平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月27日(土) 八重瀬町具志頭及び糸満市摩文仁で調査・遺骨収集

今日の天気予報は曇りです。降水確率午前午後共に20%です。雨の心配がないというのは救いです。最高気温は17度の予報ですから、昨日に続いて沖縄としては冷え込んでいますね。今朝の慰霊巡拝は、「沖縄師範健児之塔」そして「南冥の塔」「チンガー/金井戸」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^) 

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.1

「沖縄師範健児之塔」に向かう参道に写真の緋寒桜がありました。まだ満開にあらずという状態でしょうかね。二十年三十年とこの場で育つ緋寒桜を見守り続けてきましたが、近年は元気がありません。かつて勢いよく咲き誇った樹勢と比較して何十分の一程度に花数が減っています。考えるに樹勢が衰えた原因として、①ご覧のように株の周りは階段となっており、コンクリートで固められている為に、根が十分に水分を吸えない。②台風が襲来した場合、この場所は遮蔽物がなく、海から強烈な塩を含んだ風が吹き付け、枝葉が深刻なダメージを受ける。

「沖縄師範健児之塔」

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.2

駐車場に車を留め参道を降りていくと、70メートルぐらい進んだ所にトイレ休憩所があります。そのトイレ前の道が三叉路になっており、「沖縄師範健児之塔」に行く道、「南冥の塔」に行く道、そして海岸に到る道(途中「金井戸」という湧き水が出ている場所あり)の三方向に分岐しています。この分岐から更に50メートル程進むと、眼前にご覧のように「沖縄師範健児之塔」が見えて来ます。一昔前は、樹木が生い茂り、一人で訪ねるのが憚られるぐらい鬱蒼として暗く陰気な雰囲気でしたが、現在は樹木も伐採され明るい雰囲気となっています。

ちなみに「沖縄師範健児之塔」があるこの場所は、摩文仁のハンタ原と呼ぶ場所にあります。原という名がついているので原っぱになっているのかという事になりますが、さすがに農業が出来るほどの原っぱはありません。遠くから見ると平らなように見えるというレベルでの平坦さです。巨大な岩がゴロゴロありますから、とても平らな場所とは思えないかも知れませんが、周囲が隆起した岩場だらけですから、目の錯覚か原っぱであると見えてしまうのです。その例えは「黎明之塔」から展望して頂ければ一目瞭然だと思います。但しこれは「黎明之塔」から、つまり遠くから俯瞰した情景であり、その「原っぱ」に降りてみれば岩場だらけですから、その場に立てば、例えば北アルプスの剱岳八合目を登っているような印象を持つかもしれません。(^^;)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.3

昭和25年(1950年)6月に建立された「沖縄師範健児之塔」ですね。沖縄師範学校の野田貞雄校長ほか、戦没職員17名、生徒289名、計307名を祀っています。ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善氏は、若人の死を悼み次のように詠みました。

南の 巌のはてまで 守り来て 散りし龍の児 雲まきのぼる

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.4

沖縄師範学校男子部は、昭和20年3月31日に、職員も含めて386名全員が軍名により動員されました。386名の生徒達は鉄血勤王師範隊を編成し、本部、切込隊、千早隊、野戦築城隊、特別編成中隊を組織し、4月1日より守備軍司令部と共に作戦に参加しました。負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担いました。そして5月下旬より戦況不利になると司令部と共に南部地区へ撤退し、最終的にこの摩文仁の壕まで退却しました。6月19日軍解散命令の出たあと敵軍に斬り込む者、この壕内で自決する者など、多くの犠牲者を出しました。また奥に見える立像は「平和の像」です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.5

仲宗根政善氏の詩です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.6

こちらも詩が詠まれています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.7

沖縄師範健児之塔の由来と鉄血勤皇師範隊の編成が書き記されている碑です。

【沖縄師範健児之塔の由来】

この塔は、一九四五年の沖縄戦で散華した沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものである。

鉄血勤皇師範隊は、三月二十一日沖縄守備軍の命令によって編成された。以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地まで勇戦奮闘し三百十九柱の職員・生徒を失った。誠に痛ましく断腸の思いである。

時は流れて一九四七年、幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発起した。戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、一九五〇年五月二十五日この塔を完成した。

【鉄血勤皇師範隊の編成】

本部(隊員一六名 戦死一三名)
師範隊の指揮、軍司令部との連絡調整、食料の調達および師範隊の炊飯を担当

情報宣伝隊(隊員二二名 戦死九名)
千早隊とも呼ばれ、軍の情報や戦果の宣伝活動、占領地へ潜入して地下工作活動など

斬込隊(隊員五七名 戦死四六名)
菊水隊とも呼ばれ、敵の背後斬込みによる後方攪乱、軍司令部の歩哨勤務、負傷者の搬送など

野戦築城隊(隊員二四三名 戦死一二二名)
陣地構築や対戦車壕の敷設、主要道路や橋梁の補修や祖絶、弾薬や食料等の搬送など

特別編成中隊(隊員四八名 戦死三六名)
野戦築城隊から選抜して編成され軍司令部護衛、急造爆雷による対戦車攻撃など

現地入隊(隊員七五名 戦死六四名)
一九歳に達した学友が三月一日現地部隊に入隊

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.8

沖縄師範学校の沿革が書かれています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.9

台座部分には戦没者氏名が書かれた銘板が埋め込まれています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.10

平和の像の右下にご覧のように、初代沖縄師範健児之塔がひっそりと建っています。なぜ初代の健児之塔はここに建てられたのかなと思ったら、この小さな碑とも呼ぶべき塔の下に沖縄守備軍管理部の壕があるからなんですね。

この初代沖縄師範健児之塔は、終戦後の旧真和志村(現那覇市東部)村長に就任した金城和信氏が、昭和21年(1946年)4月に「ひめゆりの塔」「魂魄之塔」と共に建立したものですね。金城氏は沖縄戦で最愛の娘二人を失った事もあり、戦後の混乱期にも関わらず、慰霊塔(碑)の建立と、遺骨収集を含めた戦没者の慰霊活動に全力で取り組まれた方です。

「平和の像」

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.11

「平和の像」です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.12

「平和の像」です。この像は、九死に一生を得て戦場から生還した沖縄師範学校生であった大田昌秀氏、外間守善氏、安村昌享氏らが、後に自らの戦場体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行し、それが松竹により映画化された際の印税などを元に、大田氏が中心となって製作建立したものだそうです。像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

ちなみに立像の下に碑の説明文があるのですが、ちょっと全文の判読は難しいです。中途半端な形ではご紹介できないので、いつの日か「平和の像」か改装されて碑文が新しく掲示されたらご紹介させて頂きます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.13

「平和の像」の裏に周って背後の風景を撮影しました。つまり裏手は崖になっているのです。崖下にはもう少し左側になりますが、小さな壕があって師範学徒隊生徒もその壕で亡くなられたという話です。今からその下の壕に降りてみますからね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.14

「平和の像」の後ろ側に回るとご覧のような風景になります。小さな壕なのですが開口部は大きいです。壕口は東を向いています。壕口は海上に展開する米軍からは見えません。また米軍機が上から見ても壕口があるとは絶対に見えないはずです。そして階段のある側は巨岩がそびえ立っていますので、「黎明之塔」がある上部からも壕口は全く見えないという実に素晴らしい場所にある壕だと解ります。また壕内はL形になっていて、直撃弾を浴びる可能性も低いです。ここは絶好の避難壕だと感じました。この壕内で昔、遺骨収集をやった事がありまして雑骨が多数発見されました。その時に頭に浮かんだのは、この壕で亡くなられた将兵はナパーム弾にやられたのだろうなと考えました。

ちなみにこの壕がある場所に注目です。と言いますのも「平和の像」横にある階段を登っていくと、摩文仁における第三十二軍司令部壕があります。またこの壕から下に目をやると、40メートルぐらい先には司令部の炊事等を行う第三十二軍関連部隊が入っていたと推測されるとても大きな壕があります。私と吉井さんで確認していますが、立哨兵が立っていたと思われる石組みで造作された半坪ほどの平坦な地面が、周囲の風景に不自然なほどキチンと整地されていた事から、二人でそのように推測しています。話が少しそれましたが、当然重要なその二つの壕を伝令や食料や水を調達するために将兵が行き来したと思われますが、その行き来するルートの途中にこの学徒隊が居た壕があり、これは単なる偶然ではないと思われます。鉄血勤皇隊師範隊の特別編成中隊の任務には、軍司令部護衛というのもあったと書き記されていますのでね。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

これは摩文仁の第32軍司令部の洞窟から見た状況ですから、「直径十数メートルの泉」とは、チンガー(金井戸)を指しているのは間違いないでしょう。また「その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある」と書かれていますが、チンガーの周囲にある巨大な壕とは、私が指摘する壕以外には見当たりません。炊事場というのは第三十二軍司令部の炊事場という事になろうかと思います。現在この学徒隊が居た壕の上はコンクリート製の階段が整備されていますが、沖縄戦当時も上の司令部壕まで登りやすい地形ではなかったかと推測されます。私も実際の階段の両側で遺骨収集をやった事がありましたが、現在の階段ルートが一番上りやすいルートであると認識した事を覚えています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.15

「平和の像」の下の壕内の様子です。ブロックで仕切られた内部は納骨堂になっています。ブロック塀は岩の下に積み上げられている関係で工事の仕上がりが甘く、上端がキチンと埋められていないため納骨堂内部を容易に見られるのです。ですから定点観測のつもりで、ついつい中を見てしまうのですが…。

納骨堂内部に就いては、30年ぐらい前は満杯レベルで大腿骨や頭骨など大きなご遺骨が山のようになって納められていました。しかしながら近年は地面が見えるぐらいに激減しています。推測するにご遺骨は土の中にあるよりも、一定の湿気がある空間にある方が微生物分解による滅失が早いのではないかと感じます。空間の湿度がカラカラに乾いていれば別でしょうが、この壕内の納骨堂は、この壕内の一番低い部分に設置されていますので、恐らく台風などの大雨の時は水浸しになる可能性もあると思われます。比較的乾燥しているこの時期でも、ここに入ると湿気を感じるぐらいですからね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「南冥の塔」

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.16

駐車場から100メートルほど階段を下っていくと、ご覧のような案内石塔が見えますので、案内に従って右折していきます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.17

キチンと整備された歩道がありますので、夏などでもハブ等の出没を気にすることなく参拝できると思います。写真奥に「南冥の塔」があります。

突然ですが皆様、この道が無い状態、つまり左右の木々が鬱蒼と茂る状態が画面一杯に連続しているというイメージで見て頂けますか。金光教那覇教会の林先生によりますと、金光教がここ摩文仁で遺骨収集を始めた今から40数年前の頃は、この道は無かったという話ですよ。ですから林先生も、まさかこの奥に慰霊塔があるなんて長く気づかなかったと言います。私達が車を止めた大きな駐車場横にあるお土産屋さんを経営されていた、前門キヌさんという方に案内されて初めて林先生は「南冥の塔」の存在を知ったそうです。その頃の前門キヌさんは「南冥の塔」の墓守をしていたのです。人との縁が繋がって道が開けるという良い事例ですよね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.18

歩道を突き当たると碑の説明掲示板があり、右上に「南冥の塔」が見えてきます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.19

歩道突き当たりには、ご覧のような南冥の塔説明文が設置されています。この説明文も新設されたものですが、すでに結構汚れていますよね。季節によってはスコールと呼ぶべき強い雨も頻発したりしますから、亜熱帯に属する沖縄は年間を通して厳しい環境にあると言えるかもしれません。本文はギリギリ読めますが、テキストに起こしてみました。(^o^)

【南冥の塔解説文】

沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。 この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を集骨して建立されました。 現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。 ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。

内閣府沖縄総合事務局 

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.20

「南冥之塔」です。平成26年に改築新装なって、真新しく精々しい雰囲気となっていますね。ところで那覇教会の林先生が、沖縄に点在する慰霊塔の前で慰霊祭を最初に行ったのが、この「南冥の塔」だったそうです。慰霊祭の依頼者は、この慰霊塔の墓守をしていた前門家のキヌさんでした。という事で金光教の遺骨収集奉仕活動とこの「南冥の塔」とは、切っても切れない縁があると言えるでしょう。

林先生は、毎年6月23日の沖縄戦終結の日に合わせて、ここ「南冥之塔」で慰霊祭を仕えられています。前門キヌさんに「南冥之塔で慰霊祭をぜひ…」と相談を持ちかけられたのが昭和51年、今から43年前の話という事になります。これ以降林先生による「南冥之塔」での慰霊祭は、現在まで途切れることなく続けられているそうです。毎年本当にお疲れ様でございます。

国立の墓苑は日本全国で千鳥ヶ淵と摩文仁の二カ所しかありませんが、この「南冥の塔」もなんと国立墓苑に指定されており、それがために、林先生が祭主を務める6月23日挙行の慰霊祭には、国の出先機関である内閣府沖縄総合事務局長名で生花が届けられるそうですよ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.21

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.22

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、摩文仁を立ち去るにあたり、刻み込んだ碑文は次の通りです。

「銃とらぬ諸人の 御霊永遠に神鎮まりませと 祈りつつ吾れ 此の碑を捧げまつる
一九五四年九月拾四日 沖縄戦参加一米兵」

日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が、沖縄戦の渦中、日本軍を掃討するため摩文仁で作戦を遂行中に、赤ん坊の泣き声がするので、声を頼りに辺りを探してみると、砲弾に打たれ死んでいる母親の血塗られた乳房をまさぐりながら、飢えて泣いている赤ん坊が居たそうです。しかしながら掃討戦の作戦遂行中であり、手当もせずその場を立ち去ったそうです。

やがて戦争も終わり、除隊となって郷里に戻りましたが、その時の光景がたびたび夢に出てくるというのです。それでいたたまれず、単身沖縄にやって来て、前門家の庭にテントを張らせてもらい、現在の南冥之塔がある一帯で遺骨収集を一ヶ月ほど続け、ご遺骨を塔の横にある壕に納めたそうです。

ところで、金光教の遺骨収集奉仕活動の運営を一手に担っていた運営委員会時代に、この解説文に書かれている、日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏を、米国からお招きして、南冥之塔前で慰霊祭を…。という動きがありました。

もう何年前になるでしょうか、おそらく25年以上前であったと記憶していますが、少し記憶がぼやけてきています。いすれにしてもヤマモトタツオ氏招聘の足掛かりを掴むべく、米軍及び米軍軍属の方々の、金光教の遺骨収集参加を一元的に任されていた、米軍軍属のブレブル松枝さんという方を通して、米国で新聞投稿をして広く情報を求め、そしてついに日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏の所在を突き止められたそうです。 しかしながら、その結果は…。

ヤマモトタツオ氏ご本人は、戦闘疲労症(PTSD)になっており、「訪問は止めてほしい」と、ご家族の方が直接語られたと聞いております。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.23

「南冥の塔」の左手には、ご覧のように口を開けた壕があります。内部も相応の広さがあり、沖縄戦当時は多くの人々が避難していたものと推測されます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.24

壕入り口です。結構大きな入り口ですから擬装は難しかったかもしれません。現在の「南冥の塔」は大きな樹木で覆われており、海は見えにくくなっていますが、樹木がなければ海上にいる米軍艦船からこの壕口ははっきりと見えたはずです。

余談ですが、写真右隅に「洗濯バサミ」が二個見えますでしょうか? 実は数年前まで、この壕に住み着いた老女が居たのです。洗濯バサミは老女の洗濯物を干した跡なのです。ちなみにその老女と立ち話もしました。知念半島にお住まいがあるそうです。霊を守っているという趣旨の話はしてくれました。が、なぜこの壕や海岸で生活しているのかという理由は聞きそびれてしまいました。私はこの壕で一夜を明かせと言われたら逃げ出しますが、この記事をご覧になっている皆様は如何ですか、電気を引けば、この壕に住むお気持ちはありますか。(笑)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.25

壕の中の様子です。幅は狭いですね。奥行き25メートルといったところでしょうか。日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏も、最初は集めたご遺骨をこの壕の中に安置したそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.26

壕入り口の左側には、個人等の慰霊碑も複数建立されています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.27

「南冥の塔」から海側を見た様子です。は大きな樹木で覆われており、海は見えにくくなっていますが、樹木がなければ海上にいる米軍艦船からこの壕口ははっきりと見えたはずです。

※「南冥の塔」の背面巨大な岩が鎮座していますが、同塔の右側10メートルほど右側には、国吉さんにより発見されたこの約7000年前の遺跡「摩文仁ハンタ原遺跡」があります。国吉さんは、ここ以外にも何カ所か古代遺跡や古代人の人骨、その他化石などを発見していると語っていました。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子28

国吉さんにより発見された、この約7000年前の古代人の骨遺跡は「摩文仁ハンタ原遺跡」と命名されたようです。

遺骨収集の様子4

写真では解りにくいですが、たくさん化石が写されています。

遺骨収集の様子29

古代人の骨が発見された場所です。後日実施される調査の前に、第三者により遺跡を破壊されないように、土嚢が盛られていますね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.30

「沖縄師範健児之塔」と「南冥の塔」に至る分岐点には、海岸に出る事の出来るルートもあり、三叉路と呼んでも良いでしょう。その三叉路を海に向かって100メートルほど下っていくと「チンガー(摩文仁のムラガー)」がありますので、行ってみましょう。

「チンガー/金井戸川」

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.31

海岸に至る遊歩道から見たチンガーの様子です。写真奥の巨岩の下に井戸があります。その井戸から写真手前に溝が出来ていますが、これが川であり金井戸川と命名されているようです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.32

「金井戸川」と書かれています。昔はしっかり金井戸川と読めましたが、近年はご覧の通りですから、初めて見たら何と書いてあるか解読できないでしょうね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.33

チンガー(摩文仁のムラガー/金井戸)と呼ばれる井戸です。湧水量が少ないと感じますね。沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉が…」と書かれていますから、沖縄戦当時と比べて湧水量は僅かとなっています。ただチンガー背面と東側に広大で緩やかな勾配の傾斜面を有していますから、梅雨時などかかなりの水量の湧き水があるのかなと思われます。また摩文仁之丘には井戸は二カ所しかありません。もう一カ所は海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先にありまして「ワシチガー」と言います。両井戸ともに米軍に井戸の存在が知られていましたから、チンガーを含めた両井戸への水汲みは決死の行動だっに違いありません。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.34

チンガーの現在の様子です。セメント等の構築物は戦前のものか戦後のものかは不明です。昔から井戸は使わないと枯れると言われる事もありますが、正にそのような状況になっています。

沖縄戦解説本などで見るチンガーの項目では、「夜になると兵士や住民が水を求めて殺到したが、米軍による砲撃や機銃掃射で多くの犠牲者が出た。井戸の周りは死体であふれ、その死体をどけてから水をくんだ。しかもその水は血に染まっていた」という表記が為されていたりしますが、井戸の南側は小高い丘になっており、海に居並ぶ米艦船からはチンガーは全く見えません。井戸の畔に立ったとしても海からは一切姿は見えません。ですから井戸の畔に集まった人々を機関銃で直接狙撃する事は出来ません。

チンガーは死の泉として恐れられた事は間違いありませんが、米軍はチンガーの前面に哨戒艇を常駐させていたので、恐らく迫撃砲など曲線を描く砲撃が多用されたのではないか、或いはチンガーの周囲50メートルとか100メートル内に入る人影を狙って機関銃などで狙撃するという状況ではないかと推測されます。

戦後七十余年を経て、現在のチンガーの周囲は緑豊かな木々が茂っていますが、沖縄戦当時の白い石灰岩の丘陵であった事をイメージすると、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰しても、思いのほか岩などの遮蔽物が少ないです。夜間に水汲みに成功する将兵や避難民も居たでしょうが、遮蔽物が全くない傾斜面は確実に人影が曝露し、照準が合わせられている機関銃などで狙撃された可能性があります。

一方上掲文でご紹介した摩文仁にもう一カ所ある泉についてですが、チンガーから見て、海岸線に沿って東に1キロメートルぐらい行った先の、摩文仁のもう一つの井戸である「ワシチガー」は、井戸の周囲100メートルぐらいを俯瞰した場合、傾斜面は一切の遮蔽物はなく、海岸の岩場しか遮蔽物はありません。ですから井戸及び周囲の広範囲がに米軍艦艇に曝露しており、こちらの井戸の方がよほど命がけであったと推測されます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.35

チンガーのすぐ右側にある拝所です。

琉球風生け垣・植栽

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.36

摩文仁集落にある、とあるお宅のブロック塀の上に展開する生け垣を写しています。敷地内の刈り込まれた植栽も見事です。ブロック塀に沿うこの生け垣は屋根の形を模しているのですね。実に整然と剪定されています。どうしたらこんな直線を維持できるのでしょうか…。と考え込んだりしていたら、中から家のご主人が出てきて、「よろしければ中も見ていきませんか(^o^)」と声を掛けて下さいました。お言葉に甘えて中も見せて頂きましょう。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.37

お相手をして下さったのは60歳前後と思われるご主人でしたが、庭の植栽を手入れされているのは、その方のお父さんのようです。敷地内でまず最初に案内されたのがこの写真に写されている扇形に剪定された植栽です。玄関横の目立つ場所に植えられています。木はガジュマルです。この扇形を維持するのは本当に手間が掛かるし、第一難しいらしいですよ。ですからお祖父さんにとっては、この扇は一番の自慢のようです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.38

10年とか20年とかのスパンで、じっくり育てる必要があるのでしょうね。この扇形の植栽の前での立ち話が一番長かったですから、最も熱を入れて取り組んでいる作品なのでしょう。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.39

お庭の様子です。見事ですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.40

庭はL形になっていて、奥の方一帯を写しています。剪定シーズンともなると、お父さんは庭に張り付くように連日取り組まれるそうです。勿論脚立も使った危険な作業だそうですが、道楽として楽しんでやっているという話です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.41

中央付近を写しています。いや~、有り難うございました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.42

イソヒヨドリです。平和祈念公園駐車場に居ると、よく餌をちょうだいなんて感じで近づいて来ますね。本日も車に戻ると居ましたよ。(^o^)

調査・遺骨収集作業開始です

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.43

本日も昨日と同じ場所で作業再開です。まずは皆さんで戦没者に手を合わせご冥福をお祈りしました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.44

昨日は集合写真を撮り忘れましたが、本日は忘れずに済みました。写真奥右側から田中さんの娘さん、そしてお母さんである田中さん、吉井さん、福岡さん、前列右から松永さん、松永さんのお友達のHさん。豊澤さんです。今日もよろしくお願いします。それでは頑張って参りましょう。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.45

それではジャングル帯に入って行きます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.46

最短コースなのですが、比較的歩きやすい道となっています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.47

無事に現場に到着しました。作業再開です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.48

御遺骨には青いビニールシートを被せて雨対応をしてありましたが、青いビニールシートを剥がして、これから線香を手向け皆さんで手を合わせる所です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.49

御遺骨は昨日の内に完全一体のご遺骨というレベルで収骨されました。歯も3本発見に至りましたので、必要ならDNA鑑定も可能となりました。

線香と共に、沖縄独特の藁を原料とした黄色い紙に小判のような丸い刻印が打たれているウチカビを燃やそうとしている所です。ウチカビに火が付いた所で、皆さんで戦没者のご冥福をお祈りしました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.50

ウチカビはご先祖様へのお金という事だそうです。あの世で故人がお金がなくて困ることがないようあの世へ送り届けるのだそうです。一方シルカビという言葉もありまして、シルカビとは屋敷の拝みなど、神様へ御願いしたりする際に供えられるのだそうで、神様へお金(税金)を納めるという意味もあるそうです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.51

メンバーの皆さんが全力で収骨作業に取り組んだ結果、ほぼ完全一体の御遺骨と宣言して良いレベルのボリュームで収容されましたが、極めて残念ながら御遺骨の附近から戦没者とおぼしき遺留品は一切発見されませんでした。しかしながら、沖縄鍾乳洞協会の山内理事長が「沖縄戦当時の住民なら何も持っていない。周囲に軍装備があればすぐに兵隊の遺骨だと分かるが、何もなければ判断が難しい」と語られているように、何も遺留品がないというのは沖縄県民である可能性も排除出来ません。いずれにしましても、御遺骨が沖縄戦戦没者御遺骨なのか風葬骨なのか、これは私達が決めるのではなく、戦没者遺骨収集情報センターによる調査を待たねばなりません。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.52

ウチカビが燃え尽きるまで…。と誰も言いませんでしたが、不思議と燃え尽きるまで誰も動こうとしませんでした。皆さんがこの方の亡くなられた時の様相に思いを馳せていたのだと思います。

私も目の前の御遺骨を三日前の下見の時に拝見させて頂きましたが、そこでの記事で、発見されている御遺骨の特徴について、四項目挙げて、その一つに「御遺骨は極めて発見しづらい場所にあった」という感想を述べました。

金光教の遺骨収集でも青テープが入り口にあった事から、この壕内で御遺骨が発見され遺骨収集が為された事に間違いありませんが、壕の更に奥まった所にあった御遺骨発見には至らなかったようです。そうした点も加味すると、収容された御遺骨は立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーの方々。即ち洞窟探検のプロフェッショナルの人達だからこそ発見出来た可能性が大です。彼らがこの度発見しなければ、御遺骨は気の遠くなるほどこれから先も真っ暗な壕の中で過ごさねばならなかったでしょう。

そうした意味で、戦後73年ここに至ってようやく発見されたという事に思いを馳せ、立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーの方々もそうであっただろうと思いますし、収容された御遺骨を目の前にして、私達参加メンバーも発見者たる彼らと共に喜びを分かち合いたいと思います。(^o^)

ウチカビが燃え尽きた後、松永さんが「一晩考えたのだけど…」話を切り出しました。発見御遺骨の現場は昨日の夕刻に完全に収骨が済み作業終了としましたが、本日再度捜索をしたいという事でした。もしかしたら遺留品が出てくるのではないか、まだ諦めきれないし、そうした未練が募るばかりだと話して下さいました。

という事で、昨日の収骨現場を再度チャレンジして捜索します。可能性を信じて取り組ませて頂きましょう。(^o^)

再チャレンジです (^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.53

全員が昨日の御遺骨発見現場に向かいます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.54

福岡さんが先行する人が降りるのを待っているところです。こうして見ると狭い所を降りるというのが見てとれますね

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.55

現場に到着しました。作業再開です。遺留品が見つかりますように。m(_ _)m

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.56

思い思いの場所で作業を進めます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.57

松永さんのお友達Hさんが持っているのは金属探知機です。金属探知機は今次収容作業でも大活躍でした。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.58

福岡さんが作業しています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.59

吉井さんが作業しています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.60

松永さんのお友達Hさんはツルハシを使い出しました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.61

鍾乳石を写してみました。完全に乾いていますが、不思議な形状をしています。たったこれだけでも気の遠くなるような歳月を要しているのでしょうね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.62

貝の化石がありました。完全に岩に付着して外れませんでした。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.63

ご覧のように岩は全く無い状態になっています。見事に運び出されました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.64

作業が続けられています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.65

一時間程経過して、瀬戸物一片しか発見されませんでした。松永さんと皆さんが話をし合い作業終了としました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.66

唯一発見された瀬戸物の一片です。お茶碗か何かの破片と思われます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.67

残念ですが、これで作業終了です。実に立ち去りがたい思いが募ります。「何としても遺留品や記名遺品を見つけ出したい」これは松永さんの願いであると共に思いは皆同じです。こうした結末は断腸の思いであり、誠に残念な結果となりましたが、全員が持てる力を出し切りました。やるだけの事はやったのです。これで由としましょう。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.68

作業を終え来た道を戻ります。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.69

間もなく出口です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.70

作業終了となり、これまでに収骨されている御遺骨が最終的な収容御遺骨となります。今回は両端がしっかりしている大腿骨が見つかりました。大腿骨を用いて推定身長を特定出来ます。推定身長をX(cm)、大腿骨の最大の長さをY(cm)として、「X=81.036+1.880×Y」に当てはめるのです。例えば大腿骨の最大長が45cmなら、推定身長は四捨五入して166cmになるという計算です。(※計算式は複数存在しますが概ね同じ数値になりますので、私はこの計算式をファイルに入れてあります)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.71

金光教の遺骨収集でも頭骨があると、それはごく僅かな小片であっても皆さんが喜ばれていました。頭骨があるとより親近感が湧くのだと思います。こうした感慨は金光教の皆さんに限らず私達も同じ気持ちにさせてくれます。今回もご覧のようにと頭骨が二片が収容されましたので、喜びはひとしおです。

昨年の遺骨収集で、私達が真喜志氏の御協力で発見した完全一体のご遺骨は、村本福次隊長だったと前にご紹介しましたが、隊長の御遺骨について、二本ある上腕骨のうち片側上腕骨の三角筋粗面という部分に、赤い錆が付着していました。ですから腕に少なくとも貫通しなかった銃弾とかが入ったまま亡くなられた可能性が大です。村本福次隊長の死因がその上腕骨に関係している可能性も又大ですね。今回発見された目の前にある御遺骨には、そうした表徴はありませんでした。御遺骨が四散してないので、少なくとも手榴弾などで自決はしていないと言えるのみです。

御遺骨が男性であるか女性であるか識別は出来るようです。推定年齢もパーフェクトではありませんが、かなり高精度で推定できるといいます。警察の鑑識は白骨化した死体について、主に頭蓋骨と骨盤(仙骨を含む)で男性女性を判定しているそうで、特に骨盤については女性のみ子供を産むという生物学的な違いが顕著なので、細かい点で違いが明瞭なのだそうです。

しかしながら、私もそうした男女判別資料は、いつも人体骨学図譜と共に現場に携行するのですが、男性と女性の骨盤を同時に並べて比較しない限り無理です。つまり私達のようなアマチュアには相対的な比較が出来ない環境で、頭蓋骨や骨盤を見て男女判定するのは無理だと感じています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.72

この方がどの様な方なのか明らかにする為に、この方を故郷にお帰り頂く為に、是が非でも遺留品や記名遺品を見つけたかったのですが叶いませんでした…。とても残念ですし誠に申し訳ない思いで一杯です。悲しくも沖縄国立戦没者墓苑に納骨されている無名戦士の列に加わる事となるのでしょう。

もう一つの壕調査と遺留品回収

昨日下見したもう一カ所の壕、そこには遺留品が沢山ありましたので、全員で壕内部にある遺留品を外に出す事になりました。なぜ遺留品を壕の外に出すのか。それは壕内部に遺留品があると、他の団体が後から壕に入って、同じように収骨作業や遺留品の収集作業をする可能性があるという事で、結果としてこれは二度手間になる。そうした二度手間の無駄な作業時間を、他の未知の壕作業に時間を投入してもらえば、それだけ沖縄の山野に未だ存在する未収骨戦死者の収容に繋がると思うからです。今回は御遺骨を探すための作業時間はほとんど無用の小さな壕なので、こうした作業が無理なく行えるという事情もあります。

もう一つの壕調査と遺留品回収

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.73

松永さんを先頭に、いや私が先頭かな(笑) もう一つの壕調査と遺留品回収に向かいます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.74

ここが壕口です。陽射しが強いため暗く見えますが、かなり狭いですね。穴というよりも割れ目と言った方が良いかも知れません。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.75

さすが細身の田中さんはスッと入っていきました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.76

やはり男性陣は無理矢理入って行ったという感じです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.77

ご覧のように匍匐前進しなければならない場所も若干あります。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.78

遺留品がある目的の場所に到着しました。一番奥に松永さんが居ますが、そこに日本軍将兵が数名滞在したと思われます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.79

豊澤さんを始め、皆さんが自分の作業場所を見いだそうとしています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.80

皆さんの配置が定まりました。作業開始です。この壕は収骨済みであるのは間違いありませんが、まずはご遺骨がないかも含めて状況を確認します。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.81

写真では解りにくいですが、火を燃やしたと思われる場所もあります。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.82

細かい遺品が沢山見つかりますね。やはり御遺骨は見つかりません。ほとんど埋没していません。現況の地面がそのまま沖縄戦当時の地面となりそうです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.83

ご覧のように、よく見ると一つの空間だけでなく、狭いですが枝分かれしたような空間があるのが見てとれますね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.84

5メートルぐらい奥行きがありました。床面を見ましたが、遺留品は無いようです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.85

田中さんが作業しています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.86

田中さんが、兵隊さんが着用していたボタンがあると見せてくれました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.87

凄く錆びた鉄製品が多いですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.88

これはいわゆる一斗缶ですね。沖縄戦当時も一斗缶というのは有ったのですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.89

大の男が5人と女性1人、中は一段と狭くなっています。(^^;)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.90

缶詰の缶だと思われます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.91

薬莢ですね。先が曲がっている事から、火をおこすために火薬を抜いたのかも知れません。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.92

意外と複雑な形状をした壕です。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.93

ここで行き止まりですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.94

田中さんです。田中さんと写真を写している私との距離は約4メートルです。立てませんが結構な空間があります。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.95

壕内部の調査を終え、全員が壕口に向かいます。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.96

間もなく壕口です。

壕周辺部を短時間ですが調査しました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.97

壕から出てみると、周囲は巨岩が連なり複雑な地形をしている事から、皆さんが少し探してみたいという話になりまして、周囲を少し調査しました。福岡さんが立っている場所も避難民が隠れていたような雰囲気ですよね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.98

吉井さんが穴の中を見ています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.99

皆さんが集まっていました。遺骨があるという事でよく見たら動物の骨だったようです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.100

動物の骨ですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.101

ここにも金光教の青テープがありました。この壕と呼べない窪地で、御遺骨が発見されたのですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.102

収骨現場に戻りました。この地域での作業が全て終わりましたので撤収です。皆さんお疲れ様でした。印象深い作業でした。そして戦没者遺骨収集情報センターや八重瀬町役所担当部署の皆様のご協力により、滞りなく作業を終える事が出来ましたし、事故も無く切り上げる事となり良かったですね。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.103

色んな資機材があるので、手分けして持って上がる事になります。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.104

福岡さんも両手一杯ですね。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.105

田中さんも両手持ちですね、お気をつけ下さい。さあ出発です。(^o^)

お昼ご飯ですよ (^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.106

お昼は毎年何度かお世話になっている、ひめゆりの塔の向かいにある「ひめゆりそば」屋さんで頂く事にしました。場所が場所だけに、観光客が多そうですが、思いの外観光客の方は少なくて、地元の方々が多いという印象を受けますよ。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.107

今日はテビチを頂きま~す。(^o^)

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.108

「ひめゆりそば」さんで昼食を頂き、外の駐車場に出ましたら、「ひめゆりの塔」前の生花販売所に居られるおばさんが、「こっちこっち」と大声と共に手で合図するので生花販売所まで行くと、「これ皆さんで食べて」と色んな食べ物を頂きました。沖縄滞在中「ひめゆりそば」さんに何度か立ち寄るので、私達メンバーを覚えて頂いたようです。有り難うございます。皆さんで分けて頂きます。おばさんもお元気でお過ごし下さい。今日は最後のお店訪問となりますので、また来年もお目に掛かりましょう。(^o^)
※HP写真掲載の許諾を得ています。

「ひめゆりそば」さんで昼食を頂きました。満腹となりお店で至福の一時を過ごし、また参加メンバーで雑談に花を咲かせたりもして、マッタリと過ごした後お店を出ました。具志頭で二日間に亘って大仕事を終えた後なので、こうした休息もまた由としましょう。

午後の作業はと言いますと、午後は摩文仁之丘で調査・遺骨収集作業を行う事になりました。平和祈念公園駐車場には午後二時半に到着しましたので、短期集中で探したいと思います。

摩文仁之丘で調査・遺骨収集作業

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.109

平和祈念公園の「黎明之塔」が見える位置までやって参りました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.110

眼前の風景を見ながら、皆さんでしばし歓談です。摩文仁海岸線はこれからも取り組ませて頂く最重点の地域ですからね。参加メンバーの意向もすり合わせておかねばなりません。私は眼前のハンタ原を含めた風景の中だけでも、まだ数十柱の未収御遺骨があると感じています。必ずや見つけ出して鎮魂したいと念じています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.111

まずは皆さんで献花し戦没された方々に手を合わせました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.112

さあジャングル帯に入ります。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.113

調査地域に到達しました。事故に気をつけて頑張りましょう。(^o^)

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.114

娘さんは早くも巨岩の岩陰に張り付きましたね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.115

福岡さんも作業を開始しました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.116

ストロボ光が無いので解りにくいですが、ここは良い壕ですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.117

吉井さんも腰を据えて取り組む場所を見つけたようです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.118

奥行き4メートルぐらいある壕ですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.119

ご覧のように台風で倒壊した樹木も多いです。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.120

吉井さんが居ました。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.121

少し北側に移動します。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.122

吉井さんが作業しています。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.123

田中さんと娘さんですね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.124

吉井さんです。吉井さんの手前の巨岩が煤で黒くなっていますね。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.125

一列縦隊で帰ります。

2018年1月27日/遺骨収集の様子no.126

もう少しで公園でます。

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