平成18年(2006年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月18日(土) 第33回金光教沖縄遺骨収集奉仕参加

金光教遺骨収集奉仕の初日は、一年ぶりに再開する参加者とのご対面を控え、何かワクワクするものがありますよね。毎年初参加の方々もいらっしゃいますが、常連さんとの再会は特に嬉しいものです。具志さんも元気に参加されていました(^o^)。お年はリストによれば88歳なんですね。いつまでもお元気で参加されることを祈りたいですね。

一番遠い所から参加しているのが、北海道かのGさんでしょうか。毎年参加されていてお清め班で頑張っています。色々とご指導を願っているKさんやHさんも、例年通りご参加されていました。

この日皆さん共通の思いで参集し、二日間共に山野を歩いて御遺骨を探す訳ですからね。この二日間は大きな家族の一員になったような気分にさせられるのは、おそらく私一人ではないと思いますね。

金光教の遺骨収集奉仕ですから、信者さんが一番多いわけですが、ご遺族の方々や沖縄在住の一般参加者もいらっしゃいますし、他の宗教団体に所属している方もお見えになります。門戸を大きく開いているのが、金光教の遺骨収集奉仕団といえるでしょう。

昨日一緒に遺骨収集した4人のメンバーも、今日から合流させて頂き、二日間共に活動することになります。朝8時30分も経過して、テントの回りは瞬く間に人々で埋まりました。私も多くの方々と朝の挨拶を交わさせて頂き嬉しかったですね。

初めてご挨拶できた方が金光教教師の辻井さんでした。

私のホームページとリンクをさせて頂いていますが、お会いしてご挨拶をするのは今回が初めてです。聞けばすでに二度ほど参加されているとのことでビックリしましたね。東京からやってきたSさんをリーダーとする四人も、昨日の疲れも見せず元気に会場に姿を見せました。さっそく林先生のところに一緒に行き、ご挨拶させて頂きました。やはり遺骨収集に若い人たちが集うというのは嬉しいですよね。戦争の残像をつぶさに見聞してもらい、回りにいる多くの人々に戦争の悲惨さを語り伝えてほしいものです。

今年も平和祈念公園内、慰霊奉賛会事務所前に現地本部テントが設営されます。現地での最初の仕事は、参加者が協力してこの現地本部テント設営から始まります。大勢で作業すると二つのテント設営などあっという間ですね。こうして現地のハード面での態勢が整いますと、摩文仁岳山頂に向かって朝の御祈念をいたします。

それから、主催者代表として金光教那覇教会の林先生の歓迎の意を含めたご挨拶と、収集に際しての諸注意事項などのお話がありました。プリントされた名簿によりますと、今年の参加者は71名です。例年追加の方がいらっしゃいますので、全参加者は70余名という事になりそうですね。

朝の御祈念とミーティングが終わりますと、ここからは各班により分かれて遺骨収集現場に向かうことになります。私は1班として行動する予定でしたが、前日発見した不発弾の処理の下見に、警察の担当者がお見えになるということのようで、私が案内役となり、不発弾のある場所まで案内することになりました。

朝の御祈念とミーティング

遺骨収集の様子1

最初に摩文仁岳山頂に向かって、朝の御祈念をおこないました。背後の白い建物が慰霊奉賛会事務所です。

遺骨収集の様子2

金光教那覇教会の林先生のご挨拶の様子です。若い方から御年配の方まで、全国から70余名の参加がありました。

遺骨収集の様子3

金光教那覇教会の林先生です。

遺骨収集の様子4

写っている日米の参加者の皆さんは、全員経験豊富な方々ばかりですね。

遺骨収集の様子5

東京からやってきた若者4人です。一番左がリーダーのSさんです。そしてUさん、Nさん、Mさん。18歳から27歳まで。若さに期待したいですよね。

警察の方が一人お見えになり、さっそく歩いて園内の国立戦没者墓苑の方向へ歩いていきました。本来なら自衛隊の爆発物処理班もよこしたかったのですが、土曜日であり連絡がスムーズに運ばなかったようで、警察だけ来たという事のようです。

国立戦没者墓苑前からジャングルに分け入りましたが、50メートルほど前進したころでしょうか。警察官の方も、ジャングルを前進することに不安を覚えたのか、あとどれくらい先にあるのかと聞いてきたので「あと250メートルぐらい先だと思います」と答えました。

さすがにその行程の状況を把握しながら進むのは厳しいものがあると思われたのか、後日爆発物処理班と一緒に来るようにしたほうが良いと語り、結局現場まで行くことを断念しました。という訳で、私は警察官を見送った後、Hさん運転の車に乗せて頂き、1班が探している具志頭の海岸へ向かいました。

具志頭海岸での遺骨収集を開始!

具志頭海岸の駐車場まで、Hさんに送り届けて頂きました。時刻も10時を回っており、私も皆さんと合流すべく急いでジャングルの方向に歩みを進めました。まだ遠くへは行ってないだろうと思っていましたが、先に到着した1班の皆さんは、意外に海岸に近い場所で探索していましたので安心しました。

早速声を掛けさせて頂くと、他のメンバーもこの周辺部にいるとの話でしたので、私も他のメンバーが見える範囲を探索しました。昨年もこの海岸線を探索しましたが、ジャングル内部に入ってみると、摩文仁に同じようにかなり入り組んだ山肌となっていますが、内部に潜り込めるような壕は少ないですね。

具志頭は、沖縄県知事であった島田氏が荒井県警察部長と共に、戦没したといわれているところです。いまだ両氏の戦没地は特定されていません。

摩文仁から海岸づたいに逃げてきた敗走兵や避難民にとっても、ここ具志頭は厳しい場所でした。何故なら、ここから先はジャングルではなく平原となっており、命を守ることのできる隠れ場所も限られているからです。ここから先にある港川地区はすでに米軍の前線基地が設けられており、そこを突破して知念村方向に行くことはほとんど不可能でもありました。

米軍沖縄本島上陸は、4月1日午前8時30分、読谷・嘉手納・北谷海岸一帯に上陸を開始しましたが、ここ港川地区は米軍の沖縄本島上陸作戦時に陽動作戦として、あたかも湊川に上陸すると見せかけた場所でもありました。

それ故に、陽動作戦時には地形が変わったのではないかといわれるほど、膨大な砲弾が港川地区に打ち込まれたといいます。

いずれにしても、ここから先へ進むことも出来ずに具志頭のジャングル内に留まっていた避難民に対し、米軍は容赦なく激しい艦砲射撃を繰り返し、膨大な人々が死傷したといわれています。

ここ具志頭の海岸には、それら米軍の砲爆撃の不発弾などを目にする部分がありますが、その場所を見るたびに心は痛みますね。

ちょうどそこの場所に、辻井さんや東京の若手4人が居合わせたので、周辺部にある不発弾などの残存状況を見て頂きました。

一カ所にかたまってある銃弾などと同じ大きさの鉄片がたくさん集積してある場所があります。これは不発だった溜散弾が何らかの理由で、内部に詰められた鉄片が露出したものと思われます。

この溜散弾の殺傷率は非常に高くて、避難民に恐れられていました。空中で溜散弾が爆発すると、伏せれば被弾面が広くなるなどからわかるように、頭上で爆発すればまず逃げ場がありません。
また、岩陰に隠れたとしても、跳ね返りの被弾を受ける可能性も高いわけです。いずれにしても、爆発と同時にこの鉄片が四方に吹き飛ぶわけですからね。実際に、それら鉄片が岩に突き刺さっている様子なども見ることが出来ます。

それらが自分達が隠れている近くで炸裂したら…。戦争の残虐さを改めて痛感し、彼らも言葉少なに戦争の傷跡を眺めているだけでした。

近くには、都合よく風葬の場所があることから、風葬の骨と御遺骨との違いについて把握してもらうべく、案内することにしました。そこは海岸から少しジャングルに入ったところにあります。歩いて50メートルぐらいの距離です。

少しジャングルを入ると切り立った崖に出くわしますが、切り立った崖の横穴部分を利用して風葬の場所としています。写真は、つぎのところで紹介しますが、ここは極めて珍しいのですが、瓶が壊されずに残っているのです。

遺骨収集で数多くの風葬場所を見てきましたが、割れていない瓶が安置してあるのはこの場所だけでした。ここ具志頭も相当な砲撃を受けたにもかかわらずです。その点が実に不思議でなりませんね。

具志頭海岸線での遺骨収集の様子

遺骨収集の様子6

「具志頭」は島尻の東端に位置するのが見てとれますね。

遺骨収集の様子7

具志頭の海岸線の奇岩の様子と、今は樹木で覆われている傾斜地の様子。

遺骨収集の様子8

なだらかな傾斜地部分も中にはいるとご覧のように崖があったりと地形は複雑です。

遺骨収集の様子9

空中で爆発し内包している鉄片を四散する溜散弾の不発弾が、何らかの理由で分解したものと思われます!。非人道的な極めて殺傷性の高い爆弾で、避難民から恐れられていました。頭上で爆発したら、伏せてもほぼ全員が即死或いは重傷を負う事態に至るでしょう…。

遺骨収集の様子10

上記写真の溜散弾の鉄片のひとつが岩に突き刺さった様子です。人体などは容易に貫通する破壊力がありそうです。

遺骨収集の様子11

現在も使われていると思われる祭場の様子。壕内はどのようになっているのか…。

遺骨収集の様子12

こっ怖いですよね。昔の『風葬』の風景です。頭骨も見えます…。瓶が破壊されずに残っているのは極めて珍しいです。戦後設置されたものかも知れません。

午後も具志頭海岸周辺部で遺骨収集

具志頭園地の海岸で昼食を食べた私達は、少し移動して養魚場の脇にある斜面を探索することになりました。広い地域ではないということで、私と東京から来た若手4人組と一緒に入ることになりました。

養魚場の建物内にいた従業員さんらしき人に、敷地内を通行させて下さいとのお願いをして、了解されたので池の畔を歩きながら目的とする傾斜面に向かいました。

それほど傾斜も急でなく、また隠れるような岩間もなく探索は、意外と早く終えてしまいました。遺品らしきものも発見されず、予定した探索範囲の端部に達したので、濱出先生と連絡を取り、再び海岸線で探索している他のメンバーと合流することになりました。

この具志頭海岸に行く道路を隔てた反対側の海岸線は、昨年も探索しましたが、違う方向から入るとまた違った印象を受けるのが不思議ですよね。

ここは、摩文仁から続く海岸線のジャングルに終わりを告げる場所です。港川方面に進もうか、摩文仁に戻ろうかと進退窮まった避難民に思いを馳せ、岩陰や壕内の探索を続けました。

範囲的には決して広い場所ではありませんし、過去何度も探索している場所ではあります。しかし、一年ぶりという事もあるでしょうが、何度入っても同じ所を探索しているというイメージは薄いですよね。樹木も年々生長しているし、風雨の影響もあるでしょうし、なによりも私達自身の老人力が年々パワーアップしていますからね。(笑)

限られた時間の中で、私も出来る限り精力的に遺骨を探し求めました。付近で一緒に行動している東京4人組も、明日は東京に帰るという事で、終日頑張ってクマデを動かしていましたね。

具志頭海岸線での遺骨収集の様子

遺骨収集の様子13

ジャングルも無くなってしまった具志頭海岸線の平原部から摩文仁方面を見ています。

遺骨収集の様子14

ジャングル内部の様子です。

遺骨収集の様子15

ジャングル内部の様子です。根なのか茎なのかハッキリしてほしい。

遺骨収集の様子16

小さな壕の入り口が見えます。かなり複雑な構造となっていました。

日本軍の陣地壕を見学

探索作業を終えた後、本部テントに戻る前に、この近くにある病院壕だった所を訪ねようという話になりました。遺骨収集奉仕では、遺骨を探すことが使命ですが、近くにある戦跡や著名な壕などを訪ね慰霊をするというのも同時に行いたいですよね。というわけで、車ですぐの所にある壕を皆で訪ねました。

見学してみて驚いたのは、とにかく巨大であるという点ですね。それから迷路のように通路が走っていました。長さが100メートル以上ある巨大な空間部は、おそらく太古の時代から自然に出来あがった空間だと思いますが、その空間から横に移動するのに複数の横穴がありました。これらはすべて戦時下での必要性から、順次掘り進められたものだと思われます。

病院壕としても使われ、戦況の悪化と共に更に南部に撤退していったという話です。病院壕だとしたら、戦況の悪化で撤退した際には、重症患者はここに居残り、青酸カリなどで自決を強要されたかもしれません…。すでに収骨などは完全に終了しており、戦時下の面影はほとんど見うけられませんが、壕入り口に献花などが置いてあったのが印象的でした。

日本軍の巨大な陣地壕

遺骨収集の様子17

大きな岩山の中が巨大な壕になっていました。

遺骨収集の様子18

ここが壕の入り口となっています。人間が楽々入っていける間口でした。

遺骨収集の様子19

内部は巨大な空間となっていました。この空間は掘ったものではなく、自然に出来た空間だと思われます。

遺骨収集の様子20

なぜ仕切られているのか解りませんが、枠はセメントらしきものが使われてました。

遺骨収集の様子21

仕切られた部分から先に進めます。まだまだ奥へと続いているようですよ。

遺骨収集の様子22

空間の高さや幅が少し狭くなってきていますが、まだまだ奥へと続いています

遺骨収集の様子23

再び広い空間に出てきました。全長は100メートル以上あると思われます。

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