平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月17日(木) 豊澤さんと摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

昨日沖縄に到着しまして、恒例の具志八重さんのお墓参りや、戦没者遺骨収集情報センターへのご挨拶も滞りなく終えました。そしていよいよ本日から11日間に渡る遺骨調査・収集活動が開始されます。病院のお世話にならないように、「慢心は事故の元」 この点に最も注意しながら、真摯に取り組ませて頂きたいと念じています。さあ頑張りますよ。(^o^)

と言いつつ今朝は雨です。本日は終日雨の予報となっていますから、初日という事で体の動きもぎこちないはずですから、無理せず壕で探す事をベースにして取り組みたいと思います。所定の時刻に摩文仁駐車場で豊澤さんと無事に合流しました。豊澤さんが大きな箱のような物をレンタカーから取り出しました。見ると「十五糎榴弾砲車載用弾薬箱」と書かれています。豊澤さんによると、「松永さんに寄贈しようと思っています」との事です。

「十五糎榴弾砲車載用弾薬箱」

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.1

「十五糎榴弾砲車載用弾薬箱」です。上段に「十五糎榴弾砲車載用弾薬箱」、そして下段に「 十一年式榴弾 二箇」と書かれていますね。重さが35kgの十五糎榴弾砲弾二発を入れて運ぶ為の箱です。砲弾に箱の重さを加算すると七十数キロの重さになるはずです。これを縄もしくは紐に手を掛け二人の兵士が運ぶのでしょうか。迫撃砲部隊では最も困難で体力を必要とするのが砲弾運びだとされていますが、この重さからして納得できますね。

十五糎榴弾砲は、日本陸軍の当時の兵器技術の粋を集めて製作されたもので世界的に見ても優れた兵器でした。また和田砲兵司令官以下の各級指揮官の指導技能もまた砲兵界の最高水準のレベルにあり、こうして命中精度が驚異的であった十五糎榴弾砲の威力は米軍をして認める所となりました。そして実際に大いに米軍を苦しめるに至ったのです。またサイモン・B・バックナー中将を射止めたのも九六式十五糎榴弾砲でした。因みに同将軍を射止めた十五糎榴弾砲と同じ砲が、この砲は沖縄戦で野戦重砲兵第一聯隊第四中隊が使用したものですが、関係者の努力により沖縄の在郷米国軍人クラブに展示されていた十五糎榴弾砲が、現在靖国神社に展示されています。私も見学した事がありますが、興味のある方はぜひ訪問してみてください。

箱の概寸としては縦幅89cm、横幅41cm、高さ22cmといった所でしょうか。全体的に焦げ茶色をしていますが、これは経年劣化や汚れではなく弾薬箱の表面は全面塗装が施され、また箱を構成する板は上質の杉板が用いられ、その板厚は現代の建築で用いられる一般的な厚み12ミリのコンパネ板よりも厚い木材が用いられています。木箱ではありますが、鉄製枠で角を保護していますので、持ってみるとそれなりの重量があります。砲弾が入ってない状態で結構な重さを実感しました。

砲弾箱と言えば一般的な認識として単なる砲弾を運ぶための消耗品ですよね。それなのにこれほど頑丈で立派な箱に仕立てていることにまず驚きました。帝国陸軍はシナ戦線も含め、大東亜戦争最終局面であるここ沖縄戦でも、武器弾薬を含む兵站輸送を人力や馬載、馬曳き荷車等に依っていましたから、そうした手荒い運搬手段でも安易に壊れないようにしていたというのは理解できますが、箱表面の塗装やネジの形状や収まりなどの点で過剰な手間暇を掛けていると感じざるを得ません。

資源のない我が国ですから、もしかしたら弾薬箱までも壊れるまで再利用するという思想があったのかもしれませんが、それはそれでまた、戦場から空箱を本国の砲弾製造工場まで運搬帰還させねばなりません。大東亜戦争戦記本には、弾薬箱を後送したという記述は見当たりません。こうした弾薬箱を何故手間暇掛けて高品質にしたのかについて、これから更に情報収集していきたいと思います。(^o^)

ところで、沖縄戦末期の昭和20年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が、糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死しました。敵軍最高指揮官を戦闘行為で討ち取った日本側の当事者である、当時の野戦重砲第一連隊(球4401)の中隊長だった石原正一郎さん(当時は大尉)は、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動を指導していた事もあり、当サイトでも「萬華之塔」でその事に触れているのはご承知の通りです。石原さんを始めとする関係者の努力により、その砲撃に使用された九十六式十五糎榴弾砲は、沖縄の在郷軍人クラブに展示されていましたが、有志の粘り強い働きかけにより、昭和41年4月29日英霊が眠る靖国神社に奉納されました。今ここでご紹介している「十五糎榴弾砲車載用弾薬箱」も年式こそ違え、同じ榴弾砲に用いられた事に偶然とは言え感慨深いものがありますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.2

錠前を掛けられる側が表面だとすると、こちらは裏面を写してみました。上段に「十五糎榴弾砲車載用弾薬箱」、そして下段に「 十一年式榴弾 二箇」と書かれています。表面裏面の両面に記載してあるのは、積み上げた砲弾の種類が直ぐに解るようにとの配慮からだと思われます。また左右に蓋を開閉するための蝶番が見えます。蝶番も頑丈そうに見えます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.3

弾薬箱の横から写してみました。側面には弾薬箱を運ぶ装備が施されています。運搬用の分厚い板が本体箱に12個もの木ネジで固定されています。取り付けられた板には二カ所穴が空いていますね。その二つの穴に縄もしくは太い紐が連結されていて手で持てるようになっているのです。この構造からしてこの弾薬箱を四人ではなく二人の兵士で運ぶものと思われます。上蓋を単に蓋として被せるのではなく蝶番で開閉出来る構造となっています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.4

運搬用の分厚い板は、ご覧のように木ネジでしっかり本体の箱に固定されています。一番剪断力が掛かる場所ですから、12個の木ネジで固定されています。丁寧にもネジ頭が板に埋まるように施工されています。即ち鍋ネジでなく皿ネジが使われているのです。皿ネジを使う場合は、ネジの入る穴の周辺を皿状に削り取る加工(皿加工)が必要ですから、これは作業にあたって一手間増える事を意味します。別の視点に立てば、これは単に美装したというのではなく、ネジ頭が他の部品と接触して火花が出るのを防ぐ為にそうしたのかもしれません。考えすぎかな(^_^;

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.5

鉄製枠の部分にもご覧のように皿ビスが用いられており出っ張っている部分がありません。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.6

その錠前部分を接写してみました。回転する輪を立てた状態です。鉄製の輪は反時計方向に回すと、鉄舌板から突き出た部分により回転が止められます。その止まったところで鉄舌板を持ち上げれば箱は開けられるという流れです。戦闘の最中に開箱する必要もあるでしょう。1秒でも速やかに開箱出来るように工夫されているのが見てとれますし、鉄舌板も丸みを帯びていますから当てた手を痛めるというような事もありません。また暗い壕内での手探りでも開箱が容易に出来るに違いありません。

使い捨てされる弾薬箱なのに、ご覧のように細部まで配慮された仕組みと仕上げに驚きです!!。この錠前を見ただけで、戦前から日本は物作り大国なのだと感じ入りますね。勿論この弾薬箱全体からしても、職人の手作りを彷彿させる芸術作品と呼んでも良いでしょう。弾薬箱なのですから、前線に向け弾薬を運ぶ為の、単なる消耗品でしかない箱に対しても表面に塗装まで施し、ここまで手間を掛けて仕上げていく‥。どのような些末な事柄にも全力で取り組もうとするDNAが私達日本人には織り込まれているのかもしれません。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.7

蓋と本体箱を繋ぐ蝶番を写しています。パッと見て頑丈に作られているのが解りますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.8

蝶番の片側を写しています。長いです反対側まで繋がっています。箱が上からの圧力に、例えば爆撃による破壊に耐えられるように設計されていると思えます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.9

「十五糎榴弾砲車載用弾薬箱」の内部を見てみましょう。十五糎榴弾砲弾が2個収められていたという事で、長手方向に二発頭を違えて収納されていたと思われます。写真右側に板で仕切られた部分がありますが、そこに信管が収められていたと推測されます。従いまして砲弾部分はその左側の空間に収められたと思います。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.10

信管が入っていた部分のすぐ左側にご覧のようなネジ穴がありました。何かが取り付けられていたという事になりますが、丸く長い砲弾が動かないように、何らかの部材で固定していたものと思われます。同類の砲弾を固定していた部分として、上掲の蓋の写真にも同じ位置にネジ穴がありますから、上から横からと複数箇所から砲弾が動かないように、今はなき部材で固定していたと思われます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.11

何やら数字と記号らしきものが記されているのが見えます。一番上にあるのは昭の字ですから、昭和の略号ですかね。

「国立沖縄戦没者墓苑」

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「国立沖縄戦没者墓苑」の初代納骨堂に向かって、豊澤さんが参拝している所を撮影しました。私達は沖縄に到着すると、可能な限り早期に国立沖縄戦没者墓苑に参拝するように務めています。初日に参拝出来れば理想的ですが無理な場合もありますので、そうした場合は遺骨調査・収集作業開始前には参拝を終えるように努力しています。沖縄の戦野で非業の死を遂げられた戦没者皆様の後ろ盾があってこその沖縄遺骨調査・収集活動であると考えるからです。

私達の活動が単なる骨探しではなく、戦没者の方々が今も尚抱き続けているであろう深い悲しみに寄り添い、何よりもそうした慰霊の心を最優先にして戦没者と向き合う事を心掛けています。また目に見えない事象感覚や人としての感性をも含めて、メンバー間でしっかり共有しながら遺骨収集に取り組む事を目標としています。

後日には戦没者慰霊への志を同じくする数名の仲間が摩文仁之丘にやって参ります。その摩文仁之丘に馳せ参ずるメンバーを代表して、また日本国を守るために身命を賭して大東亜戦争を戦い抜いた将兵の児孫である同世代を代表して、戦没者慰霊の志を果たすべく、悲しくも戦場に果てた十八余万の戦没者に対し、心からの慰霊の言葉を申し述べます。そして願わくば、誰にも看取られることなく戦野に果てた、摩文仁之丘に眠る戦没者一柱が見つからんことを祈願致しました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

国立沖縄戦没者墓苑は、昭和54年(1979年)に創建されました。この納骨堂は、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が使用され、琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。現在は沖縄で収集された戦没者ご遺骨のすべてが、この国立沖縄戦没者墓苑に納骨されます。

創建された初代納骨堂が戦没者ご遺骨で一杯になった事から、二棟目、三棟目の納骨堂が収骨状況に応じて順次建築されました。ご遺骨は現在でも発見され続けていますし、沖縄でDNA鑑定が始まって以降は、長く続いた戦没者ご遺骨の焼骨は、DNAを破壊するとの理由で中止され、全てのご遺骨は焼かずに保存するという方針になりましたから、将来的には四棟目の納骨堂も必要になるかもですね。

【国立沖縄戦没者墓苑の建立から現在までの経緯】

沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。この戦没者の遺骨収集は戦後、いち早く地域住民の手によりはじまり、各地に納骨堂や納骨堂を兼ねた慰霊塔を急造し、収集した遺骨を納めました。

昭和32年(1957年)には、政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設し、納骨してまいりましたが、次第に収骨数が多くなるにつれ、中央納骨所が狭隘となってまいりました。このため、国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきであるとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ、厚生省(現厚生労働省)の配慮により昭和54年に本墓苑が創建され、中央納骨所から本墓苑に転骨したものです。

しかし、その後、毎年のように約100柱が新たに収集納骨されたことから、昭和60年に後方に納骨堂が増設されました。現在、本墓苑には戦没者18万余柱が納骨されております。

正面の参拝所の屋根は沖縄の伝統的技法により焼かれた赤瓦を使い、紋には桜の花を用いています。納骨堂には、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。納骨堂はコの字形となっていますが、これは祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味しています。

納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は福島県産の黒御影石で、どっしりとした万成御影石の台座にのっています。石棺の中には、沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められております。

「沖縄県平和祈念財団サイト」から転載させて頂きました

《過去の写真ご紹介》

国立沖縄戦没者墓苑の様子4

【平成26年(2014年)7月05日撮影】写真には二代目と三代目の納骨堂が写されています。初代納骨堂が手狭になった事から、初代納骨堂の背後に昭和60年(1985年)に、二棟目の納骨堂が建立されました。また更に傾斜面下側に三棟目の納骨堂が平成20年(2008年)に建立されました。

沖縄戦戦没者のご遺骨は、現在でも毎年百余柱前後発見されていますからね、将来的には四棟目の納骨堂も建立される可能性があります。といいますのも、かつては発見されたご遺骨は最終的に焼骨されていましたが、DNA鑑定をスタートさせてからは、全ての発見されたご遺骨が焼骨されず収蔵される事となったからです。という事で、現在の仮安置室も満杯であると聞いていますので、将来的に納骨堂増設の方向に向かう事でしょう。

調査・遺骨収集作業開始です

本日は遺骨調査・収集活動初日なのですが、あいにくの雨‥。遺骨収集奉仕活動では雨は最大の障害だと言えるでしょう。勿論これは壕などの洞窟を除く露天での作業に限りますが、地表面が極端に暗くなり見えにくくなるので懐中電灯を付けっぱなしにしなければなりません。また地面や岩場を問わず滑りやすくなるので怪我をするリスクが高まり、実際にあっちでツルン、こっちでツルンなどとヒヤヒヤしながらの作業になるなど、大変困った事態となる場合が多いです。雨の日は遺骨収集奉仕活動で最も大切な集中力が削がれるという点で、金光教沖縄遺骨収集奉仕活動でも雨の日は収骨成果がガクンと落ちるのが常でした。

因みにこの雨も20年30年前は沖縄独特のスコール的な雨、即ち曇ってきたと思うとザーと雨が降りだして、しばらく降り続くとたちまち止んで太陽が顔を出す‥。という事が多かったのですが、近年になるほど雨が長い時間降り続くようになった印象があります。今朝の雨も決して強くはありませんが、スコール的な雨でもなく、長く降り続くと予感させます。という事で、本日の作業は露天ではなく、雨の影響を受けにくい壕内で作業する事にしました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.13

さあ意を決してジャングルに入ります。写真では解りにくいですが雨が降り続いています。雨合羽は必須な状況です。目的の壕はこの先50メートルぐらい先にあるのですが、壕に到達するまでの数十メートルはご覧のようなジャングルを突破しなければなりません。蔓植物等が茂るジャングル帯は20メートル程です。僅かな距離ではありますが、繁茂する植生を見極めながら突入場所を選ばないと大変な時間ロスをしてしまいますから要注意です。要注意と言えば、蔓植物等が茂るジャングル帯はアダン帯も含めて、直角に進入しなければなりません。言うまでもなく、直角で進入すれば最短で突破できますが、厚い層の途中で方向を見失い斜めに進んだりしたら層突破までの時間が増してしまうのは自明ですし、結果として体力的にもロスしてしまう事になりますので、方向感覚をしっかり維持しながら常に直角に前進する事を心掛ける必要があります。

私達はトウツルモドキがあまり繁茂していない地点であるこの写真の場所を選びました。とは言ってもご覧のようにトウツルモドキは結構見えていますが‥。トウツルモドキは、海岸の日当たり良好な林縁に生えており、長さ10メートル以上にもなる大型のつる性植物です。先端に巻きひげがあって、その先端が他の植物に絡みつき勢力範囲をぐんぐんと広げていきますので、文字通り藪を枯らすヤブガラシと同じぐらい他の植物には脅威であると思います。トウツルモドキは先ほども書きましたが日当たりの良好な林縁に生えると書きました。実際に林縁に繁茂していますから永遠に続くわけではありません。林縁に沿って10メートルから20メートルぐらいの厚みで繁茂している事が多いです。但しトウツルモドキと安易に全面対決しても勝ち目はありません。正面突破的な勝負は避けるべきです。(笑)

朝の元気なうちにトウツルモドキとの戦いで、持てるエネルギーを殆ど使い果たしてしまっては本末転倒です。トウツルモドキ帯は、戦うのではなく穴を開けてスルッと抜ければ良いのです。トウツルモドキも他の植物に覆い被さるように葉を展開させて光合成をしますから、私達は背を低くし下から潜るようにしつつ、トウツルモドキの層が薄い場所を探します。二三度試行錯誤すれば、そうした突破しやすい場所は見つかりますので、見つけたら両手で人間が通れるぐらいの穴を開けるようなイメージで蔓を開きながら前進します。途中剪定鋏を用いてパチパチ蔓を切りながら進めば、より効率よい前進が可能となります。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.14

無事にトウツルモドキ帯を抜けました。突破まで20メートルぐらいだったでしょうか。トウツルモドキはご覧のように地面が土か岩混じりの土という土壌の条件下で繁茂する植物ですから、その意味では地盤は大概歩きやすい状況にあると言えるでしょう。写真では、まだトウツルモドキの蔓が至る所に伸びていますが、葉は樹木の上にありますので、前進するのにさほど支障はありません。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.15

私の後に続いて豊澤さんが降りてきます。ここは少し下り勾配があります。相変わらず雨も降り続いています。もう少しで目的の壕に到達する予定です。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.

目的の壕に到達しました。この壕は自然壕です。最も摩文仁で構築壕と言えば、自然壕に手を加えて空間部を広げた司令部壕ぐらいではないでしょうか。私達がジャングルに入り始めての所要時間は15分程でした。順当に到達したと言えるでしょぅ。壕のあるここは一段窪地になっており、その窪地の一番奥深い所が壕口となっています。写真中央がその壕口ですが、少し解りにくいですね。壕出入りの難易度は普通と言った所ですが、本日は雨なので若干滑りやすくなっているはずですから、慎重に行動しましょう。

この壕はかなり複雑な構造をしていますが、入るとすぐに大きく二方向に枝分かれしているのが特徴です。特徴と言えばもう一点、この壕は日中に限れば比較的明るい状況下で、摩文仁の崖上と崖下とを行き来できるのです。壕内の移動ですから砲撃の心配も不要ですから、そうした面でも安全に移動できます。また現在は公園になっている部分については、多分沖縄戦当時でもこの辺りは畑か原っぱだったでしょう。そうした壕を出てすぐに平坦な場所に出ますし、直ぐ先には摩文仁集落もありますから、当時サトウキビなども多く散在したに違いありません。つまり食料や水の調達に大変便利な場所にある壕であると言えるのです。因みに現在の公園内の一角に、沖縄戦当時池があったようです。公園となった現在も池がありますが、その場所とは少し離れているようです。もしこれが本当なら、この壕では水の調達もかなり楽だったと推測されます。

壕から出ればすぐにか私はこの壕には、これまでに二度入っています。一度目は、この壕口から30メートル程先で、5柱のご遺骨を発見した時です。平成16年(2004年)2月14日の第31回 金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加した際に発見しました。この時すでに戦後59年経過していました。この発見を機に私はこの「南部戦跡に膝をつきて」というウエブサイトを立ち上げるという記念碑的な出来事でもありました。二回目は数年前に松永さんと二人でここから入り、腓骨1本、肋骨2本を見つけると共に、摩文仁崖下に抜ける新ルートの発見にも繋がるという、二回共に印象深い出来事がありましたから印象深く脳裏に刻まれています。

本日豊澤さんと二人で入る目的はと言えば、松永さんと共に入った際に、長さ数メートルの坑道に土砂が堆積しており、その土砂はこれまで掘り返されていない印象だったので、何時の日か堆積した土砂を掘り返したいと思っていました。本日その念願が叶い実行してみようという訳ですね。それではウエブサイトをご覧になっている皆様も一緒に壕の中に入ってみましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.16

窪地を2メートル程降りました。ここが壕口と言って良いでしょう。それではご一緒に入ってみましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.17

斜面を下りつつ、4メートルぐらい中に入りました。こちら側の壕は金光教沖縄遺骨収集奉仕活動でも複数年次に渡って調査収骨作業が行われているので、新たにご遺骨が発見される可能性は低いです。目指すはまだ一度も掘り返されていない坑道の土壌部分です。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.18

壕口を見て撮影しました。壕口としてはまずまず容易な出入り口であると思います。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.19

ちょっとではなく、かなり狭いですが、ここから更に前進します。(^_^;

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.

3メートル程超狭い部分を通過すると、広い空間に出るのですが、いきなり断崖のような場所に出てしまうのです。松永さんと一緒に入った際も感じた事ですが、手と足の連係が上手くいかず手足がもつれると、3メートルぐらいあるであろう壕底に転落‥。という事態になりかねません。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.20

ここから壕底に落ちたら大変です。今はちょっとやりたくありませんが、数年前に松永さんと入った際は、ここから手足を伸ばして崖下に降りて行きました。ここから降りてついには崖下海岸線に降りるルートを発見したというわけです。この壕の真上地点の崖上から切った大きな目立つ枝葉を崖下に投げ捨て、数日後崖下を通過した際に、その投げ落とした枯れた枝葉を発見して、試しに壕内を上ったら、今私が撮影しているこの場所に出ました。その場所がこの写真の場所です。上から見ると落ちたら怖いという危ない雰囲気ですが、下から見ると危険であるとはあまり感じませんでしたし実際登りやすかったですし、感じとしては沖縄戦を戦っている将兵もここを楽々上り下りしていたと思われます。実際に私達の様な普通の筋力を持つ男性であれは問題なく登れるようなルートでした。

最もこのような垂直に登攀する難ルートは普段は使いません。摩文仁(平坦な公園側)と摩文仁崖下との行き来できるルートというのは本当に限られていますので、そうした互いに数百メートル離れている行き来するルートの中にあって、もしも帰投がもたつき夕方になっても摩文仁ジャングルから出ていない状況下、速やかに崖上に登りたいというような場合、崖を行き来できるルートは少しでも多く頭に入れておけば、急を要する際により安心感が増してパニックになる頻度も減るというものです。そうした意味で、摩文仁(平坦な公園側)と摩文仁崖下との新ルート開拓は、今でも熱心に取り組んでいます。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.21

通過したらすぐ崖‥。というのも危険なので、別ルートがないか探したらありました。狭さはほとんど同じですが、狭い部分を通過した後も平坦で足を掛ける場所があるので、安心して前進できます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.22

豊澤さんがくぐり抜けようとしています。狭さがおわかりになりますよね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.23

目的の横坑道入り口に到達しました。豊澤さんの足が少し写っていますが、その足の右側に注目です。壁面には上から水が落ちている痕跡が見えますね。壕内でありながら、地表にもほど近くて、飯ごうの蓋などを置いておけば、結構水も手に入った可能性が高い壕です。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.24

戦没者遺品が見えますね。ベルトか何か革製品も見えます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.25

少し解りにくいですが、これも革製品のようですね。黒く焦げているようにも見えます。崖下に降りる壕空間の地面には枝葉が沢山堆積しています。その点から推測するに、この壕は上下方向に小さな隙間が沢山あると思われ、ナパーム弾やガソリン攻撃には脆弱だと言わざるを得ません。

話が少し逸れますが、壕内を調査していますと、頑丈な岩盤下であり砲撃にはビクともしない安全な場所にも戦没者の遺留品が散乱している場合も多いです。そうした安全に見える場所での戦死は、ナパーム弾攻撃やガソリン攻撃を受けた場所ではないかと推測されます。ナパーム弾攻撃は千度を超える灼熱地獄と共に、酸素を奪い尽くすという点で、直接的に火炎を浴びなくとも呼吸困難となり死亡に至るという特徴があります。摩文仁の崖部分には米兵は入れないので、徹底的なナパーム弾攻撃やガソリン攻撃を浴びました。ですから摩文仁での調査では常にそれらナパーム弾攻撃等の事が頭をよぎるのです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.26

結構大きめのソテツの葉が一枚落ちています。上から落ちてきたと思われますが、壕上部の岩盤層が厚いために、直接的に光は見えませんが、上掲写真で説明したようにナパーム弾やガソリン攻撃には弱い、隙間の多い壕と言えるかもしれません。実際に良く観察すると、隙間だらけの壕と言えるでしょう。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.27

横坑道の最奥部を写しています。方向は西側になります。行き止まりになっているのが見えますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.28

こちらは横坑道の東側を写しています。この坑道はご覧のように匍匐前進しなければ通れないぐらい狭いです。ただ20メートルぐらい先まで進むと、壕開口部がありますので風通しは抜群に良いです。今からこの横坑道の土砂を掘り返そうというわけです。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子12

この写真は8年前にこの横坑道の中間点辺りで発見した御遺骨です。これは腓骨です、膝下の脛骨と共にある骨ですね。同時に肋骨が二本の合計三点の御遺骨が収骨されました。一緒に作業した松永さんと話し合ったのですが、これら三点の御遺骨は土砂に一切埋まってない事から、上部地表で亡くなって隙間から下に落ちて来たのではないか、という結論で意見が一致しました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.29

壕開口部が近づき光が入ってきました。この地盤も掘り返す対象です。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.30

壕開口部に近づくにつれて、立って歩けるぐらいになりました。ご覧のように堅固な石灰岩の自然洞窟ですから、艦砲にもびくともしません。絶対的な安心感のある壕です。壕口に岩が積み上げられていますが、ここに居た将兵が積み上げたのか、遺骨収集奉仕活動で積み上げたのかは定かではありませんが、更に岩を積み上げれば直撃弾を浴びる可能性は更に低くなりますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.31

開口部です。壕開口部は真東方向を向いていますので、海上に浮かぶ米艦艇から直接的な砲撃を受ける可能性は低いです。眼前に広がる樹林は、崖下に広がるジャングルです。私達が居る壕口から崖下まで5mは無いという印象です。またここから降りてみようと試みましたが、降りられそうで降りられず不可能でした。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.32

米艦艇からこの壕開口部がどのように見えるか、可能な限り南側を写してみました。写真に見える海面は引き潮時に於ける浅瀬が終わった深い部分が写されていますが、写真部分まで接近できる艦船はごく小さな警備艇程度しか寄ってこられないと思われるので、そうした面でもこの開口部は安全性が高いと思われます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.33

私が壕開口部などを下見している間に、すでに作業を開始している豊澤さんが、「櫛を発見しました」と通報してきました。ご覧のように丸い櫛です。櫛は何度か見ましたが、丸い櫛は初めて見ますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.34

ひっくり返してみました。正に丸櫛と呼ぶべき形状をしています。しかしながら櫛と言えば、一般的にに女性を連想させますよね。牛島将軍と長参謀長、そして軍将兵が守備につく摩文仁司令部壕から約500メートルの場所にあるこの壕内に、避難民たる女性が居るというのも不自然だと感じました。因みに私は東西に長い摩文仁海岸線では、女性用の靴底をこれまでに二度見ています。いずれにしても、これから持ち帰って清掃してみましょう。もしかしたら名前が彫り込んであるという事も無きにしもあらずですからね。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.35

豊澤さんが櫛を見つけた場所です。掘り始めてすぐに出てきたという話ですよ。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.36

併せて、薬瓶のような物、軍靴と思われる革製品が出てきました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.37

接写してみました。薬瓶のようです。アンプルでは無いですね。この壕から約200メートル先にある「島守の塔」裏には軍医部の壕がありましたから、陸軍病院関係者もこの付近に散在していた可能性はありますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.38

作業開始後すぐに戦没者遺留品が見つかったと言うことで、俄然やる気が沸いた私達です。豊澤さんも私も集中力を持って土の掘削に取り組みました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.39

豊澤さんと私は調査する坑道の両端から掘り始めました。写真奥に豊澤さんが見えますから、距離は10メートル程度です。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.40

30センチ程度掘ると固い岩盤となりますので、そこが沖縄戦当時の地盤と仮定して掘り進めました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.41

豊澤さん側の状況です。頑張っています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.42

かなり深く掘り進んでいますね。時折遺品が出ているようです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.43

戦後堆積したと思われる土砂は全て掘り返し精査しました。この壕は金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で何度か調査地域になっている事もあり、御遺骨の発見には至りませんでした。作業終了です。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.44

作業を終え移動を開始しました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.45

豊澤さんの足が写されていますが、この壕口の狭さがご理解頂けると思います。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.46

この壕の入り口付近まで戻ってきました。壕口の地面は大量の土が流入している状況ですから、出入りに際して膝が痛いという事もないのですが、本日は雨なので滑りやすくなっています。因みにこの土は全て上から落ちてきたものです。昔はこれほど土は無くて出入りも楽だったという記憶があります。今後10年20年後には壕口は埋まってしまうかもですね。

8年前から、何時の日か作業したいと思っていましたので、結果として御遺骨の発見には至りませんでしたが、十分満足しています。と言う事で、ここからは通常の調査をしながら前進しました。ご一緒に壕三昧の時間を味わいましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.47

移動します。この壕は大きくは二手に分かれていると書きましたが、壕口の分岐点に戻ってきたので、地表に出ることなく、分岐点からもう一つのルートを進む事にしました。それではご一緒に壕を進んでみましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.48

別ルートの最初は匍匐前進しなければならない程狭い場所を通ります。その難関部分を通過した直後の写真ですが、ちょっと解りにくいですね。非常に狭いです。推測ですが、沖縄戦当時は匍匐前進しなくとも、中腰で通過できたと思われます。

平成16年(2004年)ですから、今から15年前にこの先25メートルぐらいの場所で、5柱のご遺骨を発見したのです。当時この写真部分の狭い場所は、土砂でほとんど埋もれていました。金光教沖縄遺骨収集奉仕活動でも何度もこの地域に入りましたが、さすがの金光教の皆様も埋もれた壕口には気づかなかったようです。そうした中で「この土砂は戦後堆積したものかもしれない」と感じて、掘り進めた事がラッキーでした。土砂を掘り進めたら、この写真の場所に出たのです。その時は、誰も来たことのない壕だと直感した私は、何かあると胸が高鳴りました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.49

豊澤さんも匍匐前進から立ち上がりました。手に持っていたリュックサックを背負うなど、装備を調えて再出発です。ここからは立って歩くことが可能です。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.50

壕の天井部分はご覧のように開口している場所も多いです。昼間であれば照明が無くとも歩けるぐらい明るいです。地面は比較的平坦で、上から落ちてきた岩も無くとても歩きやすいです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.51

壕の天井部分の様子です。大きな一枚岩の割れ目が通路になっているという状況ですね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.52

平成16年(2004年)ですから、今から15年前になりますね。ここで5柱の御遺骨を発見・収容した場所です。ご遺骨と共に遺留品も多数出土しました。抜群に良い壕だと感じました。現在の平和祈念公園内に直ぐ上がれます。食料探しの視点からとても便利な地理にあります。また海岸にも降りられるのです。亡くなられた将兵の、この場所での死因を考察するに、艦砲砲弾の直撃はあり得ないので、やはりナパーム弾攻撃かガソリン攻撃による死ではないか‥。と当時も今も考えています。

この既収骨場所を初めて見る豊澤さんと共に、私達は線香を手向け、ここで亡くなられた戦没者のご冥福をお祈りしました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子53

平成16年(2004年)5柱のご遺骨を発見した場所です。壕入り口付近を撮影しています。大腿骨や脛骨が見えますね。因みにこの年は、私の妻が初めて金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加した年でした。妻にこのようなご遺骨の発見と収骨作業の様子をつぶさに見てもらう事ができ、遺骨収集奉仕活動の意義を妻に理解してもらえたという点で、私自身にとっても満足のいく二日間でした。

遺骨収集の様子54

壕の奥の様子です。入り口付近よりも更に多くのご遺骨や軍靴などの革製品である遺留品が散乱していました。壕の奥の方の土がより黒っぽく見えますね。また土砂が御遺骨に被さっているのが見えます。戦後大量の土砂が上から落ちて来たようです。当時私達の班メンバーは、そうした土砂の全てを40メートルぐらい先の地表面まで運び出し、小さな骨片さえも漏らさないよう全力で収骨に取り組みました。

※現在の写真と平成16年の写真を比べると、壕の奥の方も含めて、現在の写真の方が地盤が低くなっているように見えますよね。それもそのはず、大量の土砂を私達の班で運び出しましたので、現在はご覧のように低く見えるという訳ですね。

遺骨収集の様子55

二日間の収骨作業を終えて、御遺骨発見場所付近の地表でミニ慰霊祭を挙行しました。私たちは班員で連携しながら、二日間にわたり膨大な土砂を地表に運び上げ、どのような細骨をも漏らさず収容しました。この摩文仁の壕で悲しくも果てなければならなかった日本軍将兵の苦難に想いを馳せ、私たちは出来る限りの慰霊の心持ちを表出しました。60余年の歳月本当にお疲れ様でございました。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.56

この岩の割れ目を進むと、摩文仁崖下海岸方面に出ることが可能です。往来に要する距離も直線的で短く、かつ極めて安全に摩文仁の崖上である、現在の平和祈念公園に登れますし、容易に崖下の海岸を行き来する事が可能です。この場所から東方面は200メートル、西方面は100メートル行くと、崖上崖下登攀ルートがありますが、危険であったり、登攀が困難なルートであったりしますから、このルートは多くの日本軍将兵が、崖上崖下往来に利用したのではないかと感じています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.57

豊澤さんが壕の奥がどうなっているか見たいという事で一緒に奥へ進みました。15年前にこの辺りの土砂を搬出して、沖縄戦当時の地盤を出した当時の雰囲気がまだ残っていますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.58

ここが壕の最奥部ですね。15年前にこの辺りも大量の土砂を搬出しましたが、やはり最奥部辺りは15年の歳月の中で、かなりの土砂が再び落ちてきているのが見て取れました。いずれにしましても、この場所は艦砲直撃もなく安全な場所であると誰もが感ずるはずです。私が兵隊だとしたら生き延びる安息の場を得たと感じた事でしょう。しかしながら、こんなに安全なこの場所で5名の将兵が亡くなられました。ナパーム弾攻撃かガソリン攻撃で亡くなったに違いありません。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.59

豊澤さんと一緒に最奥部の見学を終えました。これからはこの場から急坂を登る事になります。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.60

崖上まで30メートルぐらいの急斜面を登る豊澤さんです。二人同時に登ると落石が発生した場合、下側に居る人に当たる可能性がありますから、まず豊澤さんが登っています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.61

豊澤さんがほぼ登り切ったので、私も後を追うように登り始めました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.62

上を見上げて撮影しました。坂を登り終え、地表ではなく地表に近いV字谷に出ました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.63

V字谷とはこんな感じです。場所は国立沖縄戦没者墓苑の鼻先に位置するこのV字谷は、写真では谷が深いですが、浅くて塹壕のような浅い場所も多数あり、且つ網の目のように縦横にV字谷が走っているのが特徴です。また摩文仁最大級の壕に直結していることから、沖縄戦当時このルートを数多くの将兵が行き来したに違いありません。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.64

少し先に進むと、ご覧のように壕の中に入っていきます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.65

この辺りでリュックサックを下ろして、しばらく探そうという事になりました。豊澤さんは写真奥の方に進んでいきました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.66

壕口から外を見ています。この壕口は海に面しており艦砲砲弾の直撃を浴びる可能性があります。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.67

岩の割れ目から空き缶があるのが見えました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.68

優しく取り出してみました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.69

軍靴の靴底が見えますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.70

下を見ると人間が問題なく入れるスペースがあるので降りてみました。御遺骨や遺品は小さな隙間からでも、下に下にとどんどん落ちていきます。例えば指の骨なんて、3センチの隙間でも落ちていきます。と言うことで、下に降りられるようなら可能な限り降りて調査する必要がありますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.71

まだまだ入れます。更に降りてみましょう。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.72

地底が見えてきたようです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.73

革製の紐状になっている遺品がありました。軍靴の一部か‥。長靴にはこのような紐状の革製品が使われています。また背嚢や図嚢にも使われています。いずれにしても上から落ちて来たようです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.74

別の場所に移動です。至る所に岩の割れ目があります。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.75

底が見えてきました。降りてみましょう。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.76

ここにも革製品がありました。これは軍靴の一部かもしれません。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.77

場所を移動します。壕口を出て再びジャングルに入ります。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.78

大きく口を開けた壕がありますね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.79

前を歩く豊澤さんです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.80

摩文仁崖下に到達しました。解りにくいですが、右側が絶壁になっています。この付近は床面が三層になっていて三階建ての建物と言っても良いかもしれません。私達は今その三層の中段つまり二階に居る事になります。写真中央の窪地の下に通路があり、そこが一階部分となるのですが、ご覧のように非常に落石しやすい地形なので、一階への落石に十分注意せねばなりません。浮き石は下段に向けどんどん落ちていきます。本日は二人だけなので、一緒に行動する限り大丈夫です。

こうした落石の起こりやすい場所に於いては、例えば目の前に大きな岩が今にも落ちそうになっていたら、将来の落石事故を未然に防ぐという意味で、今足で蹴飛ばして落としてしまう場合もあります。摩文仁専属の私達ですから、二層構造や三層構造になっている場所や壕など、落石事故が発生しやすい場所をしっかり把握し未然に落石事故を防ぐのは勿論、見るからに危なっかしい浮き岩は事前に落とすという作業も結構やっています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.81

豊澤さんが壕に入ろうとしています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.82

二人共壕に入りました。

《過去の写真ご紹介》

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.39

この壕から発見された軍靴です。牛革製の爪先の飾り皮が無いタイプ、五個のハトメ穴、そして靴底がゴムで無い状態からして、まだ資源が豊かだった時代の、且つフランス軍靴の影響を受けた昭五式編上靴と思われます。靴の後ろにつまみ革が見えますが、渡河の際にぶら下げるなどの目的で使われました。

これほどしっかりしている軍靴は私も初めて見ました。この壕は収骨済みですが、数多くの軍靴の破片がありました。軍靴の残存状況から数人はここで亡くなったと推測される状況でした。その軍靴の殆どは破片となり細かくなっていましたが、この写真の軍靴だけは少し離れた岩の割れ目の中に隠れるようにしてあったのです。昔の遺骨収骨時にもこの軍靴は発見されなかったという訳ですね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.83

壕内の至る所でご覧のよう、煤で岩が真っ黒になっていました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.84

軍靴の破片が散乱しています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.85

こちらにも軍靴が散乱していますね。ここは金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で既に収骨されている場所ですが、軍靴等の遺品が数多くある事から、多くの方々が亡くなったと推測されます。豊澤さんと私は、ここで線香を手向け戦没者のご冥福をお祈りしました。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.86

場所を移動し更に下に降りていきます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.87

青テープが見えます。これは金光教沖縄遺骨収集奉仕活動において収骨済みを示すマーキングです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.88

軍靴の靴底がありました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.89

遺品を見つめる豊澤さんです。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.90

摩文仁最大級の壕に出ました。当サイトで何度もご紹介している石とコンクリートで出来た貯水設備を撮影しています。写真では解りにくいのですが、ライトで照らされた岩盤をよく見ると水が流れ落ちた跡が見えますね。沖縄戦は4月から6月までですから、梅雨時とかでは十分な雨水が落ちて来たと推測しています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.91

貯水設備をのぞき込む豊澤さんです。石とセメントでしっかり作られているので、貯まった水はそのまま長く残留したかもしれませんね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.92

少し解りにくいかもしれませんが、貯水設備の底を見ると何と水が貯まっていました。水が貯まっているのを見たのは今回が初めてです。何十年も前から見続けていますが、初めてという訳です。今年は雨が多かったのかな?

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.93

本日は初日という事もあり、また四時を過ぎたのでこれで本日の作業は打ち止めとしました。帰路に就きます。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.94

勝手知ったる摩文仁ですから、なるたけ近道をして帰ります。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.95

アダンが見えてきました。間もなく地表面に出ます。二人とも無事に作業を終えられそうです。(^o^)

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.96

作業着を着替えてから、持ち帰った遺品を洗ってみました。これは丸櫛ですね。女性が身につけていたと推測されますが、丸い櫛のあった場所である壕は、摩文仁司令部壕との距離が約500メートルぐらいですから、民間人がこうしたエリアに入れたのかどうかは微妙ですから、どの様な方の持ち物かすぐには推測できないですね~。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.97

瓶ですね。中身が何であったか不明です。ラベルなども消失してありません。ネットで調べてみると、昔から広く使われていた胃腸薬である「わかもと」という製品の瓶にそっくりです。蓋がねじ込み式の金属製ではなくコルクで栓をするようになっている事からその可能性は高いと感じます。この薬は現在「強力わかもと」という名で、胃もたれや、滋養強壮、便秘などに効く、胃と腸の薬として売られているようです。

大正から昭和初期にかけては、国民の栄養状態は危機的に悪い状態が続いているなかで、脚気の克服などを通じてこれまで知られていなかったビタミン類の研究が開始されたり、米胚芽や酵母菌の研究が進められた事などにより、ビタミン類や消化酵素類が次々と発見され、商品化されていった時代だったようなので、この瓶の商品もそうした流れの中で商品化された薬かもしれませんね。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.98

瓶底を写しています。ご覧のようなマークが入っていました。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.99

また瓶の側面の一部はご覧のような銀化現象が起きていました。

沖縄での遺骨収集を終えて東京に戻られた豊澤さんから、ご自身が発見された遺品であるガラス瓶と丸い櫛について、ウエブサイトや友人知人などからの情報取得状況を、私に逐一メールにて熱心に伝えて下さったという経緯がありました。記名遺品では無いので、遺品がご遺族に帰るはずもありません。そうしたごく普通の遺品について、なぜそこまで時間を惜しまず店舗を廻るなど、熱情ある調査活動が出来るのか感嘆するばかりでした。

私は豊澤さんに問いました。なぜそこまで熱心に遺品について追跡調査をされるのですかと。豊澤さんからの返信メールには次のような記述がありました。

「遺品について推測して記述する事が、広義の慰霊にも繋がると思います。永六輔さんの言葉だと思いますが、「人間は二度死にます‥。一度目は、その肉体が生命を終えた時。二度目は、その方のことを覚えている人が一人もいなくなった時」 永六輔さんのこの言葉からも言えるように、御遺骨や遺品に思いを馳せ、記憶に留めるのも慰霊だと思います。亡くなられた方、個人の氏名は分からなくても、櫛や薬瓶、万年筆を使っていた人がいた事を思い、その姿を想像する、「その人のことを覚えている人」で居たいと思っています。それと、付喪神(つくもがみ=器物は百年経つと精霊を宿し神となる)と言うほどではありませんが、遺品を見ると、「この道具も所有者に大切にされていたのだろう」と人格?のある存在として扱いたくなります」
豊澤さんのメールを転載させて頂きました

私達は南部戦跡遺骨収集会として戦没者慰霊と鎮魂の志を共有する仲間ですから、豊澤さんのメールを拝見しながら、私達は沖縄戦戦没者の追憶の旅のただ中にいるのだと改めて認識させて頂きました。こうして豊澤さんの遺品に対する熱情を表出する場を設けねばならないと感じた私は、豊澤さんにお願いしたところ、快くコラム執筆を引き受けて下さいました。この場で改めて感謝申し上げます。(^o^)

豊澤さんのコラム 「ガラス瓶と櫛について」

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.100

壕で発見された、銀化が起きているガラス瓶

作業から戻ってガラス瓶を水洗いしたら下になっていた半分に「銀化」が起きていました。瓶の中ではなく表面なので、触ると剥離してしまいます。

一般的に古いローマ時代のガラス容器が、土の中で500年~1000年の刻を経てガラスが化学変化をおこして"煌めく"ことを銀化ガラスと呼んでいますが、大正、昭和のガラスビンが海底の砂泥に30~50年浸かっていると、ローマ時代の銀化ガラスと同様な銀化現象を起こしていることがあるそうで、今回はこれに当たるのかと..。

もっとも「海で見つかる銀化ビンは、遠浅の浅い水深の海底の砂泥の中は、潮の満引き、うねり、波の影響で新鮮な海水が出入りしているので、外側は銀化しません。銀化は水と砂泥と貧酸素状態が整うと、ガラスビンの酸化ナトリウムが少しづつ溶け出し、残った二酸化ケイ素の網状の薄膜が形成され、この網状の薄膜が光を偏光させて虹色に見えるのです。さらに"銀化"が進むと薄膜が部分的に剥離してきます。(海人のビューポートより)」とのこと。 洞窟内の砂泥と適度な湿気が銀化現象を起こしたのでしょう。戦後74年という時間を実感しました。

ところがその後、高校時代の友人と飲んでいる時に摩文仁で見つけた「銀化瓶」について話すと面白い推理をしてくれました。この友人は化学が得意で、既に退職していますが、そちらの仕事についていた経歴があります。彼の推理では、瓶の見つかった場所が、

1、水の滴りや開口部からの雨水の侵入があったとしても、洞窟内のテラス部分で、「海人のビューポート」(http://chikyu-to-umi.com/kaito/bin/bin.htm)が指摘するような「浅い海の中で水と砂泥と貧酸素状態が整う」場所ではないこと。

2、湿気を含んだ砂泥から見つかっていて、その場所が滴った水や雨水(水と砂泥)が常時溜まる場所としても、瓶が比較的容易に掘り出す事が出来る地中の浅い場所にあった事から「貧酸素状態」とは言えないこと。

3、また、当日が雨天であったことを考慮すれば、瓶が見つかった湿気を含んだ砂泥の場所が、水が常時溜まる場所とは考え難いこと。

4、「海人のビューポート」にある銀化瓶は、微かにピンクやブルーがわかる程度の弱い銀化であるのに対し、水洗いした直後の摩文仁の瓶の銀化の状況は「ローマングラス」並の虹色の銀化になっていること。(下記写真ご参照)

5、以上から、「ガラスビンの酸化ナトリウムが少しずつ溶け出し、残った二酸化ケイ素の網状の薄膜が形成された」のではなく、別の理由、瓶の中身が原因と考える。

6、瓶の中身が硝酸銀系の消毒液ならば、流れ出た液体が銀化する事はあると思う。硝酸銀の化学式はAgNo3だから溢れでた液体が分解して二酸化炭素No2と酸素Oが気化すれば銀Agが残る。それならば瓶の外側でかつ漏れ出た薬液が流れ出た下側のみが銀化 した理由にもなると思う。との事でした。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.101

「ギャラリーオリオン」HP内の「銀化ローマングラス紀元1~2世紀」より転載させて頂きましたhttp://www.g-orion.com/orient-p1.html

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.102

「海人のビューポート」HPより転載させて頂きました
http://chikyu-to-umi.com/kaito/bin/bin.htm

早速硝酸銀系の消毒液を調べてみると「10%硝酸銀液 製造法:硝酸銀5.0gを注射用水50mlに溶解し、ろ過後褐色ガラス瓶に充填し、高圧蒸気滅菌(121℃、20分)する。容器及び貯蔵:褐色ガラス瓶、冷暗所」とあり、3%から20%まであり殺菌消毒に使用されている事がわかりました。 保存容器が褐色のガラス瓶、規格単位が50mlというのも見つかったガラス瓶と一致します。 歯科で口内炎(アフター)の治療をする時使用するのが硝酸銀の棒で患部を焼去、殺菌しています。

ただ、自分がフィルムや印画紙を現像していた時の経験(硝酸銀はフィルムや写真の現像液にも使用されている)だと、現像液に含まれた硝酸銀が沈殿した色は黒で、決して銀色ではありませんでした。更に前述の消毒液製造法の末尾に、「使用上の注意」として「黒い浮遊物が現れたら使用しない」と書かれていましたので、少なくとも硝酸銀溶液の段階では銀色ではなく、黒色なのだと思われます。

また、台風などにより洞窟内に海水侵入した場合は塩化銀になり、白っぽい灰褐色になるようですが、これも光に当たると黒く変色するようです。

友人が指摘したように「摩文仁の瓶の銀化の状況と海人のビューポートの銀化状況」はかなり異なりますので、「瓶の中身=硝酸銀が作用した」ことは間違いないと思っています。ただ友人の発想は、化学式の上では銀が出来ても、銀色のまま残るにはもう一つ、何か触媒が必要なのかも知れません。

後日、友人にこの事を指摘すると、次のような化学式を送ってくれました。
「2AgNo3 + Ca(OH)2 → 2Ag + Ca(NO3)2 + H2O + 1/2O2」

サンゴ礁の水の滴る洞窟内にあったことから、硝酸銀に石灰分を含んだ水(水酸化カルシウム)が作用すると、銀と硝酸カルシムと水と酸素に分解される。この場合に残る銀はAgなので銀色になるが、銀は塩化または硫化で黒い皮膜が出来るので、水洗い程度で元のように輝き出すかは分からないとのことでした。また、他にアンモニア溶液があった場合、加熱されると銀鏡反応が起きるけど、火山地帯でもないので可能性はないだろうということでした。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.103

ネットオークションに出品されている類似のガラス瓶

その後、ネットオークションで「 戦前 古い ガラス 空き瓶 薬瓶 甘汞 塩化水銀 ラベル ビン(瓶)アンバー 気泡 レトロ アンティーク 白粉 希少 時代 医療器具」がありました。現在は上掲の写真しかないのですが、「甘汞 塩化水銀」という記載に目が止まりました。「塩化水銀(II)を水で薄めた昇汞水は、毒性が強いために現在では使用されていませんが、かつて殺虫剤や伝染病予防法施行規則第24条に指定された3番目の消毒液、防腐剤として使われていたもの」です。

この瓶は大きさを比較できる写真がないので、壕内で見つかった瓶と比較は出来ないのですが、高さも短く、首も太いようです。また甘汞(かんこう)は「光に当たると塩化水銀(II) と水銀に分解し、アンモニア水と反応すると黒色に変わる。」そうで、銀化または鏡化することはないようです。

壕内で見つけた瓶は「コルク栓またはゴム栓をして使用する当時の平均的な薬瓶で、正露丸の瓶のように商品名のエンボスがあるか、製薬会社の社名のエンボスがないと特定は困難だ」と薬剤師の方に言われました。壕内で見つけた瓶には底には三角にRのエンボスがありますので、唯一それを頼りに引き続き探して行こうと思っています。

平成31年(2019年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.104

壕で発見された丸い櫛

一方の櫛も水洗いしましたが、記名は見つかりませんでした。摩文仁は軍民両方が避難している為、女性のモノが見つかっても不思議はないのですが意外な気がしました。宿泊先の大浜さんから「女性がいないという確証はないけど、お守りとして渡したのでは?」と言われ、ハッとしました。

妹(をなり)が兄(えなり)を霊的に守護すると考え方「をなり神」信仰が沖縄にはあります。男が戦争に行く時は、妹(妹がいない場合は姉や従姉妹)の毛髪や手拭をお守りとして貰う習俗があったと聞きます。更に櫛には自らの分身、身代わりに意味もあることから、あの櫛はお守りと考えた方が自然な気がしました。

この櫛を沖縄の人に見せると「おばぁ(おばあさん)の櫛だね」とか「戦前の櫛だ」と言われるのだが、誰も名称を知りませんでした。戦前まではからじ結い(=かんぷう 沖縄独特の髪型。身分・老若などによって結い方が異なった)が広く結われていましたが、「髪を結わない時に長い髪を止めるのに使用していた」と何かで読んだか見た記憶があるのですが・・・。

余談ですが、インターネットを見ていたら、櫛を拾うことは「苦死を拾う」に繋がるそうです。今もその櫛は私の手元にあります。

後日、沖縄で美容師をしている知人に櫛の写真を見てもらいました。すると意外な事に「沖縄の櫛ではない」「からじ結の時には使わない」と言うのです。戦前生まれの老婦人達に見せても、「沖縄の伝統的な櫛ではない」と皆さんから言われました。この櫛を見た沖縄の男性は「おばぁ(おばあさん)の櫛だね」とか「戦前の櫛だ」と言われたのですが・・・。 美容師の知人は「彼女からのお守りでは」との事でした。 その後もインターネットで色々検索しましたが、正式な名称も用途も分かりませんでした。

半年も経った9月の或日、何気なく「丸い櫛」でインターネットの検索をしました。すると「丸櫛(まるぐし)」で同じ櫛の写真と解説が現れたのです。

「主に散髪屋さんで、カットの後、カットした毛やホコリを落とすために使った櫛で、ラン甲ゴム丸、輪グシ、乱甲セルカキという別名もある。(HPの写真からするとラン甲ゴム丸はゴム製のモノを指すようです) 昭和の散髪屋さんが必ず使っていた櫛で、両手に持って、高速で頭にこすりつけて、カットした毛を落とすもので、「とても気持ち良かった」と筆者の感想が述べられていました。「カットした毛を落とす」以外にもフケを落とす目的もあったようですが、ダニやシラミ、フケやホコリを取る、細竹を糸で蜜に組んだ竹の櫛(梳き櫛=すきぐし)が専用にあったと言います。 現在はカットの後にシャンプーするのが当たり前になり、わざわざ頭皮を痛めてまで丸櫛を使う必要はなく、見かける事もなくなった。」とありました。 (http://www.himorogiwiki.net/wiki/丸櫛)

インターネットの説明から判断すると、あの場所に「理容師出身の兵隊がいた」「理容師担当の兵隊がいた」と考える方が妥当かも知れません。余談ですが、牛島司令官には比嘉仁才さんという専任の理容師がいたそうです。

ただ、竹製の梳き櫛は土に戻ったとしても、その他のハサミやバリカン、剃刀といった理容道具の痕跡が全くなかった事、一緒に出た薬瓶との関係等を考えると、疑問は残ります。 また、美容師の知人や老婦人が「沖縄の櫛ではない」と言ったのに対し、沖縄の男性の多くは「おばぁの櫛だ」と言った事も疑問として残ります。

もう一度推理をし直してみます。
1,「あの場所に女性がいた」という説は、「あの櫛が沖縄の櫛ではない」とすると、女性は県外の人か、沖縄にはない櫛を入手出来る女性という事になります。沖縄戦が始まるまでにほとんどの県外出身者、特に女性や子供は本土へ引き上げていましたし、商売等で本土との関係のある人はその伝手を利用して、出張等の名目で県外へ脱出を図っていました。ですから「あの場所に県外出身の女性がいた」可能性は低いと思われます。

2,「お守りとして女性から貰った櫛」という説は、あの櫛を使用していた女性から贈られ事になります。しかし、丸櫛の説明では「主に散髪屋さんで」とありますので、美容院や髪結で女性用に使われていた可能性は低いと思われます。ただ、昔の床屋には修行中の若い女性がいましたから、彼女等からプレセントされた可能性は否定出来ません。

日常的に使用していた物、歯ブラシとか食器なら、「洞窟の中に置いて水汲みなどに行き、死傷したり、捕虜になって戻って来れなくなった」とも考えられるますが、お守りを体から離すことは考え難いのです。 あの場所はかなり丁寧に掘りましたが、遺骨は一片も出ませんでした。遺骨が出れば「お守りとして持ったまま死亡し、主な骨は既に収骨された」とも考えられますが、櫛というお守が「私の身代わりに」という意味を持つ事から考えると、「お守り説」も疑問だらけで可能性は低いでしょう。

遺骨収集をしていると、色々な遺品が見つかります。多くは鉄兜や軍靴、飯盒、ベルトの金具等の軍装品や銃や小銃弾、手榴弾、砲弾の破片等の武器の一部ですが、今回のように日用品が見るかる事もあります。そしてその多くは使用者がわからない記名の無い遺品です。

米軍の艦砲や砲弾が降り注ぐ沖縄戦の末期に、あのガマの中で丸櫛を、薬瓶を握りしめていた人がいた。彼等が無事生還出来たかはわかりませんが、そんな人がいた事を記憶するのも、遺骨収集とは違った供養ではないかと思っています。

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