会は少ないかもしれませんが、出来る限り乗ってみたいなと思いましたね。
新聞記事の切り抜きに掲載日時を記載しておかなかったのは失敗でしたが(^^;)、たしか二年ほど前の記事だったと思います。読売新聞の記事の中で、沖縄の慰霊塔が管理者の高齢化や戦争体験の風化などにより、管理が為されない慰霊塔が増えているという記事を目にしました。
そのコピーを掲載させていただきます。読売新聞様、掲載日時は不明ですので表記することが出来ませんでした。ご免なさい。
読売新聞記事(日付不明)
ボランティアの方々が慰霊塔などで清掃作業をしている写真が添えられています。
私も毎年毎年沖縄を訪れてはいますが、訪問した慰霊碑や慰霊塔はごくわずかな数でしかありません。その限られた数の慰霊塔なども、新聞記事に書いてある事柄は、言われてみれば確かに実感出来る事柄であり、残念ながら管理が行き届いていないという雰囲気が年ごとに増しているのは否定出来ない事実であると感じています。
『ひめゆりの塔』などごく一部の有名な慰霊塔は相変わらずの賑わいを見せていますが、南部戦跡全体の中では少数派といえるでしょう。
原因は色々と考えられます。思いつくまま少し列挙してみますと、
1,戦後60年という歳月の経過による社会全体における戦争体験の風化。
2,沖縄戦などの戦争体験者の高齢化。
3,義務教育課程での平和教育に割く時間の減少。
第二次世界大戦などの歴史を今に残そうとする施設や場所などは、世界的レベルで見学者が減少し、管理運営に困難が伴うようになってきているという報道が為されています。大戦後60年を経て、ドイツでもアウシュビッツ収容所の存在を知らないとする若者が大勢いることが解り、戦争体験の風化への危機感が叫ばれていました。
人類の長い歴史の中で、戦争は際限なく繰り返されてきました。現在もイラク侵略戦争をはじめ世界各地で戦争や紛争が絶えません。
この参加記の中で、世界の戦争を防ぐ手だてを述べられるほど戦争を行う動機を簡単に説明出来るはずもありませんが、例えばアメリカによるイラク侵略は、イラクの石油が目当てであるのは周知の通りです。
大量破壊兵器をすぐにでも使いかねないなどと危険性を煽り、世界を不安に陥れ侵略を強引に正当化して、イラク戦争を国連や国際世論の同意なしに開始しました。大量破壊兵器が存在しないことが解ると、今度はイラクに自由と民主主義をもたらす為だとの主張を展開しだしました。
どのような理由付けをするにしても、目的とした戦果を放棄するつもりはないようです。
このように、いつの時代も大国は やりたいようにやる のが国際社会の現状なのです。
国家による戦争は、メディアを政治機関として最大限活用するのが通例です。過去の開戦理由をみても、全ての戦争が正義の戦いだとするプロパガンダをメディアを通じて浸透させようと試みていますが、どのような正義の戦争であっても(もちろんそんな正しい戦争など存在しませんが……)、多くの人々が殺され悲惨な体験をする事になる現実を、私達は直視しなければなりません。
このアメリカによるイラク侵略にしても、私達が目をそらすことの出来ない最大の理由は、侵略開始からすでに10万人以上もの民間人が、無惨にも殺されたという現実です。
現在日本でも憲法改正や防衛大綱の指針などの検討が着々と進められていますが、基本的にアメリカと手を組み共同作戦を展開する方向で対応が為されている事は疑いの余地がありません。
日本側の一部の政治家と官僚は、アメリカの策略に見事にはめられて「集団的自衛権」を盛り込んだ憲法改正を急ぎ、アメリカの世界戦略に日本をしっかり組み入れようとする輩が、悲しいかな存在するようです。
アジア情勢も世界の趨勢と同様に激動の時代を迎えたようです。3月14日中国の「全人代」では、反対票ゼロという中国共産党らしい裁決で『反国家分裂法』が成立をみました。
私たちがここで注目すべきは、アメリカと日本はすでに全力で台湾を守ると宣言しているのです。すでに日本の防衛大綱で公式に中国への警戒感を表記していますし、今年二月に開催された日米安全保障協議委員会では、「日米は協力して東アジア地域の脅威に立ち向かう」という姿勢をハッキリと打ち出しているからです。
これにより、中国対台湾・アメリカ・日本の三国連合の戦争が不可避の情勢となって参りました。アメリカも近い将来訪れる大規模なこの世紀の決戦の為に着々と準備を進めており、戦場に近い日本にアメリカ軍司令部を移転するのもその一環です。
近い将来日本が中国と戦火を交えるというかなり確率の高い予測を、とても信じられないという方々も多いと思いますが、地政学的観点からアメリカは中国を分断支配するという作戦計画をすでに持っており、中国の台湾攻撃というシナリオを発火点とすべく、中国が台湾を攻撃しなければならないように、アメリカは仕込みを続けるでしょう。
もちろん、アメリカは世界で唯一の超大国ですから、大統領が中国の国内問題である人権問題や共産党独裁統治に対し口先介入して、国内を不安定にさせ農民などの反乱を蜂起させる選択肢もありますが、この方式ではロシアを喜ばせるだけで、アメリカ軍需産業を戦時特需に持ち込むことは出来ません。
アメリカの対中国攻撃はアメリカの軍需産業を儲けさせる為に行われる戦争ですから、台湾や日本が国土防衛のため大量のミサイルや軍備品を必用とする環境を創出し、かつ買わせなければなりません。
従って、アメリカはかつて日本の真珠湾攻撃の動向を逐一把握していたにも関わらず、知らないふりをして沈黙していたように、中国の台湾攻撃の第一撃に対し「信じられない出来事だ、心から驚いている!」といったコメントがアメリカの最初の反応になるでしょうが、アメリカ軍部は実際のところ、その第一撃を予定しその後の展開も計画済みなのです。
相手国が先制攻撃をせざるを得ないように仕込み、第一撃は不意をつかれたと驚きと怒りをあらわにし、結果として報復の大義名分を得て相手国を一気に潰す、これがアメリカ流戦争創出と仕込み、そして戦勝国へと至るセオリーでしょうか。
私の述べたストーリーは平和な時代にはおかしな空想と思われかねませんが、遅くとも中国バブルが崩壊する2010年の上海万国博覧会以降数年の間に現実のものとなって大騒ぎすることになるでしょう。その時こそアメリカ軍の司令部が置かれる関東エリアを中心にチャイナミサイルが降り注ぐ事になるのです。
もちろん、沖縄も台湾に近いですしアメリカ軍基地のある嘉手納などを中心に、中国の激しい攻撃にさらされるでしょう。悲しいことに、“非武の島沖縄” は、再度鉄の雨が降り注ぐことになるのです。
アメリカの軍需産業の為に戦争を立ち上げるという非人間的で極悪犯罪的な行為を何とか止めなくてはならないと感じている一人ですが、ひとつだけハッキリしているのは、その頃には沖縄戦をはじめとする太平洋戦争の悲惨な体験者は一人も居ないという事です!。
私たち一般市民に出来る事!。戦争を回避す手だてに少しでも貢献する可能性があるものとして、この戦争には悲惨な殺戮が必ず伴うという現実を後世に伝えるという事ではないでしょうか。
アメリカの覇権衰退の流れの中で、世界の多極化に伴い国際情勢が大きな曲がり角に来ている現在において、日本が今度はアメリカと手を組みアジアの同胞を傷つけるという事のないように、沖縄戦の悲惨な体験と戦跡をいつまでも後世の人々のために残していかなければならないと感じています。
その為のひとつの手段として、戦跡の中に点在する慰霊塔や慰霊碑を出来る限りしっかりと保存し、後世に沖縄戦のありようを伝えていくというのが、今を生きる私達に要請されているのではないでしょうか…。
ちょっと硬い話になってしまいましたね(^^;)。
という訳で、現在沖縄南部の慰霊塔などはどのような状態にあるのか知りたく思い、一日かけて回れるだけ回ってみようと考えました。
今回は、慰霊塔を訪れ手を合わせたり写真に納めたりするだけですが、出来れば慰霊塔の清掃も視野に入れて対応したいと考えていますので、その観点での情報収集もしてきたいと考えています。
朝の8時半には那覇空港近くのレンタカーショップに到着しました。まずは『ひめゆりの塔』に向けて発進です。
道路が混んでいなければ南部戦跡までは30分程で到着します。一番最初に何故『ひめゆりの塔』に向かうのかというと、御存知のように塔入り口には献花用の花が販売されているからです。その献花用の花を持って各慰霊塔を巡りましょうという訳です。昔は線香とマッチも売っていましたが、やはり時代の流れと申しましょうか線香くさいのは嫌われるのかどうか…。現在は販売していませんね。
「白梅之塔」
最初に訪れたのは『白梅之塔』でした。雨上がりということもありまして、小高い樹木に囲まれた慰霊塔はシットリとした雰囲気に包まれていました。敷地に入りますと、正面が慰霊塔があり、左側に納骨堂そして右側に看護活動を続けた壕がありました。壕は横に長く展開しているようです。上の敷地から所々壕内部が見えるようです。現在壕の入り口横には、慰霊のためのお堂が建てられています。
『白梅の塔』は、沖縄戦で戦没した沖縄県立第二高等女学校の稲福全栄校長ほか職員・生徒など105人が祀られています。この壕は、6月22日米軍に馬乗り攻撃をされ多くの若き尊い命が奪われました。沖縄県立第二高等女学校の戦死者は、この壕を中心に近辺で多数亡くなられたといわれています。
「白梅の塔」
『白梅之塔』の全景です。
『白梅之塔』の碑文です。
戦没者が掲示してあります。
壕入り口から底部を見下ろす 壕は横に長く伸長しています。
「魂魄の塔」
『魂魄之塔』ですね。『ひめゆりの塔』から5分ほどのところにある平和創造の森公園内の一角にありました。ここは沖縄本島最南端に近いところでして、すぐ近くの海岸ではサーフィンなどを楽しむ人達で夏場は賑わうとの事でした。公園内には複数の慰霊塔が散在していました。
35,000柱という沖縄にある慰霊塔では最大規模の戦没者が祀られているという事で、以前から関心がありました。ここ現糸満市米須地区にはおびただしい数の屍が散乱していたそうです。それらの御遺骨を地元住民が収骨し納骨堂を建立して祀ったのが『魂魄の塔』という事になります。
「魂魄の塔」
『魂魄の塔』の全景です。
『魂魄の塔』の碑文です。
『魂魄の塔』の碑文です。
「沖縄陸軍病院之塔」
『沖縄陸軍病院之塔』です。この塔に至る道も正確に記されていなさそうな地図だったので、発見出来るかどうか当初不安でしたが、多少道に迷いましたが比較的早く塔に到達出来ました。何しろ慰霊塔関係の資料にも掲載されていないのですから。ただ、病院に絡む避難場所は傷病兵も多くて犠牲者も多かったと思われますので、ぜひ訪ねてみたいところだと思っていました。
農家の畑などに囲まれた閑静な場所に慰霊塔と壕がありました。壕は深さ10メートル程度の縦穴でしたから、上部から爆撃を受けたらひとたまりもないと思われました。また穴の直径も大きく、容易に米軍に発見され攻撃を受けたものと推測されます。
「沖縄陸軍病院之塔」
『沖縄陸軍病院之塔』の全景です。
『沖縄陸軍病院之塔です。
『沖縄陸軍病院之塔』の碑文です。
壕内の様子 それ程広くないことが解ります。
「開南健児之塔」
塔は、平和創造の森公園内の少しばかり小高い丘の上にひっそりとたたずんでいました。沖縄戦で戦死した私立開南中学校の職員と生徒263人を祀っています。開南中学では「開南中学鉄血勤皇隊」を組織して、日本軍と共に戦闘行為などを行ったため、多くの若き命を失う結果となってしまいました。
「開南健児之塔」
『開南健児之塔』の全景です。
『開南健児之塔』です。
戦没者を掲示しています。
「ずゐせんの塔」
『ずゐせんの塔』 です。
『ずゐせんの塔』の全景です。
『ずゐせんの塔』の碑文です。
戦没者を掲示しています。
「南冥之塔」
『南冥之塔』です。摩文仁の丘西端から少し離れた場所にあります。近くには健児の塔や平和の像などがあります。この周辺は、摩文仁の司令部からも近くかなりの爆撃を受けたものと思われ、屍累々としていたと表記されています。
私達も摩文仁の海岸線は何度も遺骨収集をしています。私も今から5年ぐらい前でしょうか。この周辺一帯で遺骨を捜しました時に、二カ所で御遺骨を発見しました。この塔横の岩陰からも細かい御遺骨が出てきたことを覚えています。
「南冥之塔」
『南冥の塔』の全景です 左手奥に壕が見えます。
『南冥の塔』の碑文です。
塔の由来の解説です。
塔横にある自然壕 中は意外と狭い空間でした。
「風部隊之碑」
『風部隊之碑』です。摩文仁の丘西端から少し離れた場所にあります。健児の塔や平和の像などに至る道沿いにありますので、すぐに見つけることが出来ました。
日本陸軍の航空部隊のうち、中央航空路部沖縄航空路管区などの複数の部隊の軍人軍属480柱を祀ってあります。那覇空襲以降は沖縄の主力部隊第32軍に編入されたことから南部での戦闘で多大な犠牲者を出しました。
「風部隊之碑」
『風部隊之碑』の全景です。
『風部隊之碑』の碑文です。
塔の由来の解説です。
戦没者を掲示しています。
「沖縄工業健児之塔」
『沖縄工業健児之塔』です。平和祈念公園内に完成した沖縄県平和祈念資料館のすぐ横の海岸線に塔はありました。
戦死した沖縄県立工業学校の生徒124人を祀ってあります。沖縄県立工業学校でも「工業鉄血勤皇隊」を組織して従軍したため、140人の動員中97人に及ぶ犠牲者を出しました。
「沖縄工業健児之塔」
『沖縄工業健児之塔』の全景です。
戦没者を掲示しています。
「南北之塔」
『南北之塔』です。場所は、真栄平という地名のところにありました。塔の右手奥には大きな壕があり、この中で多数の人々が殺されました。 壕内の一部は地元の人々が収集した遺骨安置所となっており、セメントにより固められ入れないようになっています。
実は、この『南北之塔』にはかなりの頻度で訪れています。金光教の沖縄遺骨収集には、東京都にお住まいのMさんという方が毎年参加されていますが、遺族という立場の方です。今から15年以上も前の遺骨収集で、この壕内から黄色い石鹸箱が発見されました。その石鹸箱にはMさんのお父さんの名前が彫り込まれていましたので、息子さんであるMさんの元へ黄色い石鹸箱は帰っていきました。
Mさんにとりましては、お父さんの沖縄で戦死した場所が特定出来たことから、お墓参りをかねて以降毎年金光教の皆さんと共に遺骨収集に参加されています。このように金光教の遺骨収集奉仕により、見つけ出された遺品から彫り込まれた名前などを頼りに、ご遺族の元に帰っていったという例はかなりの数に上ります。
「南北之塔」
『南北之塔』の全景です。
碑文です。
。『南北之塔』右手にある壕です。米軍の攻撃を受けて地元の住民や兵隊さんが多数亡くなりました。
「八重瀬之塔」
『八重瀬之塔』です。八重瀬岳は高地となっておりかなり激しい争奪戦が日米で展開されたようです。その為この地域ではかなりの戦死者が出ました。『八重瀬之塔』には、戦後富盛の住民が八重瀬岳一帯で泣くなられた将兵15,000余りの遺骨を集め祀りました。
「八重瀬之塔」
『八重瀬之塔』の全景です。
「富盛の石彫大獅子」
『富盛の石彫大獅子』です。『白梅学徒病院壕跡』とは谷を挟んだ向かいの小高い丘の上にありました。この大獅子が設置されている高台は、首里を撤退し摩文仁一帯に陣をしいた守備軍の右翼を守る要衝だったので、米軍とのあいだで激しい争奪戦が展開され、おびただしい数の戦死者がでました。
この大獅子は、その激しい戦闘のただ中にありましたが、幸い破壊されることなく現在に至っています。この大獅子は、火除け(火返し)として琉球王朝時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものです(高さ141cm 長さ175cm)。沖縄各地にある村落祭祀上の目的で作られた獅子の中でも最古のもので、民族資料としても貴重なものであるといわれています。1974年には沖縄県指定有形文化財に指定され,今は町のシンボル的存在となっています。
「富盛の石彫大獅子」
『富盛の石彫大獅子』の全景です。
『富盛の石彫大獅子』の案内板です。
昼頃まとまった雨が降り、以降断続的に小雨交じりの天候の中、出来る限りの急ぎ足で各慰霊塔を巡って参りました。
八重瀬岳に到着した時点で5時をまわり、辺りも曇天という事もありかなり暗くなって参りました。慰霊と撮影を終えた時点で5時50分となりましたので、慰霊塔巡りも打ち切りとしました。
かけ足ではありましたが、かなりの箇所を巡ることが出来ました。雨の影響がなければ、あと二カ所ぐらいは回れたかもしれませんので、その点が残念でした。雨が降って比較的気温も低いのですが、さすがに沖縄だけあって車での移動は常にクーラーを動かしながらの移動でした。
当初予想したように、各慰霊塔は管理が少しばかり行き届いてないという印象を受けました。慰霊塔の損傷も熱帯性の気候や台風の度重なる襲来で、至るところで破損していたりしてダメージを受けていました。これら慰霊塔は、悲惨な沖縄戦の貴重なモニュメントとして、長く大切にしていかなければならないという思いを強くした慰霊碑巡りでした。