令和02年(2020年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月17日(金) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

本日の天気予報は曇り、降水確率午前50パーセント、午後30パーセントです。また最高気温21度です。頑張ります。まず朝一番で「萬華之塔」「真和の塔」「山雨の塔」「南北之塔」「台湾之塔」「義烈空挺隊慰霊塔」を慰霊巡拝します。(^o^)

「萬華之塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.1

「萬華之塔」など諸慰霊塔が並ぶ真壁の霊域を撮影しています。看板に書かれている「山3474部隊」とは通称号で、正式な部隊名は歩兵第22聯隊です。私は以前にこの看板を頼りに前方で、同塔をくまなく探しましたが見つける事が出来ませんでした。近年になってこの霊域内に移設されているのに気づきました。と言う事で、この案内看板は私と同じように前方にあるのではと考え探して歩く方が出てしまう恐れがあります。早急に撤去して頂きたいですね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.2

この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA 糸満市集出荷場 真壁支所」という倉庫のような大きな建物があります。「萬華之塔」がある一帯は沖縄戦最後の激戦地となった地域ですが、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付を募り納骨堂を建てたものだそうです。また霊域には部隊単位での、或いは個人での慰霊塔・慰霊碑も数多く配置されています。その慰霊碑の多さを垣間見ただけでも、ここ南部島尻で果てた戦没者の無念が偲ばれます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.3

最奥部にある「萬華之塔」です。昭和26年8月に真壁部落の住民が、集落内に散在していたご遺骨19,207柱を収集し、寄付金と三週間にわたる勤労奉仕とで納骨堂を建立し合祀したものです。初代「萬華之塔」は昭和26年8月に建立されましたが、現在の慰霊塔は二代目で平成15年に立て替えられた塔です。よく見ると新しい建物の雰囲気が少し残っていますよね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掛けられていたのをご存じでしょうか。下の写真がその初代の「萬華之塔」の写真です。なぜ十字架が設置されたのか?

その理由は驚くことに、米兵が頭骨に電気を入れて照明器具代わりにしたり、本国へ帰国する際の"おみやげ" にする為、納骨堂から頭蓋骨などを持ち去ってしまう事件が多発したからなのです。持ち去りが後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架が架けてあれば、米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。

そんな盗難防止の願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。同じ盗難防止という意味で、「ひめゆりの塔」にも、最初に建立された納骨堂に十字架がかけられていたのです。ちなみに大東亜戦争の最中の話ですが、米軍兵士は戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨を、さかんに本国の家族や知人に郵送して贈ったそうです。

日本軍将兵の頭蓋骨は、要するに戦勝を祝うために、小綺麗な箱に詰められたプレゼントとして扱われたという訳ですよ。プレゼント以外にも、頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。「交戦国軍・民戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えますよ。

「…日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかった」 という新聞記事がありますのでご覧下さいませ。

【米の大学倉庫に日本人戦没者?の遺骨30年以上も放置か】

「産経新聞」平成21年8月24日

【ニューヨーク=松尾理也】全米有数の名門大として知られるカリフォルニア大バークリー校の人類学博物館の倉庫に、第二次世界大戦の激戦地、サイパン島で自決した日本人などと記述された複数の人骨が収蔵されたままになっていることが明らかになった。

地元紙サンフランシスコ・クロニクルによると、頭骨を含む3体の人骨と、いくつかの頭骨のない人骨が木箱に収納されていたという。
木箱には、採取地として「サイパン」と明記され、「米軍の進攻の際に自決を遂げた日本人」などの説明が付されてあった。

大学側によると、これらの人骨はすでに故人となっている海軍医が1974年に寄付した。それ以前は、同医師が個人的に保管していたとみられる。

戦争犠牲者の遺骨が博物館の倉庫に収蔵されたまま、いわば、たなざらしになっていたとすれば、敬意や厳粛さを欠く取り扱いといえる。
バークリー校近くを選挙区とするナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)の事務所は、クロニクル紙に「経緯に重大な関心を持っている」と述べた。

また、カリフォルニア州のグロリア・ロメロ州上院議員の事務所は「いわばクローゼットに骸骨があったようなもの。人間の尊厳を冒すものだ」と、日本への謝罪と遺骨の返還を求める方針を明らかにした。

クロニクル紙は、第2次大戦中に、日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかったと指摘。戦争犠牲者の保護を定めたジュネーブ条約違反の可能性もあると問題提起した。

これに対し、大学側は「人骨の身元が日本人と判明したわけではない。兵士か民間人か、どんな状況で死亡したのかという情報もない」とした上で、ジュネーブ条約は戦時捕虜に適用される国際法であり、身元不明のままでは条約違反とはいえないと反論している。
しかし問題を真剣に受け止め、米政府当局などと連絡を取っているという。

在米日本大使館も「厚生労働省をはじめ日本の関係省庁と連絡を取り、情報収集を行っている」と関心を寄せている。

(※サイト管理者の判断で太字部分を強調させて頂きました)

「産経新聞」から転載させて頂きました

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.5

昭和26年に建立された初代「萬華之塔」です。「萬華之塔」に十字架が設置された経緯は、米軍兵士による頭骨持ち去りが後を絶たず、十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。村民のそんな願いを込めて十字架が設置されたのでした。

手を合わせているのは、南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された石原正一郎さんです。石原正一郎さんは、沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、日本軍側で砲撃の指揮をとる立場の連隊中隊長だった方なのです。

石原正一郎さんはそうした経緯もあり、戦後沖縄に通い続け、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意を込めて共に遺骨収集にあたりました。また同時に金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。石原正一郎さんは、沖縄での遺骨収集と慰霊祭参列の為に、私の推計でおそらくこれまでに70回以上沖縄に来られたと思います。

毎年6月22日に「萬華之塔」で戦没者慰霊祭が執り行われますが、石原正一郎さんは毎年その慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていたと語っていました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.4

「萬華之塔」は地元部落民等の寄付により建立されたものですが、その寄付一覧名簿です。「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、ずっと慰霊塔を守り続けて下さったのです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.5

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.6

5円、10円とか20円の寄付が多いですね。100円もお一人おられます。これらの円は、米国占領時代「B円」(ビーえん)としての円だと思います。昭和26年の10円は現在の貨幣に換算するとどれくらいの価値があるんでしょうかね。戦後の焼け野原状態での寄付に金額では計れない温情を感じます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.7

上に同じくです。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.8

上に同じくです。

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

「B円」 は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票です。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった…。」 と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれています。

B円 について、ここでもう少し詳細にウィキペディアから引用させて頂きましょう。

【B円】

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。

正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。

正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、末期のものは日本で印刷されたものもある。硬貨はなく、全て紙幣だった。

沖縄県、奄美諸島とB円
アメリカが占領した直後は、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。その他の地域では旧日本円や、久米島紙幣などの地域通貨が若干流通していた。

1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美諸島においては、これらの通貨が混合して流通していた。

しかし、アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。

当初は 日本円1 円 = 1 B円 が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1 B円(1ドル=120 B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美諸島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。

B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。

これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。

当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1 B円=1.8 日本円程度だったという。

1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。

「Wikipedia」から転載させて頂きました

「砲兵山吹之塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.9

「砲兵山吹之塔」です。昭和41年(1966年)6月22日建立されました。野戦重砲兵第一連隊(球4401)、山根忠隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。

碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は、宮内省の許可を得て、揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)の筆によるそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.10

野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊戦没者が記載された墓誌です。写真では解りにくいと思いますが、墓誌の冒頭右上に同隊に配属された鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒の戦没者10柱の氏名が記載されています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.11

「萬華之塔」の左側に「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」と書かれた碑がありました。碑も小さいですが、文字も極めて小さいので写真では全く読めませんから、テキストに起こしてみました。平成4年5月15日 沖縄復帰二十年記念として建立されたもので、「野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 文責建立石原正一郎氏」と記載されていますので、石原正一郎氏が起案した文章である事が解ります。

野戦重砲兵第一聯隊会及び石原正一郎氏が、「萬華之塔」「砲兵山吹之塔」の建立に尽力された経緯と共に、真壁住民の御厚情に対する感謝の念を強く表出しています。また戦没された方々への慰霊と顕彰に心を尽くす姿が浮かび上がってくる文面です。そして金光教那覇教会の林先生も現地慰霊祭に深く関わっているのが見てとれます。少し長いですがお読み下さいませ。

【萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記】

この浄財寄附者の碑は、昭和二十年六月二十三日沖縄戦終焉直後米軍占領下にあって、ここ當時糸満町三和村真壁部落の村民が、山野や田畑に累々と野曝しのままであった尊い軍官民戦没者の御遺骨を収集奉仕され、焼土と化した住むに家なき生活にありながら、占領下の通貨B円の五円、十円の尊い浄財を募り、納骨堂を建立し手厚く御屍を納め、萬華之塔と命名された建立基金協賛者の碑であり、納骨遺骨は約壱萬余柱に及ぶと聞く。このたび台風により破損した碑を真壁区長新垣正順氏の許可を受け、(合)本部砕石嘉手刈林春企画部長の御厚意と、例年山野の遺骨収集に協力奉仕を続ける沖縄在住米軍退役軍人ウイリアムJブレブル夫妻(妻邦子沖縄県民)のご協力により補修完成した。

砲兵山吹之塔建立も昭和四十一年四月遺品の火砲を米軍司令部より返還受領訪沖時、この地真壁の故金城増太郎先生、糸満市田島重男町会議員はじめ、村民一同の好意ある会議決定により無償で許可された。砲兵山吹之塔建立二十年を経た昭和六十一年十二月塔の補修工事中、左側珊瑚礁附近より発見された御遺骨もブレブル夫妻、キャップテンメンザ夫妻、篤志家栃木県高岡敏郎氏、金光教沖縄遺骨御用奉仕団等の協力を得て、二カ年にわたる遺骨収集奉仕により、数多くの遺品(球第四四〇一認識票外)と十三柱を収骨し、「諸霊安らかに」の建碑を奉献した。ここに由来を刻し縁りの遺族戦友はじめ本土同胞として、沖縄県民特に真壁村民の御厚情を永久に銘記し、深く感謝の誠を捧げる次第であります。

因に萬華之塔内遺骨は、昭和四十一年六月二十二日挙行された砲兵山吹之塔建立除幕式慰霊祭の祭主として来沖された、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下(明治天皇皇孫、昭和天皇第一皇女故照宮成子内親王殿下の背の宮、今上天皇御義兄)の御意思により、占領下の昭和四十二年六月二十二日縁りの本土、沖縄生残りの戦友と米軍上陸前部隊駐屯地東風平村出身故神谷正雄氏御一家の御協力奉仕により、萬華之塔内の御遺骨を全て搬出し、那覇市日蓮宗妙光寺故新垣宣岳上人読経裡に一昼夜に及ぶ荼毘作業を営む。(偶々新垣上人御長男宣恒命は球第四四〇一部隊第六中隊衛生兵として真壁に戦死、萬華之塔に納骨され御尊父の回向供養を受く、奇しき法縁であった)

荼毘を終えた分骨二基を砲兵山吹之塔に供え慰霊祭を営み、分骨は岩水、石原両中隊長の胸に抱かれて本土に奉還され、靖國神社の特別の御配慮により境内奉納沖縄戦遺品の火砲と対面を許された。(靖國神社境内に戦没者が迎えられたのは御創建以来前例はない)この年七月十五日うら盆回に故東久邇盛厚王元宮総裁祭主となられ、本土遺族戦友により長野県善光寺忠霊殿、山梨県日蓮宗総本山身延山久遠寺に盛大に納骨法要を挙行、更に昭和四十五年六月二十二日沖縄、本土遺族戦友、真壁村民により砲兵山吹之塔、萬華之塔慰霊祭を営み、分骨を訪沖遺族戦友奉持して、和歌山県高野山沖縄戦戦没者供養塔に納骨、豪雨の中遺族戦友により盛大に納骨回向慰霊祭を挙行した。

昭和五十四年二月摩文仁ヶ丘国立戦没者墓苑完成、橋本龍太郎厚生大臣祭主の沖縄戦全戦没者追悼式典挙行時には、萬華之塔分骨を国立墓苑納骨堂に納骨した。例年の慰霊祭は、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下の御意思により決定された六月二十二日を玉砕日と定め、真壁区民建立の萬華之塔と砲兵山吹之塔協賛行事として縁りの遺族戦友、真壁区長以下全区民参列、金光教那覇教会長林雅信師を祭主として二十七年間欠かすことなく挙行し、沖縄戦友は例年清明祭を営み今日に至る。

因に球四四〇一部隊沖縄県出身兵戦没者は七十八柱、配属鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒十二柱が散華された。この砲兵山吹之塔は本土神奈川県真鶴産の原石を本土で加工し、沖縄に輸送したものである。碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は宮内省の許可を得て、御製と砲兵山吹之塔の御揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)米寿の筆になる。

碑裏面と顕彰碑の文字は石原正一郎記し顕彰碑文も起案す。砲兵山吹之塔祭主東久邇盛厚王元宮殿下は、昭和十四年対ソ連ノモンハン事件参戦時の第一中隊長殿下であり、昭和四十四年二月一日薨挙去、一乗院日静上人も昭和四十六年十二月二十七日行年九十三才の御長寿にて遷化された。

諸霊よ安らかに

平成四年五月十五日 沖縄復帰二十年記念 野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 合掌 文責建立

(サイト管理者注:常用漢字にない漢字は常用漢字に変換しました。その他は原文ママ)

「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」碑文を起草された石原正一郎氏とは、ご自宅を訪問するなど交流させて頂きましたが、本文に出てくる「篤志家栃木県高岡敏郎氏」とも金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で出会い、爾来石原正一郎氏同様長いお付き合いをさせて頂きました。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という書籍の第十章 白梅の香り永久に には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんが書かれています。高岡敏郎さんは昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。

私と石原正一郎氏と高岡敏郎氏との連絡手段は、携帯電話やインターネットの無い時代でしたから、通信手段はもっぱら手紙です。電話という便利な通信手段があるにも関わらず手紙でした。殆ど常に手紙でやり取りしました。文通といってもよい程です。昔の方は電話よりも手紙の方が、圧倒的に自分の気持ちを表すのに良い手段だと感じていたのだと思いますね。電話は邪道だと。(笑)

私の親世代でもある石原正一郎氏、高岡敏郎氏が書き記す文面は、実際に電話での会話では言い表すことのできない程の深みのある、実に含蓄ある言葉がちりばめられ、体験したからこその説得力ある文脈で全編綴られていました。

ただ一つ私が難儀したのは、送られてくる便箋の枚数が毎回半端ない数だったことです。十枚以上というのが時折ありました。皆様考えてもみてください。例えば便箋10枚の手紙をもらった場合、返す便箋枚数が1枚というのは失礼に当たると考えてしまいますよね。(^_^;

そこで文章量をかさ上げしなければなりません。10枚もらった場合は、最低でも3枚は書かねばなりません。そこで七転八倒の苦難を味わうのです。(笑)

今となっては懐かしい思い出ですが、石原正一郎氏、高岡敏郎氏が沖縄に向ける熱情は、人の心を揺り動かさずにはいない程の強さがありました。同時に私が金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けた事も強く影響し、子供が親の背中を見て育つように、この私もまた沖縄へと沖縄へと心が向かったのでした。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.12

「砲兵山吹之塔」前に立つ石原正一郎さんです。昭和63年に撮影された、この写真は上掲の十字架の架かる萬華之塔の写真と共に、石原正一郎氏から頂いたものです。

沖縄戦も終局に近づいた昭和20年(1945年)6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死しましたが、石原正一郎さんは日本側の当時の野戦重砲第一連隊の中隊長として指揮をとっていました。そうした経緯で「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」建立に尽力されました。そして石原さんは毎年6月22日に催されるこの地での慰霊祭には毎年必ず参列されるそうです。

沖縄遺骨収集奉仕活動で多大な貢献をされた石原正一郎さんは、金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。また私も東京の千駄ヶ谷にあるご自宅にお訪ねしたり、携帯電話やメールなども無い時代でしたから、手紙で頻繁にやりとりするなど親しく交流させて頂きました。

南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事群の中からから見つけましたので、ここに転載させて頂きます。

【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】

「琉球新報」平成14年6月18日

【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。 使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。

体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。

「琉球新報」から転載させて頂きました

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.5

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:B0400
アルバム名:米海兵隊写真資料53
撮影地:
撮影日:1945年 6月
写真解説:
【原文】 LAST PHOTOGRAPH OF GEN BUCKNER: This is the last pix taken of LtGen Simon Bolivar Buckner, extreme right, commanding general, 10th Army, who was killed on Okinawa June 18 when hit by an enemy shell. The general is shown at a forward observation post of the USMC 6thDiv during an attack. A few minutes later, he was killed.
【和訳】バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。

第10陸軍司令官バックナー中将戦死について、記述されている本を二冊ご紹介します。

《書籍ご紹介》

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下)

ジョージ・ファイファー著/小城正訳 早川書房 平成7年(1995年)初版

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下) では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(332-334頁)
しかし、その地区に散在していた日本軍の砲兵部隊は、まだ散発的にに激しい射撃を行っていた。活動的で頑健なバックナー司令官は、戦闘の第一線にきわめて近い地点への訪問を延期するようにという要請に耳を傾けなかった。彼はあらたに戦場に投入された連隊の連隊長やその他の高級将校を伴って、島の南西端の断崖や岩の多い海岸がよく見える前進観測所へやってきた。…自信に満ち、非常な努力家で、戦いに勝利を得つつあった彼は、第10軍司令官という地位がはまり役であると思われたが、数週間後には、アメリカ陸軍の指導的な地位にあるごく少数の将軍の一人として本国へ帰還し、日本本土に対する進攻においてもっと大きな作戦を指揮する準備をすることになると思われていた。

真栄里…には、アメリカ軍の射弾観測用の眼鏡にほかにもうひとつ、日本軍からの捕獲品の砲隊鏡が設置されていた。それらの眼鏡は、約1ヤードはなれた大きな2つの丸石の間に設置してあった。それは、さらに南寄りの高地にいた、日本軍の野戦重砲兵第1聯隊の最後の砲に対して掩護するためのものであった。

その野戦重砲中隊は、最後の高地へ後退する際に典型的といえるような大きな損害をこうむっていた。…アメリカ軍の連日の集中射撃によって砲手は脅威を受け、軍の誇りであった砲は破壊され、中には1発も射撃しないうちに破壊されたものもあった。今は、中隊の火砲12門のうち1門だけが残っていた…。

ちょうど午後1時を過ぎた頃、かろうじて生き残っていたこの隊の1人が北方の高地に目を向けて、双眼鏡の焦点を合わせてみると、驚くべきことに、明らかに高い地位にあると思われる敵の将校数名が立っているのが見えた。この将校たちは眼鏡で、今いる位置とは反対側、つまり東側の海岸にある牛島将軍の司令部の方向を見ているようだった。バックナー中将は、見晴らしの良い観測所に1時間ほどいて立ち去ろうとしているところだった。…射撃指揮に熟達した日本軍の指揮官が、最後まで残った砲に、重要な将校の一群という魅力的な目標に対して射撃を命じた。戦砲中隊の残りの者は、急いで洞窟の中に入った。「われわれが1発撃つと、向こうから、1千発の『お返し』を受けることがよくわかっていた」からである。

その砲からは5発発射された。…砲弾の1発が、防護用の大きな丸石にひとつにあたり、飛び散った石の破片が砲弾の破片とともにバックナーの胸部と腹部に食い込んだ。(※)出血がひどかったので、彼を救護所に後送することはできなかった。一行に随行していた衛生兵が必死になって止血に努めたが、バックナーは10分後に落命した。

※ 大方の記事には、珊瑚礁の破片となっているが、砲隊鏡の位置に配置されていた砲兵隊員は、岩石の破片が最大の打撃となったといっている。

作戦の終わる時期が近くなったからといって、決して戦死するおそれがなくなるわけではないことを最初から知っていた歩兵部隊の将兵にとって、この事件はそうした考えが正しかったことを証明する物であった。新たに戦場に投入された海兵第八師団のある人物は、「私にいわせれば、全軍の司令官ともあろう人物が、あんな前線に出てくるべきではなかったんだ」といった。(※)

※ アメリカ軍の間に、沖縄の民間人に対して残虐な行為を犯した者が生じたのは、この事件に対して復讐したいという気持ちがあったからかもしれない。六月十八、十九、二十日の三日間に計六十名を殺害した事件は、十八日におけるバックナーの戦死直後に起きており、そのすべてが同じ地区で発生している。その中の数件は、観測所のあった稜線のすぐ下の真栄里で起きたのである。

「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「日米最後の戦闘」

米国陸軍省編/外間正四郎訳 サイマル出版会 昭和43年(1968年)初版

「日米最後の戦闘」は、翻訳に難があるという指摘もありますが、基本的に米国陸軍省の公式見解であるとも言えるでしょう。同著では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(255-256頁)
米軍にくらべれば、日本軍の損害率は、しだいに高くなっていったとはいえ、米軍のほうもまた、狙撃兵を求めて南部で掃討戦にはいったり、あるいは真栄平、真壁の部落での戦闘で、かなり多数の戦死傷者をだしていた。日本軍の組織がくずれさったことで、米軍は攻撃の手をゆるめたわけではなく、これまでと同じようにはげしい攻撃を展開、日本軍のほうでは、首里戦線のときよりも、多くの損害を出していた。首里陥落後の日本軍の前線が、崩落するまでに蒙った第十軍の損害は、千五百五十五人の戦死、六千六百二人の負傷であった。

この戦死者のなかに、バックナー中将がいた。中將は、6月18日の昼過ぎ、ちょうど、島の南西端近くにある、第二海兵師団第八海兵連隊の前戦観測所に立ち寄ったところだった。この師団は、4月1日と19日に陽動作戦を行っただけで、どの部隊もまだ実際には上陸せず、6月に入ってから、最後の戦闘に参加するための第八連隊が、はじめて上陸したのである。バックナー中將は、この海兵隊の進撃状況を、視察しているところだった。そこへ午後1時15分、日本軍の一発の砲弾が観測所真上で炸裂。こなごなに吹き飛ばされた岩石の一つが、バックナー中將の胸にあたった。中將はその場にくずれるようにして倒れ、10分後には絶命したのである。バックナー中将にかわって、沖縄作戦の上級司令官ロイ・S・ガイガー海兵隊少将が、第十軍の指揮をとった。そして六月二十三日には、ジョセフ・W・スチルウェル将軍にかわった。

バックナー中将が戦死した翌日、第九六師団の副師団長クロウデュス・M・イーズリー准将も戦死した。イーズリー准将は、前線の勇士として、全軍将兵から尊敬されていた。ちょうど、日本軍機関銃陣地のある地点を指揮していたところを、飛んできた二発の機関銃弾に、前頭部を撃たれて即死したのだ。この両将軍のいのちも、沖縄戦勝利のかげに眠る、第十軍七千以上の、尊い犠牲のなかに加えられた。

「日米最後の戦闘」から転載させて頂きました

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「馬魂碑」です。「愛馬よ安らかに眠れ」と書き記されていました。沖縄戦では沢山の軍馬も動員されましたが、そうした戦場に果てた軍馬の慰霊碑なのですね。沖縄戦では本土から沢山の軍馬が搬送されましたが、一方で沖縄の在来馬もその多くが軍馬として動員されたそうです。ちなみに真壁にはもう一カ所「馬魂碑」がありますね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬と
攻めて進んだ山や河 とった手綱に血が通う」

愛馬行進曲の一番の歌詞をご紹介しました。曲は六番までありますが割愛させて頂きます。因みにこの軍歌の作詞者は誰だと思いますか。?

意外や意外、私も知らなかったので偉そうに書けませんが、大東亜戦争中に只一カ所だけ攻める米軍側の死傷者が多かった戦場。そうです硫黄島での硫黄島守備隊(小笠原兵団)を指揮した栗林忠道陸軍中将です。硫黄島の戦いは沖縄戦の二ヶ月ほど前の2月19日から陸上戦闘が始まりました。因みに栗林中将は軍歌「暁に祈る」も作詞されています。硫黄島の戦いと言えば、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を思い出しますが、見られた方も多いのではないでしょうか。この映画は日本軍側の視点で描かれていますが、米軍側の視点を描いた「父親たちの星条旗」という映画もありましたね。

沖縄第三十二軍司令部には、参謀部や副官部のいわゆる幕僚部のほかに、経理部や法務部など色々ある中に獣医部というのがあり、軍馬はその獣医部が管理していました。沖縄戦が開戦するまでは、獣医部は那覇市内第一高女の運動場の隅に馬繋場や水飲み場、厩舎等が設けられていたようです。沖縄戦に動員された軍馬の総数は二千頭は超えていたと言われます。大変な数ですが、弾薬、糧秣、陣地構築資材などは、その殆どが輓馬隊が行っていましたから、第三十二軍総数が十一万人余りである事を勘案すると、もしかしたら少ないと言える頭数なのかもしれません。軍隊では食料を「糧秣」と言いますが、「糧」は兵士用の食料を指し、「秣」は「まぐさ」つまり馬の飼料を指すようです。愛馬行進曲の歌詞を読むと納得できますが、正にこの時代の軍隊とは軍馬一体なのですね。

「牛飲馬食」という四時熟語があります。牛は水を大飲みし、馬は大食いだという意味だそうですから、二千頭を超える馬の飼料を確保するのも大変だったと推測されますし、馬は繊細な動物で戦場など悪環境では神経質になり病気に掛かりやすかったと言います。こうした軍馬を管理する部隊は、世話に追いまくられ筆舌に尽くしがたい苦労をされたようです。沖縄戦では軍民併せて二十余万人が亡くなられましたが、ここにご紹介したように二千頭を超える軍馬もまた、開戦二ヶ月ほどでほとんどが戦死したと言われています。こうした事を肝に銘じ改めて軍馬に対しても慰霊の念を深めていきたいですね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.13

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」です。部隊名をご覧下さい。山3480部隊(野砲兵第42聯隊)と通称号が先で正式な部隊名は後回しとなっています。防諜上の理由から通称号が用いられている訳ですが、沖縄戦ではほとんど通称号が使われたみたいで、こちらが一般的な呼称となっていたようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.14

山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑碑文です。テキストに起こしてみました。

【山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑碑文】

山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。

翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。

やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。

また、輓馬部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃れる数を増し、戦火の消えたときついに一頭の姿もみることはなかった。

沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。

これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。

昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.15

山3480部隊戦没者氏名が書き記されています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.16

裏面も同じように戦没者氏名が列記されています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.17

「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」です。台座部に「沖縄連隊区司令官 陸軍少将井口駿三閣下 祭霊外88柱」と記されていました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.18

諸部隊の慰霊碑や個人の慰霊碑など、ご覧の様に数多く碑が設置されています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.19

砲弾が立っていました。1トン爆弾というのを見た事がありますが、この砲弾はそれよりも小さいですから、〇キロ爆弾という呼称なのでしょうか。?

「アンディラガマ/真壁千人洞」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.20

「萬華之塔」の右側には、ご覧のような舗装された歩道があります。この歩道を60メートル程進むと大きく口を開けた壕がありますので、行ってみましょう。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.21

壕口が見えてきましたね。鬱蒼とした雰囲気です。ただ何年か前の巨大台風の被害により、倒木が多かったのでしょうか、近年は昔と比べて光が入るようになり、不気味な雰囲気は和らいでいます。実際にご覧のように樹林の外側に光が見えますからね。昔は全く見えなかったんですよ。最も曇りの日や雨の日は、相変わらず暗くて怖い雰囲気になりますので、見学する場合は曇りや雨の日は避けたほうが無難です。

ちなみにこのアンディラガマから南南東方向に150メートルぐらい行った場所に、第二十四師団野戦病院分院だった「アンガーガマ」があり、私も松永さん、吉井さんと共に、一度最奥部まで調査したことがあります。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.22

アンディラガマ(真壁千人洞)の壕口が見えてきました。大きな開口部です。沖縄戦当時は擬装もままならなかったと思われます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.23

それでは中に入ってみましょう。但し一つ注意しなければならない点は、この壕内には絶滅危惧種のコウモリが生息しているとの事です。コウモリの巣であるコロニーに強い照明を当てるなどは厳禁ですからね、その点は注意しなければなりません。ただこれまであまり深くは入っていないせいでしょうか、一度もコウモリを見た事はありません。因みにアンディラガマ(真壁千人洞)の全長は250メートルぐらいあるそうです。最奥部には水源もあるとの事です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.24

30メートルほど入った所で入り口部分を撮影しました。かなり大きな開口部であるのが見てとれます。やはり擬装するのは困難だった事でしょう。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.25

遺骨収集をした時に集められた遺品でしょうか。一カ所だけですが、ご覧のような遺品が沢山置いてある場所があります。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.26

更に奥に入ってみましょう。写真は壕空間の左側を捉えています。こちら側は先へは進めず行き止まりになっています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.27

壕の右側の壁面等を撮影しています。壁面が火炎放射攻撃による煤で真っ黒ですね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.28

少し解りにくいですが、写真中央部に小さな穴があります。そこが坑道の入り口となります。それではその狭い坑道に入ってみましょう。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.29

ゲゲッ、立ち入り禁止の看板が設置されています。
昨年はありませんでしたから、この一年の間に設置されたようです。立ち入り禁止の看板がある以上、前進する事は出来ません。残念ですが引き返しましょう。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.30

帰り際に撮影しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.31

帰り際に撮影しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.32

帰り際に撮影しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.33

帰り際に撮影しています。

昨年の立ち入り調査では、設置された立ち入り禁止の看板よりも前進出来た事もあり、昨年撮影した写真を、狭い坑道入り口から再掲載させて頂きますのでご覧下さいませ。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.34

右側に回るとやはり坑道がありました。壕口からすでに30メートルぐらい入っているので、これ以上前進するのは危険だとは思いましたが、あと20メートルを限度に前進して見ることにしました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.35

鍾乳石の間を潜るようなイメージで不思議と空間が続いています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.36

立って歩くことは出来ませんが、屈んで歩ける程度の高さはありますね。もう少し前進してみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.37

少し狭くなってきましたが、まだ前進できます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.38

狭い坑道になってから20mぐらい前進しました。もっと奥まで行きたいという思いは募るのですが、ここで引き返しましょう。このガマはご覧のようにガチガチの鍾乳石から成る石灰岩の空洞です。大昔この空洞に水が流れていたと言う事になります。この空洞は見ての通り落盤の危険性も無く、また最奥部に水源があるとの事ですから酸欠の恐れもありません。という事で、まだ先に行きたい思いは強いですが、万が一事故を起こしたら社会に大変な迷惑を掛けてしまいます。

またこのアンディラガマ(真壁千人洞)には絶滅危惧種のコウモリが生息しているようなのですが、少なくとも私が前進した位置20mぐらいまでの範囲では、飛翔や威嚇がなかったので巣は無さそうです。いずれにしても、この壕の全長は250mぐらいあると言われています。見て解る通り、壕内は恐ろしい程の火炎放射攻撃を浴びて真っ黒けです。この黒さ加減は、「独立高射砲27大隊本部壕」と双璧を為すものです。更に奥はどの様になっているのか‥。慰霊行脚という意味で、いつの日か状況が許せば、松永さんにガイドして頂きながら、南部戦跡遺骨収集会の全メンバーで見学したいと念じています。私が沖縄遺骨収集奉仕活動から引退する数年内にぜひ実現したいです。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.39

無事に壕開口部まで戻って参りました。

「萬華之塔」前の道路を東に100メートル程行くと、小高い樹林帯となっている丘がありまして現在真壁公園となっています。その丘の頂上には昔日の古城である「真壁グスク」があったそうです。

真壁グスクの発掘調査を実施した市教育委員会によると、出土したグスク土器、外国産陶磁器、鉄器、古銭等を調査した結果、14~16世紀の三山分立時代に南山城の出城として築かれたグスクである事が判明したそうです。地元では「寺山」と呼ばれ、南側のグスク入り口近くには真壁神宮寺が建っています。

その真壁公園の一角に「真和の塔」がありまして、この塔は平成21年ですから、今から10年前に慰霊巡拝で初訪問しています。同塔が地図に掲載されていない事から、探し当てるのにかなりの時間を要したのを覚えていますが、二度目である今回は久しぶりの再訪という事になります。

「真和の塔」は第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の各砲兵隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は首里戦線でも比較的残存率が高く、島尻の新陣地即ち具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里に至る最後の防衛ラインの、主に真壁と真栄里に布陣した砲兵部隊は、島尻の戦いでも正確な砲撃で米軍を圧倒する場面もありましたが、戦車や火炎放射攻撃で迫る米軍に圧倒され、また砲門などの兵器も破壊され尽くし、やがて他の部隊と同様、砲兵部隊もまた斬り込み玉砕で散華されました。

「真和の塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.40

真壁グスクの解説です。問題なく読めますね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.41

「真和之塔」が奥まった所に見えますね。公園に入ってすぐ右側の所にありますから、見落とす事はないと思われます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「真和之塔」です。昭和41年(1966年)3月に建立されました。同塔は第24師団の第5砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は真壁と真栄里に布陣しましたが、その布陣のゆかりの地である真壁に慰霊碑を建立したという事でしょうね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.43

慰霊碑碑文です。テキストにしましたのでご覧下さいませ。

【真和之塔碑文】

昭和20年5月下旬新垣・与座岳・真壁の線に放列陣地を敷いた第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の将兵は優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲を全部破壊されるも怯まず全員白兵斬り込みを敢行して壮烈なる最期を遂げたり。 ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う

昭和41年3月 財団法人沖縄遺族連合会

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.44

「真和之塔」のすぐ裏のジャングルを見ると、すぐに急傾斜の岩場になっているのが見えますね。掘られた陣地壕があるのかないのか判然としませんが、周囲がほとんど平坦部なだけに孤立しているように見えるこの丘は、集中的な攻撃に晒されたに違いないという印象を持ちました。

今日「真和之塔」を慰霊巡拝したのは、数年前に具志頭での調査・遺骨収集作業中にメンバーが、野戦高射砲第81大隊将兵が身につけていたと思われる認識票を発見した事によります。日本軍の認識票は単なる識別番号みたいなものですから、個人が名前を彫り込むなどしない限り、身につけていた将兵の氏名を追跡する事は叶いません。但し所属部隊は判明するケースが多いです。

その認識票に書かれている記号・番号を、参加メンバーが沖縄から帰ってから精力的な調査を行った事により、所属部隊名が判明したのです。発見された認識票の持ち主は、この慰霊塔に祀られている野戦高射砲第81大隊の兵士だったのです。福岡さんは、この部隊の編成地である福井県鯖江市嶺北忠霊場に「福井県平和祈念館」があると聞いて、何か情報が得られるかも知れないと車で出かけて行ったりもしました。結果として新たな情報は得られませんでしたが、それにしても驚くべき行動力です。

こうした経緯もあり、今こうして認識票の兵隊さんが所属していたであろう部隊の慰霊碑に向かってご冥福をお祈りした次第です。長く遺骨収集をしてる立場の責務として、こうしたきめの細かい慰霊活動はとても大切だと感じています。

《書籍ご紹介》

「沖縄の最後」

古川成美著 河出書房 昭和42年(1967年)初版

著者の古川成美氏ですが、大東亜戦争が始まった昭和16年に大学を繰り上げ卒業し、その二ヶ月後学徒兵として中部第24部隊に入営するも教育要員として学校勤めに戻され、今の高校生にあたる青少年の教育に打ち込んでいましたが、昭和19年(1944年)当時28歳で、「七月二十日午前九時、福井県鯖江ノ聯隊二入隊セヨ」と召集令状が来たとの事。そして配属先が独立高射砲第八一大隊、球一二四二五部隊と決まった‥。

「沖縄の最後」冒頭の記述を一部抜粋しましたが、この本は出版後一年で8刷に達するベストセラーとなったようです。また再販を重ねる内に、内容文の一部更新しているとの事です。私が購入した書籍は第一刷となっていました。またその後高級参謀であった八原博通氏より、1000枚に及ぶ沖縄戦手記の提供を受け、昭和24年(1949年)に「死生の門─沖縄戦秘録」を出版しましたが、こちらも重版を重ねたようです。因みに「死生の門─沖縄戦秘録」は読めば一目瞭然、八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」とほぼ同じ内容なのだそうです。登場人物を架空の名前にしてストーリーに加えたようです。

著者の所属する部隊である独立高射砲第八一大隊は、中頭郡読谷村にある北飛行場で防空任務に就きました。初戦は昭和19年10月10日の対空戦闘の参戦でした。そして沖縄戦開戦、以降北飛行場、前田、翁長、小波津、与那原、そして慰霊塔「真和之塔」のある真栄平までの転戦の様子が筆致鋭くリアルに描かれています。著者は真壁部落の東側の小高い丘の斜面にあったトーチカで負傷し、傷病兵の悲惨さをなめ尽くして沖縄戦を生き抜かれた方です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.45

「真和之塔」の左隣の山裾に井戸がありました。現在は四角い石組みの中に少し水が貯まっているという風情です。グスクの近くには井戸が必ずある‥。その通りですね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.46

井戸の前方はご覧の様に、擁壁もあるなど川という雰囲気です。その昔は井戸からこんこんと水が湧いていたのかもです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.47

車による移動の途中、見事なブーゲンビレアが咲いていたので、車を降りて撮影しました。

「山雨の塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.48

糸満市の宇江城という集落の一角に「山雨(やまあめ)の塔」があります。道路脇にあるので見落とす事はないと思われます。フロントにモクマオウの木が一本ありますが、近年は枯れ枝も目立ち少し元気がないです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.49

「山雨の塔」です。軍旗捧焼の地でもあるようです。山雨の塔(やまあめのとう)とは、第24師団の通称である山部隊の「山」、そして師団長である雨宮巽中将の「雨」を併せて命名されました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.50

「山雨の塔」です。この慰霊塔は1962年に建立され、第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500柱がここに合祀されています。中央の塔が雨宮中将、両脇の塔が部下の幕僚を表し、部下幕僚が雨宮中将を助けている形を象徴しているそうです。

この師団は満州に駐屯していましたが、昭和19年8月に第32軍に編入され沖縄に転進してきました。第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にある壕内で自決し、同師団は壊滅したのです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.51

書かれている碑文が年々読みにくくなっていますでテキストに起こしました。

【山雨の塔碑文】

大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会 

「沖縄戦 二十四歳の大隊長」 陸軍大尉伊藤孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研パブリッシング 平成27年(2015年)初版

伊東元陸軍大尉ご自身の著書をぜひ読ませて頂きたいと念じていますが非売品という事で断念。また笹 幸恵氏の著書という事で迷わず購入。しかしながら予想通り、戦記物にしては文体が優しく、戦場の息を呑むような臨場感が伝わってこないのが残念です。それはともかく、「二十四歳の大隊長」というタイトルにも惹かれました。大隊長と言えば平時は少佐ですが、大東亜戦争末期は将校の任官が追いつかずこうした事態になったのでしょうか。いずれにしても、この若さで800名の将兵の命を預かる‥。その重圧たるや想像するのも難しいですね。

歩兵第三十二聯隊第一大隊は、沖縄戦関連では必ず同隊の戦いぶりが出てきますが、更に驚くのは伊東孝一陸軍大尉は、実戦は沖縄戦が初めてと言うのにも驚きました。世に机上の空論という言葉がありますが、伊藤大尉は予科士官学校を卒業して歩兵第三十二聯隊に入隊して以降、研究熱心という性格も手伝って、徹底して戦略や戦術を研究したという経緯があります。世界史を紐解き有名な戦争を分析し続けたのです。そうした机上ではありますが、実地を想定する真剣な学びが、沖縄戦と言う実戦の場で当意即妙に生きたと言う事でしょう。

この「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊藤孝一の戦い」笹 幸恵著/(株)学研パブリッシングに、第24師団長 雨宮巽陸軍中将が、山雨の塔の左手にある「クラガーガマ」の中で自決した時の様子が記述されていますので転載させて頂きます。

(251-253頁)
6月23日、師団司令部のあった真栄平の壕は、米軍の完全な包囲下にあった。すでに軍司令部との連絡は途絶え、わずかに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決めていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。そこへ、それまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、「歩兵第89聯隊長と工兵第24聯隊が、今から10分後、新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。

師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま、箸をとり続けていた。

苦難の連続に、恰幅の良かった彼も顔は青白く肉は落ちていた。こけた頬をローソクの灯がゆらゆらとなで回している。

しばらくして杉森参謀が報告した。

「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します」

「うむ」

雨宮は短く答えた。

壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなあ」

その夜、動ける者は全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。

仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代の答えは決まっていた。

「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」

わずかに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。

仁位は説得をあきらめた。

夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮は事もなげに側近に言った。

「ここにとっておきの上等なウイスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」

周囲もまた、何の屈託もなく、また未練もなさそうに何やら世間話をしていた。

仁位は出撃に際し、師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。そして2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった‥。

この手記から、雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。

「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸恵/(株)学研パブリッシング) 第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記よりから転載させて頂きました

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.52

隣地との境界塀に立てかけられていますが、小さな石板に詩が書き記されています。この霊域に置かれていると言う事は、第二十四師団隷下の部隊に所属していて戦死されたと思われますが、戦死された兵士のお母さんが、参拝の折りにこの地に置いていった小さな石碑です。昔から土に固定されたり埋められてはいませんでした。私が最初にこの「山雨の塔」に最初に慰霊巡拝で訪れた際には、邪魔者扱いされるかのように、霊域の片隅にすでに置いてありました。ある年からは石板が割れていました。心が痛むので、同塔に訪れた際は必ず手を合わせています。

「クラガーガマ」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.53

「クラガーガマ」はご覧のように金属柵が設置されていて、残念ながら壕口には近づけない状況です。  

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.54

金属柵の中に腕を入れて撮影しました。「クラガーガマ」の壕口は見えませんね。雑草がはびこり何年も人が歩いてないと言う様な荒れ方です。ご覧のように数年前から柵が設けられて自由に出入りできなくなりました。ですからここ数年ガマに入った事は無いですが、金光教では何度かこの壕で遺骨収集が実施され、ご遺骨が収集されました。この壕は「クラガーガマ」と地元民は呼び、「暗井戸」という意味だそうです。地元民の避難洞窟として利用され、また壕内は川が流れていることから、避難民の水くみ場を兼ねていたといいます。

「クラガーガマ」から発見された御遺骨です。

遺骨収集の様子6

平成20年(2008年) 金光教の遺骨収集により、「クラガーガマ」から発見された、頭蓋骨が焼かれ真っ黒になっているご遺骨です。

御霊様に申し上げます。
戦争の悲惨さを指し示す為に、御遺骨を頭骨と共にサイトに掲載させて頂きました。なにとぞ御了承下さいませ。御霊様におかれましては、安住の地に安らかに御鎮まり下さいますようお願い申し上げます。私達は目をそらす事なく御遺骨を見つめなければなりません。また 私達は戦争により起こりうる悲惨さを、この目でしっかり見届けておかなければなりません。
【平成19年(2007年)2月18日金光教遺骨収集にて発見・収骨】

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にある壕内で自決し、同師団は壊滅したのです。

雨宮師団長や幕僚が自決したこの壕は「クラガーガマ」と地元民は呼び、「暗井戸」という意味だそうです。地元民の避難洞窟として利用され、また水くみ場を兼ねていたといいます。現在の壕の入り口は大きく開放されていますが、沖縄戦当時は米軍にこの壕の存在を把握してからは、米軍により出入り口をブルトーザーで塞がれてしまったという話です。

米軍の馬乗り攻撃においては、どこか穴を開けられてガソリンを流し込まれたり、爆雷を投げ込んだりの徹底的した「馬乗り攻撃」が為され、壕内で亡くなった日本軍将兵が、一説には千人とか二千人に上るとも言われているそうです。壕内空間の広さを知る私としては、即座にその人数は入れないとは感じますが‥。

私も以前にこの壕内の奥深く進めるところまで行ってみた事があるのです。壕は少なくとも200mは容易に前進できます。そこから先は急に狭くなっており、人間も屈んで真っ直ぐにならないと前進出来ないほど狭いのです。その時は、普通の装備だったので、その穴を通ることは出来ず断念し、そこからは引き返したのです。

壕内調査を終えた後、地上に出て反対側に出入り口があるかどうかの調査も行いました。反対側にも入り口があるという地元の方の情報があったからです。私達も300m先のジャングルの中を丹念に探索しましたが、残念ながら反対側の出入り口は発見できませんでしたね。

不思議だったのは、そのジャングルの中に川が流れているのですが、道路の路肩付近で地面の中に吸い込まれていくのです。私たちが入った「クラガーガマ」の水の流れも奥へ奥へと流れていますから、位置的に見てジャングル内の川と壕内を流れる川が合流している可能性もなきにしもあらずと感じられました。

地元では「クラガーの中は二股に分かれており、米須を通って最後は大渡の海岸まで地下水のトンネルになっている」という話もあり、壕の奥の方がどのようになっているのかは、これからの課題として順次調査を進めたいと思いますよ。

この壕内には多くのご遺骨や遺品が散在していると思われますが、ご遺骨を捜すのは極めて困難な現況なのですね~。それといいますのも、この壕内には驚くほどの汚泥が堆積しているのです。恐らく沖縄戦当時はそのような状況には無く、汚泥の堆積は戦後になってからだと思われます。

戦後の壕入り口付近での貯水池などの設置工事などにより、水がこの壕に集中するようになったと思われ、台風など大雨の時には壕内に大量の水が流れ込むようになっていますが、その水が200m先の狭くなっている部分から先に、容易に流れ去っていかないので、壕内が貯水槽のような働きをして、水に混じった土砂が沈殿してしまうのだと思われます。実際に発見されるご遺骨や遺品は、戦後堆積した汚泥の中ではなく、汚泥底部の固い地面部分付近から発見されるのです。

いずれにしても、水も確保できるし相当数の人たちを収容できる素晴らしい壕だったのでしょうが、現在は歩くのも困難なほど膨大な汚泥が堆積し、収集作業を極めて困難な状況にしています…。この汚泥の中から、平成20年(2008年)金光教の遺骨収集で、アメリカグループのロンさん達が、上掲の黒く焼けこげた頭骨などの完全一体のご遺骨を発見したのでした。

翌年には発見された場所の周辺部を探索してみる必要があるというロンさんの提案で、アメリカグループと4班の皆さんが、この壕内で汚泥と戦う事となったのです。私も壕内に入ってアメリカグループと4班の皆さんの悪戦苦闘ぶりを見て、本当に心から、その悪戦苦闘ぶりに驚きを隠せませんでし。これから汚泥と戦う写真を見て頂きます。どうぞ彼ら彼女らの奮闘ぶりを、賞賛してやって下さいませ~。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子31

【一日目の様子ご紹介】
「山雨の塔」横にある「クラガーガマ」壕口の様子です。壕の洞窟空間はこのまま奥の住宅地方面に伸びています。この壕口は米軍の馬乗り攻撃により、ブルドーザーで埋められてしまったという話です。壕口は戦後復活したという事の様です。

遺骨収集の様子32

壕入り口付近の様子です。女性が進もうとしている方向が壕内となります。作業の効率性を高めるために発電機を利用して投光器を壕内に設置しました。

遺骨収集の様子33

ご覧のように壕内は小川のように常時水が流れています。沖縄戦当時はこれ程水量は無かったのではないかと推測しています。

遺骨収集の様子34

金光教の皆さんが無心に作業しています。各自持ち場にへばりつくように頑張っていました。

遺骨収集の様子35

班長の吉永さんをはじめ皆さんが泥んこになりながら、一生懸命作業を進めていました~。嘗てこれ程困難極まる作業風景は見たことがありません。皆さん本当にお疲れ様です。水が流れている位置が沖縄戦当時の路面と思われます。汚泥の厚みが本当に凄いですよね。

遺骨収集の様子36

黒く焦げた頭蓋骨を含む一体分のご遺骨を発見したアメリカグループのロンさんです。この方も金光教の遺骨収集に長年参加されているお一人です。因みに金光教の遺骨収集の内、運営委員会時代は、アメリカの軍人・軍属の方々が常時100人から200人参加されていた時代もありました。「ロンさん、お疲れ様で~す」

遺骨収集の様子37

ロンさんが銃剣が見つかったと見せてくれました。水に浸かっている為かなり錆びているようですね。

遺骨収集の様子38

アメリカグループのメンバーです。「お疲れ様で~す」

遺骨収集の様子39

ヒョエ~~~~~。(^^;)
健太郎君! 僕は少なくとも、君のその笑顔に救われたよ。

遺骨収集の様子40

少量のご遺骨と共に、万年筆・信号発信器・石けん箱なども発見されましたね。

遺骨収集の様子28

【二日目の様子ご紹介】
壕内はこのように立って歩ける空間が少なくとも100m以上続いています。因みに写真には丸く光る玉「オーブ」が写されています。「霊に違いない」とか「霊魂が写されている」とかの話も耳にしますが、オーブが写された写真を何十年間も撮影している体験からして、霊の現象ではなく科学的な現象であり、「水滴面に照射したストロボ光が、レンズとしての水滴面からそのまま、投射光の一部が反射してカメラの露光面に写し込まれたもの。露光面の円形の大きさは水滴の直径の大きさ、そして結露面からカメラまでの距離により決まる」と言うのが、一番適切であり正しい様に感じます。(^o^)

遺骨収集の様子29

投光器に照らされながら、班長の吉永さんや山根さんをはじめ、皆さんが昨日と同じように泥んこになりながら、汚泥を掻き出してご遺骨の有無を確認する作業を続けていましたよ。
本当に本当に、本当にお疲れ様でございます。m(_ _)m

遺骨収集の様子30

4班の女性陣も頑張って汚泥と格闘していました。

遺骨収集の様子31

奥の方を見ると高さ2メートル以上の場所まで汚泥が堆積していることが解ります。つまり台風などによる増水時は、2メートル以上も水位が上がることを意味していると思われます。

遺骨収集の様子32

ただひたすら前を向いて作業していたアメリカグループの一人ですよ。本当にお疲れ様です。

遺骨収集の様子33

彼が発見した小物をみせてくれました。小さな瓶や靴底、そして針のように尖った部分のある何かの「道具」でしょうか?。 道具の名前や使い方などをご存じの方は教えて下さいませ。

遺骨収集の様子34

ヒョェ~~~~~。 初参加の健太郎君は今日も頑張っていま~す。これが遺骨収集の全てではないからね。(^^;)
来年も必ず来るんだよ! いや来て下さいね~。(^^;)

遺骨収集の様子35

吉永さんが黒く焼けこげた脊髄の骨を見せてくれました。細かいご遺骨は散見されるとの事ですが、昨年のようにまとまったご遺骨の発見はまだ無いそうです。吉永さんが居る場所は、壕入り口から40m程の距離です。この場所で焼死したのかも…。

遺骨収集の様子36

軍靴の靴底がありました。私は何時もの事なのですが、靴底を見ると一人の兵士が亡くなった事を意味し心が辛くなります。

遺骨収集の様子37

小さなご遺骨が結構見つかっていますね。銃弾や電信を打つ機械なども見つかっています。他にも万年筆が見つかっていますが名前は確認されませんでした。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.55

広い畑一面に見事な野菜が育っています。結球レタスですね。この畑は毎年結球レタスが栽培されていますので、連作障害が心配です。(笑)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.56

本葉が展開を続けている段階ですが、結球が始まった雰囲気も垣間見えます。人は厳しい冬の寒さを経てこそ呪縛から解き放たれたように、新春の時節には気持ちが高揚しますが、同じく真冬の関東地方から来て、このような青々と元気に育つ野菜を見ると、こちらまで新春のパワーが貰えそうで何か心持ちが凄く元気になりますね。(^o^)

『南北之塔』は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にある「アバタ壕」の入り口手前に「南北の塔」はあります。沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らま、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。

集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタ壕」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。改築に伴い壕内に納められていたご遺骨は平和記念公園に移されたという話です。

付近一帯は、北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。

「南北之塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.57

「南北之塔」と併置されている「捜索二十四聯隊慰霊之碑」が見えてきました。ところで沖縄の人々は真栄平を「メーデーラー」と読みます。ですから30年以上前の話ですが、「真栄平にある南北之塔」と沖縄の人に訪ねても意味が通じず南北之塔の所在が一向に解らないという時期がありました。今では笑い話ですけどね。(^o^)

と言いつつ、初めて「南北之塔」を訪れる方は、まず一発で発見出来ないと思いますよ。それくらい場所探しは難しいです。念のため!

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.58

「クワデーサー」の木が植えられています。和名はモモタマナ(桃玉名)です。三十年ぐらい前は小さな木でしたが、毎年グングンと大きく育っています。紅葉した葉が何時も見られるのですが、今年はまだ紅葉していないですね。沖縄では紅葉した葉があまり無いですよね。モモタマナ(桃玉名)は葉がおお大きいことから木陰を作るという事でしょうかね。沖縄では古くから村落の集会所や墓地などで植えられています。また果実は食用になりますし、何よりヤシガニの好物だそうですよ。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.59

「南北之塔」は県道250号線沿いにある真栄平集落の背後にある小山の一角にあります。また「南北之塔」のすぐ横には「アバタガマ」があります。

沖縄戦末期の真栄平では多くの沖縄県民と日本兵が犠牲になりました。収容所から戻った区民らま、まず屋敷内や道路・田畑に散乱する遺骨の収集から始めねばならなかったといいます。集落の端に積まれた遺骨や遺体を「アバタガマ」に「真栄平納骨堂」として埋葬。昭和41年(1966年)に区民や県外の元日本兵や遺族らの寄付で同塔を改築し「南北之塔」と命名しました。

この付近一帯は北海道を拠点とした第24師団歩兵第89連隊の将兵が最期を遂げた地でもある事から、塔名の「南北」は、北は北海道から南は沖縄まで、全国の戦没した将兵・住民を等しく祀ってあげたいという地元の人々の強い願いが込められていると言います。また改築に伴い壕内に納められていたご遺骨の一部は摩文仁の平和記念公園にある沖縄国立戦没者墓苑に移されたという話です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.60

「南北之塔」の碑文です。テキストに起こしました。

【南北之塔碑文】

沖縄戦終焉の地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口は九百人の中、生存者はわずか三百人余りであった。沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。

この塔には、真栄平周辺で戦禍に倒れた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等、数千柱の身元不明者の遺骨が納められ、その御霊が祀られている。

この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いを込め、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。

毎年6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。

平成元年3月 真栄平自治会 

「捜索二十四聯隊慰霊の碑」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.61

「捜索二十四聯隊慰霊之碑」です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.62

「捜索二十四聯隊慰霊之碑史」碑文です。テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。句読点ではなく一文字の空白で段落を表しているので、少し読みにくいかも知れませんが、原文ママで表示しました。

【捜索二十四聯隊慰霊之碑史】

昭和19年7月連隊に動員下令、同年10月17日駐屯地満州東安省密山を出発 同年8月3日沖縄本島到着読谷山村字波平に駐屯波平瀬名波長浜に至る海岸線に陣地構築 同年12月沖縄防衛作戦変更により連隊は島尻郡真栄平に異動連隊本部を真栄平にき大度より米須に至る海岸線に向い陣地構築国の防衛に任ずるも 同年20年4月1日米軍嘉手納より波平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加のため連隊は辨ケ岳後方大名部落に転進連日棚原西原幸地掛久保宮城方面に斬込隊を出動させ多大な戦果をあげ部隊個人感状数多く受け前田方面えの夜襲17戦辨ケ岳での陣地戦と勇戦敢闘せり同年 5月29日軍は 島尻地区の新防衛線に後退連隊は師団後退の後衛部隊として最後迄敵と対時良く任務を達成最後の引上部隊として真栄平陣地に後退同年 6月 1日配備完了連日斬込隊を敵陣に出動さす同年 6月18日175.5 高地えの夜襲占領翌19日同陣地で連隊主力をもっ平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回同年 6月21日真栄平66高地陣地に於いて連隊長以下残余の将兵連隊長自ら兵の銃を取り敵を激撃全員壮烈な戦死をとげた連隊長以下戦没将兵 400名と連隊と運命を共にした真栄平住民連隊医務班看護婦炊事班勤務の炊事婦防衛隊員等約 200名の英霊に 子々孫々に至る迄慰霊の誠を捧げ2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない永遠の世界平和を念じここに象徴の碑を建立した

捜索二十四聯隊山三四七八部隊 
生存者 陸軍伍長 渡部 満 

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.63

この付近及び「アバタ壕」等での戦没を特定できた方が多いのでしょうね。個人の慰霊塔やお墓もご覧のように数多く並んでいます。

「アバタガマ」

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.64

「アバタガマ」の壕口が見えてきました。ご覧の様に壕口は思いの外小さいです。擬装も容易だったと推測されます。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.65

「アバタガマ」入り口です。戦後一時期、仮納骨堂として地元集落に散在していた御遺骨を収めた場所でした。壕入り口は擬装や隠蔽したとしても結構目立つ大きさですね。壕の奥行きはおよそ40メートルぐらいでしょうかね。壕は斜めに下ってカーブを描いていますから、壕内部は思いの外広く感じます。また川というほど水流はありませんが、梅雨の頃には水も湧き出るのではないかと推測される水流の痕跡があります。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.66

「アバタガマ」を解説しています。壕内に入らなくとも写真でイメージ出来そうですね。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.67

それでは「アバタガマ」に入って見ましょう。壕口からは結構な急勾配となっているので、革靴等では滑りますから要注意です。

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.68

石とコンクリートで塗り固められた場所を撮影しています。壕口から4メートルぐらい降りた所で撮影しました。このコンクリートが塗られている所に別の壕口がありました。つまりアバタガマは二方向に分かれているのです。

この壕が元々は真栄平集落の避難壕であった関係で、地元の戦没された方々のご遺骨を納めていました。昔は別に塞がれてはいなくて問題なく中に入れたので、私も中に入った事があります。その後コンクリートで塞がれました。そしてここ数年間は墓荒らしにあったように、開口部のコンクリートが剥がされ破壊されて出入りできる状況になっていたのです。しかしようやく再度コンクリートで塞がれた次第です。やっと安住の時を得られたようです。

金光教の遺骨収集でアバタガマで遺骨収集が実施されましたが、この壕口から先は地元の区長から触らないでほしいと言われていた事もあり、ノータッチで遺骨収集に取り組みました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.69

4mぐらい降りた所から上を見上げてみるとご覧のような感じです。壕口からは結構な急勾配となっています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.70

壕内の様子です。びっくりです。散乱していた岩や土砂が綺麗に片付けられています。ここ一年以内に遺骨収集が為され、その時に石や土砂等を綺麗に片付けたと思われます。昨年の写真と比較してみましょう。

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.71

昨年撮影した写真です。今度はストロボ光で撮影しました。岩や土砂が散在しているのが見て取れます。

過去写真掲載はここまでです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.72

今度は壕内左側の写真です。右側と同じ様に散乱する岩や土砂が綺麗に片付けられています。

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月23日/沖縄遺骨収集の様子no.73

昨年撮影した写真です。岩や土砂が散在しているのが見て取れます。

過去写真掲載はここまでです。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子9

「アバタガマ」における金光教遺骨収集奉仕活動では、御遺骨の発見と共に大きなドラマがありました。

信者さんである右上に写っている栗平さんが、「○○○○」という名が記された 「黄色い石けん箱」を、昭和56年の遺骨収集奉仕活動において壕内で発見したのですが、驚く事になんと石けん箱に記された名前の兵士と栗平さんとは、昭和19年8月まで北九州市の小倉にある北九州防空隊に所属した戦友だったのです。その戦友は同年8月末に転属となり、以降連絡は途絶しましたが、二年前に戦友会を催す案内状を送ったところ、戦友の長男さんから「父は沖縄で戦死しています」との通知が届いていた事を発見し、早速黄色い石けん箱発見のお知らせをしたとの事でした。

そうした経緯がありましたが、その前段として「黄色い石けん箱」をぜひ御遺族にお届けしようと、戦友である栗平さんを始め、金光教のご本部、伊方教会の品川先生、銀座教会の石原氏による懸命な調査が行われたようです。そうした懸命な努力を含めて、遺品である「黄色い石けん箱」は、38年ぶりに無事御遺族の元へ帰ることが出来たのです。

「父の戦友であった栗平様をはじめ、多くの方々のご厚意により、私を捜し出して下さり、銀座教会で私の手元に遺品を返して下さったのが、母の法事の前日でした。法事の日に兄弟親戚に見せ、皆で涙しました」 と、御遺族が語っていたのが印象的でした。

この写真は、遺族である息子さんご夫妻が慰霊のために、黄色い石けん箱が発見された「アバタガマ」を訪れた際に撮影したものです。一番左に写っている後ろ姿の男性と、写真中央右寄りに写っている女性が御遺族です。

黄色い石けん箱を発見した戦友の栗平さんや、左側に写っている沖縄戦で戦った石原さんが、沖縄戦当時の日本軍の戦況や米軍による馬乗り攻撃された際の、壕内の惨劇の様子を遺族に説明しているところです。

ご遺族の○○さんは翌年から金光教の遺骨収集奉仕活動に参加されるようになりました。御遺族の○○さんは、その熱意溢れる奉仕活動を長年続けるなかで、多くの御遺骨を発見されもしました。

ご遺族の感謝の念は、○○さんが大病されて医師の勧告により訪沖出来なくなるまでの10数年間もの長きにわたって、金光教沖縄遺骨収集奉仕団の一員として、遺骨収集活動を続けられた事に、それがよく表出されていると思えます。病気が悪化し最後の段階では、病を抱えながらも身体が動く限り沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けたいという、真摯な言動と姿勢がとても印象的に私の脳裏に焼きついているのです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.74

「南北の塔」のある敷地から南西方向を見ています。地形的に海に向かって緩やかに下っているのが解ります。また太平洋の海原が展開しているのも見えますね。写真左端辺りが大渡海岸です。ここから大渡海岸までおよそ2.5キロメートルです。また写真中央やや左よりに束里の清掃工場の白い煙突が見えますね。

「台湾之塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.75

新設された「台湾之塔」が見えてきましたね。この土地を提供したのは、航空関係者の慰霊搭「空華の塔」を管理する沖縄翼友会(玉那覇徹次会長)です。ちなみに「空華之塔」(くげのとう)は、沖縄並びに太平洋航空戦に散華した先輩、同僚や、これらと運命を共にした航空機材の冥福を祈ると共に、再建日本の航空発展を祈念するのを趣旨として建立されました。土地を提供した「沖縄翼友会」のウエブサイトを下に貼っておきましたのでご覧下さいませ。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.76

「台湾之塔」です。立派な塔が完成しましたね。ご覧のように台湾国本島をモチーフにして表現しています。「台湾之塔」という文字は、台湾総統の蔡英文氏による揮毫です。塔名の左側にそのように記されていますね。ちなみに蔡英文政権はシナ共産党と距離を置き、日米との関係を重視している事から潮目は変わったと言えるでしょう。これを機に日台は接近していかねばなりません。そしていつの日か台湾国という独立国家として国連に加盟し、日本とも国対国の対等の外交関係を結べる日が来ますように祈念したいですね。(^o^)

大東亜戦争において台湾から参戦し散華された軍人軍属などの御霊を慰霊・顕彰する碑が完成した今、改めて当時台湾から勇んで参戦した20万余の軍属軍人の内、約3万柱の戦没者と1万5千余人の行方不明者の方々のご冥福をお祈りしたいですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

【台湾出身の沖縄戦戦没者まつる塔が完成】 糸満・平和祈念公園

「沖縄タイムス」2016年6月26日

【糸満】台湾出身戦没者をまつる「台湾之塔」の竣工式が25日、糸満市摩文仁の県平和祈念公園内で行われた。関係者ら約50人が参加して完成を祝い、戦没者に手を合わせた。

同公園内にはこれまで台湾出身沖縄戦戦没者をまつる塔はなく、日本台湾平和基金会や台日交流協会を中心に寄付を募り、昨年12月から建設を進めてきた。建設場所は沖縄戦で亡くなった航空関係者の慰霊搭「空華の塔」を管理する沖縄翼友会から提供を受けた。

日本台湾平和基金会の許光輝理事長は「日本と台湾の平和や友好を発展させる場所にしたい。文化や歴史の面でも交流を深めたい」と完成を喜んだ。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

日本人と台湾人は民族的資質においても、とても似通っていますので価値観の共有が容易ですし、何より安全保障上の観点から同じ隣接する島国国家として、また貿易国家として同盟関係を構築する意義は十分にありますので、日台間の同盟関係が一日も早く構築される事を願うところです。

ところで、沖縄タイムスの記事が指摘しているように、これまで台湾出身沖縄戦戦没者をまつる塔はありませんでした。建立された碑文にも書かれていますが、「当時台湾から勇んで参戦した20万余の軍属軍人の内、約3万柱の戦没者と1万5千余人の行方不明者は…」と書かれていますように、20万余の台湾人が参戦して下さり、結果として45,000人余りの方々が戦死或いは行方不明になられたにも関わらずです。

これは日本国の政治の不在、不作為を嘆かずには居られません。大東亜戦争当時の台湾人は日本人と同胞でした。日本が台湾を併合したからですが、そうした状況下、 台湾の人達は積極的に日本軍への参加を希望してくれました。『台湾と日本・交流秘話』(展転社)によれば、台湾に対しては1942年から陸軍特別志願兵制度が実施されまして、その年の募集人員は1020人だったのですが、志願者はなんと42万5961人で、競争率は418倍です。1943年の1008人の募集に対して60万1147人が応募したのです。競争率は約600倍でした。

1944年には海軍志願兵の募集も始まり、陸軍は従来の倍以上の2497人を募集したのに対して40万人以上の応募がありました。なかには是非とも合格したいと、血書嘆願する青年が相次いだそうです。これほどの熱情を持って日本と共に大東亜戦争を戦ってくれたのでした。欧米列強の植民地支配ではこうした事態はあり得ないでしょう。例えばイギリスの植民地であるインドでは、何度も飢餓が発生するほど、インド国民は搾り取られ搾取され続けるなどそれは酷い扱いを受けました。

そんな非人間的な酷い扱いを受けたインド国民が、イギリスの為に自らの命を賭けようと思うでしょうか。一方で日本の台湾や朝鮮統治は併合であり、日本国民と同等の権利を持つ国民となったのです。日本陸海軍は、当時の少年の絶対的な憧れの対象であった少年飛行兵への門戸を、台湾や朝鮮出身者にも等しく開いたのです。

建立された「台湾之塔」についても、碑文を読んで頂ければ得心しますが、先の大戦に台湾から参戦し散華された軍人軍属などの御霊を慰霊・顕彰する碑であるとしています。即ち台湾の人々は、日本が負けたにも関わらず日本軍とともに戦ったことを「功績・善行」と前向きに捉えて下さっているのです。台湾の人達と戦争観を共有しながら強敵米英と戦った事を誇りに思いますし、台湾の人達のこうした姿勢を、私たちは未来永劫忘れず記憶に留め置きたいですね。

 

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.

こちらは日本語による「慰霊碑碑文」です。ギリギリ読めますが、下にテキストを起こしておきましたのでご覧下さいませ。同塔は一般社団法人 日本台湾平和基金会と特定非営利活動法人 台日交流協会が主体となって設立されたのが見てとれます。

【慰霊碑碑文】 台湾之塔建立にあたり

台湾之塔は、先の大戦に台湾から参戦し散華された軍人軍属などの御霊を慰霊・顕彰する碑であります。本来在るべき摩文仁の丘に戦後70年もの間、建てられずにいた事に心を痛めた日台両地の有志に浄財を集めることにより建立されたものです。

当時台湾から勇んで参戦した20万余の軍属軍人の内、約3万柱の戦没者と1万5千余人の行方不明者は、共に我々の同胞でした。時代が変わろうと、人が自らの命を犠牲にして他者を救わんとした行為は、民族や国家の如何を問わず、人道の範として称され語り継がれなければなりません。

建立地となったこの土地は、「戦時中の御恩返しの一端となり日本と台湾の交流・日台親善の懸橋ともなれば是に過ぎるものはない」として、沖縄翼友会より提供されました。このように日台間の恩義により結ばれる絆が、アジアと世界の人々の希望と成らんことを願ってやみません。

此処に台湾之塔の建立をもって御霊の安らかんことを願い、この塔を訪れる全ての人々が先人の恩義に優る交流を心掛けられる事を祈念致します。

2016年8月15日
一般社団法人 日本台湾平和基金会
特定非営利活動法人 台日交流協会

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.77

台湾語による「慰霊碑碑文」です。漢字を追うと、それとなく意味は伝わってきますね。

本省人(台湾出身者)として初の総統となった李 登輝・元総統が、令和2年(2020年)7月30日、台北市内の病院で逝去されました。正に巨星墜つという事態です。李 登輝元総統のご逝去にあたり、深く哀悼の意を表します。m(_ _)m

【台湾元総統・李登輝氏が死去「民主化の父」】

【日本経済新聞】令和2年(2020年)7月30日

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.78

日本の国会議員を前に講演する台湾の李登輝・元総統(2015年、衆院第1議員会館)

【台北=中村裕】台湾の李登輝・元総統が30日、台北市内の病院で、多臓器不全などのため死去した。97歳だった。1996年、自らが推し進めた台湾の最高指導者を住民が直接選ぶ初の総統選挙で勝利し、初代の民選総統に就任した。中国とは異なる民主社会を築き「台湾民主化の父」と呼ばれた。

入院先の病院が発表した。2月に体調不良のため、台北市内の病院に入院し、療養を続けていた。高血圧で心臓病や糖尿病も患っていた。

台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は30日、深い哀悼の意を示し「台湾民主化への貢献はかけがえのないものだった」と表明した。

李登輝氏は、日本統治下の23年、台湾北部の台北州(現新北市)で生まれた。京都帝国大学(現京都大学)農学部に進学し、戦後は台湾に戻り、大学教員や農業技師を務めた。米国にも留学し、農業経済学を専攻して博士号を取得。帰国後、国民党を率いた蒋介石氏の息子で後継者の蒋経国総統(当時)に農業専門家として見込まれ、71年に入党し政界入りを果たした。

蒋経国氏の死去を受け、88年に副総統から総統に就任した。国民党主席も兼務して権力を掌握。初の本省人(戦前からの台湾住民とその子孫)総統として、蒋一族に連なる外省人(戦後、台湾に渡った中国大陸出身者とその子孫)政治家を一人ひとり政権中枢から退け、国民党の独裁体制を解くことに成功した。96年の直接選挙導入につなげ、台湾を自立した民主体制につくり替えた。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.

李登輝・元総統は、蔡英文総統の精神的な支えとなってきた(2012年1月、総統選で)=ロイター

台湾の統一を目指す中国とは度々、摩擦を生んだ。99年には「台湾と中国は特殊な『国』と『国』の関係だ」と表明して二国論を展開。中国は「一つの中国」を放棄したものだと強く反発した。李氏は台湾企業の対中経済交流にもブレーキをかけ、中国は「台湾独立勢力を代表する人物」などと強く批判した。

2000年の総統選には出馬せず、台湾独立志向を持つ民主進歩党(民進党)に政権を明けわたした。55年続いた国民党から初の政権交代となり、李氏は党主席を辞め、01年には国民党からも退いた。

その後も政界では大きな影響力を見せた。16年に就任した民進党の蔡総統に対しては、対中傾斜を修正して台湾の自主性を強化する方針を支持し、精神的な柱となった。

親日家で、流ちょうな日本語で日本の政界に知己を広げた。国民党の独裁政権下で禁止された日本文化を開放するなど日台交流に貢献した。01年4月、総統退任後初の訪日では岡山県倉敷市の病院で心臓治療を受けたが、査証(ビザ)発給が日中台間の政治問題に発展した。熱心なキリスト教徒でもあった。

07年には1945年に日本軍兵士としてフィリピンで戦死した実兄が合祀(ごうし)されている靖国神社にも参拝した。

「日本経済新聞」から転載させて頂きました

【李登輝氏死去】 22歳までは日本人だった

【産経新聞】令和2年(2020年)7月30日

本省人(台湾出身者)として初の総統となった李登輝氏は、台湾の戦後史を象徴する存在だった。外省人(中国大陸出身者)による支配が長く続いた台湾で、本省人の登用策に乗り最高権力者に上り詰めた。就任後は自らの政治手腕で権力闘争に打ち勝ち、民主化と統治体制の「台湾化」を強力に推進。共産党一党独裁の中国とは異なる「自由で民主的な台湾」の像を国際社会で確立した。

李氏は日本統治時代に高等教育を受け、「22歳までは日本人だった」と語っていた。台湾は終戦によって中華民国に接収され、本省人が日常的に話す言葉とは異なる標準中国語が公用語になった。李氏も他のエリート層同様、言語を再習得せざるを得なかった。国共内戦に敗れ台湾に移った中国国民党政権は、1987年まで続く戒厳令を元に「白色テロ」と呼ばれる政治弾圧を行った。李氏も共産党系の「読書会」に参加したことで監視対象とされ、不安な日々を送った。

農業経済学を学んだことで蒋経国の知遇を得て71年に国民党に入党。翌年、蒋経国が行政院長(首相に相当)に就任した際、本省人を多数登用し、李氏も農業担当の政務委員(無任所大臣)に抜擢(ばってき)された。当時49歳で、遅めの政界入りだった。

その後、台北市長などの要職を駆け上がったが、本省人のライバルは複数いた。人口で多数を占める本省人中心の社会から民主化を求める動きが噴出する中、蒋経国は李氏を副総統に指名したが、本省人としては2人目。李氏の総統就任は、自力でのし上がったものとはいえず、偶然による要素も多分にあった。

だが、総統就任後の李氏は、揺るぎ始めたとはいえ一党独裁体制の国民党の主席に就任することにも成功。手にした権限と卓越した政治手腕、民主化を求める民意を背景に、党内の政敵を次々と失脚に追い込んだ。中台分断前から居座る「万年議員」らに退職を認めさせ、憲法修正を成し遂げて立法院(国会)を全面改選し、総統の直接選挙も実現した。この改革により、政治体制は中国大陸全土をも統治する前提の体制から、実効支配地域である台湾本島と周辺島嶼(とうしょ)に見合った形に転換され、台湾住民が直接選んだ民主的な代表が政権を担う現在の形が整えられた。

対外関係でも、89年のシンガポール訪問時に「台湾から来た総統」との呼称を受け入れ、国際社会で「中国」を代表する政権の地位にこだわらない姿勢を表明。その一方で、窓口機関を通じた形式で中国政府とも間接的に接触し、中国との対等な関係を模索するなど「台湾アイデンティティー」の確立に寄与した。

退任後は「後継者を育てなかった」との評価や政治腐敗、独立派政党「台湾団結連盟」の設立に関与した政治的な偏りなどを理由に批判を受け、また、親日的な言動が政争の具とされることもあった。

ただ、現在の「天然独(生まれつきの独立派)」と呼ばれる若年世代は、李氏時代の教育改革が生み出したとされる。李氏は、その人生が戦後台湾の象徴であるだけでなく、現在の台湾の基礎を築いた指導者であったと言って過言ではない。(前台北支局長 田中靖人)

「産経新聞」から転載させて頂きました

森元首相、蔡総統と会談 李登輝氏弔問は安倍首相の意向/台湾

【フォーカス台湾】令和年(20年)8月9日

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.79

蔡英文総統(右)と会談した森喜朗元首相(左)

(台北中央社)蔡英文(さいえいぶん)総統は9日、李登輝元総統に弔意を示すため訪台した森喜朗元首相らと台北市内の総統府で面会した。森氏は李氏の弔問のための訪台は安倍晋三首相の意向だったことを明かした。

蔡総統は一行に謝意を伝えるとともに、李登輝元総統が退任後も、日本との関係促進に取り組んでいたことを紹介。また、新型コロナウイルスの影響で延期となった東京五輪・パラリンピックが来年、成功することを願うとの立場を示し、それに向けて台湾は全力で支援すると語った。

森氏は、李氏への弔意を示すため、台湾に派遣する人選について安倍首相から相談があったと明かし、、「安倍先生が私に行けと言っているんだなということがすぐ分かりました」と語った。

弔問団は日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会と超党派議員連盟「日華議員懇談会」(日華懇)が派遣。安倍首相の実弟、岸信夫衆院議員など与野党の議員が複数参加しており、李氏の死去後、海外から派遣された最初の弔問団となった。団長を務めた森氏は首相在任中の2001年、訪日を希望した李氏へのビザ(査証)発給を決めていた。

(葉素萍/編集:荘麗玲、楊千慧)

「フォーカス台湾」から転載させて頂きました

李登輝氏遺族に安倍首相からの手紙 弟・岸信夫氏が明かした “台湾への思い”

【FNNプライムオンライン】令和年(20年)8月20日

台湾民主化の父・李登輝元総統死去 小泉環境相はじめ要人が相次ぎ弔問

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.80

7月30日に亡くなった台湾の李登輝元総統。血を流すことなく民主化を成し遂げ「台湾民主化の父」とも称された李元総統は、日本統治下の台湾で生まれ、流ちょうな日本語を話す親日家として知られた。その李元総統の死去に際し設置された東京・白金台にある台北駐日経済文化代表処(駐日大使館に相当)の記帳台には、多くの日本人が足を運んだ。その中には、首相経験者の森喜朗氏や麻生副総理らの姿があった。

また、自民党青年局長として2013年に訪台し李元総統と面会した小泉進次郎環境相も弔問に訪れた。記帳後、小泉環境相は「李登輝さんとは私が自民党の青年局の時にお会いさせていただいた。そのときのことは忘れない。これからも自民党の青年局は誰が青年局長になっても台湾とのつながりを大切にする」と力強く語った。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.81

小泉進次郎環境相

弔問最終日の8月7日には、菅官房長官も弔問に訪れ、その弔問者数の多さは李元総統が多くの日本人から慕われ、愛されていたことを物語っていた。そしてこの弔問者の中に、安倍首相の弟である岸信夫元外務副大臣の姿があった。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.82

岸信夫元外務副大臣

岸氏は、兄・安倍首相に代わり、何度も訪台するなど正式な国交のない台湾との交流を続けてきた。今年1月にも台湾を訪問し、前日に総統選に勝利したばかりの蔡英文総統といち早く面会したほか、19年に来日した次期総統候補とも言われる頼清徳氏(現・副総統)と会食するなど、台湾政界と最も太いパイプを持つ国会議員だ。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.83

岸信夫元外務副大臣

安倍首相の李登輝氏への思いと、祖父・岸信介元首相の米寿に届いた「六連の額」

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.84

2008年 台湾で李登輝元総統と面会する岸信夫氏

岸氏は、台湾との縁の源は自身と安倍首相の祖父である岸信介元首相だと語る。

「祖父(岸信介元首相)は蒋介石(当時の中華民国総統)との縁があって、中華民国(台湾)が国際連合を脱退する直前に台湾に渡り、蒋介石に対して『国連を辞めなくていいのではないか。中国とは別の国として、台湾は台湾として残ればいいのではないか』として国連への残留を促した。ただ、蒋介石は『私は中華民国の総統だ。国連が(中華民国と中華人民共和国の)どちらかを選ぶ立場だ』と拒否された」

岸氏はこんなエピソードを披露してくれた。祖父・岸信介元首相が88歳の米寿を迎えた際に、台湾からお祝いの品物を受け取った。品物は「六連の額」で、張群、何應欽、谷正綱といった当時の国民党の名だたる政治家とともに寄贈者の一人として“李登輝”の名前も記されていたという。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.85

祖父・岸信介元首相の米寿祝いで送られた品物 真ん中の下の方に“李登輝氏の名前”

また岸氏は「私の初めて海外にいった家族旅行も台湾でした。とにかく当時から台湾の人は温かったことを覚えています」と述べた。岸家・安倍家にとって台湾はそれだけ身近な存在であったのだ。

そして岸氏は、兄・安倍首相の李元総統への思いについては「かなり個人的に強い思い入れがあった」と述べた。さらに安倍首相の台湾への思い入れの背景には「日本の安全保障を考えてもこの地域にとって台湾は重要で欠かすことができないと思っている」こともあると解説する。

台湾を弔問した岸信夫氏 安倍首相の手紙を李元総統の遺族に手渡す

岸氏は2015年に李元総統を講演のため日本に招待した時に、「長く見積もっても台湾のために働けるのはあと5年くらいだろうとも感じている。残りの人生は、台湾に、より一層成熟した民主社会を打ち立てるために捧げたいと思っている」と語ったのが印象的だったとした。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.86

2015年 日本で李登輝元総統と面会する岸信夫氏

そして先月もたらされた李登輝氏の訃報。これを受け岸氏は、新型コロナウイルスの猛威を受け、国と国との人的交流は最小限に抑えられていた中ではあったが、世界で最も早く李元総統の弔問を行うため日本からの弔問団の台湾訪問に向け奔走した。その結果、森元首相と超党派の議員による弔問が実現した背景について岸氏は次のように語った。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.87

森元首相と超党派の議員による弔問団

「弔問に行くのか葬儀にいくのかというのがまずあった。また、できる限り台湾に敬意を表するには首相経験者でないと、という思いがあった。安倍首相からは森元首相に人選はお任せしたい、という言い方だったと思うが、総理の本音としては『ぜひ森さんに行ってほしい』という思いがあったのだろう」

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.88

8月9日に日帰りでの台湾訪問が決まり、弔問団は、72時間前にPCR検査を受け陰性を確認し、現地での人との接触を最小限にするなど万全の準備を整えた。弔問団は、蔡英文総統と面会し、李元総統の遺影の前で献花を行った。

令和年(2020年)1月日/沖縄遺骨収集の様子no.89

蔡英文総統との面会

この弔問の中で、安倍首相の思いを台湾側に直接伝える機会はあったのか聞くと岸氏は次のように明かした。

「台北賓館で李元総統への献花をした後、別室で李元総統のご遺族の次女夫妻と面会しました。そこで総理から預かっていた手紙を『総理からのメッセージです』と手渡しました」

安倍首相の李元総統への思い、台湾への思いは、弟である岸氏を通じて、李登輝氏の遺族に直接伝えられていた。

最後に亡くなった李元総統から言われたことで印象に残っている言葉を聞くと岸氏は「日本はもっと自信を持っていいんじゃないかといわれました。日本への批判をされることもあったがその批判はとても温かい批判だった」と語った。

李元首相の言葉を改めて噛みしめていた岸氏。97年の生涯を通じて数々の偉業を残した李元総統の思いは、日台関係に尽力する多くの人の手によって次の時代へと引き継がれていくことになるだろう。

(フジテレビ政治部 門脇功樹)

「FNNプライムオンライン」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「武士道解題」 ノーブレス・オブリージュとは

李 登輝著 小学館文庫 平成18年(2006年)初版

「新・台湾の主張」 「日本精神」を胸に、中国の覇権と対峙する

李 登輝著 PHP新書 平成27年(2015年)初版

「李登輝秘録」 正々堂々、中国共産党と渡り合った男

河崎眞澄著 産経新聞出版 令和2年(2020年)初版

「樺太の碑」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.90

昭和62年(1987年)7月建立されました。2,000余柱が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.91

碑文です。碑文ですか詩ともとれそうな文章です。

「義烈空挺隊慰霊塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.92

「義烈空挺隊慰霊塔」です。確か参拝は初めてですね。同塔の場所は平和祈念公園内、園内バスが巡回する最奥部の地点にある東屋の近くとなります。比較的道路端にありますから解りやすいと思います。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.93

碑文の様ですね。「義烈空挺隊讃」と書かれています。テキストに起こしてみました。

義烈空挺隊讃

秋ソレ昭和二十年五月二十四日夜 敗色既ニ濃キ沖縄戦場読谷飛行場ニ 突如強行着陸セシ数機ノ爆撃機アリ  該機ヨリ躍リ出タル決死ノ将兵ハ 飛行場ニ在リシ多数ノ敵機オヨビ燃料弾薬ヲ爆砕シ 混乱ノ巷ト化セシメタリ 為ニ飛行場ノ機能喪失スルコト三日間ニ及ビ ソノ間我ガ航空特攻機ハ敵艦船ニ対シ至大ノ戦果ヲ収ムルヲ得タリ

コレ我ガ挺進第一聯隊ヨリ選出セラレタル義烈空挺隊及ビ第三独立飛行隊ノ壮挙ニシテ両隊将兵百十三名全員ココニ悠久ノ大義ニ殉ゼリ

後ニ続ク者ヲ信ジ 日本民族守護ノ礎石ナリシ将兵ノ霊ニ 我等何ヲモッテ応エントスルヤ

昭和五十一年五月二十四日 全日本空挺同志会 

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.94

掲示物がありました。主に二つの絵が掲げられていますが、左の絵は「郷里に別れを告げる義烈空挺隊員」と題し、一人の隊員の背後に、大勢の隊員が皇居方面に向けて頭を下げている様子が描かれています。また右側の絵は、「義烈空挺隊読谷突入」と題し、重爆から飛び出した隊員が手榴弾などを投げて、敵備蓄品や戦闘機が炎上している様子が描かれています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.95

「義烈空挺隊慰霊塔」です。1976(昭和51)年5月建立されました。義烈空挺隊とは、敵飛行場に重爆や輸送機で強行着陸して、敵航空機と指揮所や飛行場施設などを破壊する事を目的とした、空挺部隊で編成された特殊部隊です。

義烈空挺隊員等による北飛行場強襲作戦についての解説は他のサイトに譲るとして、ここで強調したいのは、義烈空挺隊員の沖縄に突入するまでの待つ期間の長さです。沖縄方面に突入し散華された特攻隊員は、沖縄作戦が始まる直前か作戦の途上で編成された部隊が多い訳ですが、義烈空挺隊員はサイパンのアスリート飛行場急襲を目的に編成された空挺部隊ですから、突入の半年も前に編成されて居たのです。

フィリピン方面から始まった空挺部隊による急襲特攻隊編成の中で、義烈空挺隊員ほど、特攻という運命を背負いながら、長い期間待ち続けた隊員は居ません。何時出撃命令が下されるかもしれない状況下、複数回に渡る作戦変更に伴い失意と緊張の繰り返しの中で、何ヶ月も待つという事の厳しさ‥‥。しかも編成部隊員には脱落者が無かったと言われています。

今の世では想像する事さえ難しい、国民一心にしてこれら強固なる決意の共有と、社会の隅々まで行き渡る連綿とした深い愛情とのつながりがあったればこそ、祖国開明を為さんと従容機上の人となった彼らの到達し得た心境は如何ばかりか‥‥。「崇高な自己犠牲の精神」その事だけでも讃辞を惜しみなく述べたいですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成19年(2007年)2月13日に、旧北飛行場(読谷補助飛行場)跡を見学した際に「義烈空挺隊玉砕の地碑」にも立ち寄り献花して来ました。その時の写真を3枚程ご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子6

読谷村役場の道路(旧北飛行場誘導路)を挟んだ反対側にある「義烈空挺隊玉砕の地」という慰霊碑です。義号作戦により出撃しました。熊本健軍飛行場から飛び立ち、特攻出撃十二機中一機が読谷飛行場に強行着陸、搭乗員八名は米軍との戦闘の末に玉砕しました。また作戦全体では百十二名の将兵が散華されました。

義烈空挺隊員による急襲攻撃により、米兵は戦死二名、負傷十八名、総計三十三機の戦闘機等を破壊し、ドラム缶六百個分を炎上させるなどの戦果を上げたとの事です。

旧「北飛行場」に現存する日本軍格納庫

遺骨収集の様7

掩体壕(えんたいごう)と言います。コンクリートで作られたアーチ状の屋根の前に設置されたトタンも当時のもの?。現在は農家の農機具置き場となっているようですね。

遺骨収集の様子8

近くにもう一カ所ありました。アーチがいかにも格納庫といった雰囲気ですよね(^o^)。よく爆撃に耐えたものですね~。ここは現在農家の皆さんが休憩する場所になっているようです。

過去写真掲載はここまでです。

「義烈空挺隊」について、ほとんど何も知らない私が解説するよりも、ウエブサイトには詳細に解説が為されたウエブサイトが沢山ありますので、転載してご紹介致します。まずは「沖縄翼友会」のサイトに、「義烈空挺隊」の事が詳細に記載されたページがありますので、まずはご覧ください。それから産経新聞の記事を二つご紹介します。

《サイトご紹介》

【特攻のための特攻 義烈空挺隊の遺言】(上)必死の作戦、中止に歯がゆさ

【産経新聞】令和2年(2020年)8月15日

■父ハイツデモ見テイル
先の大戦末期の沖縄戦で「特攻のための特攻」と呼ばれた部隊があった。旧日本陸軍の特殊部隊「義烈空挺隊」だ。米軍に占領された沖縄の飛行場に強行着陸し、戦闘機や軍事施設を破壊することを目的とした精鋭たちで、作戦に加わった総勢168人のうち112人が戦死した。「生きて再び戻ることはない」。覚悟を胸に出撃した隊員たちの遺書や手紙が、家族、平和の尊さや祖国を守る誇りを今に伝える。

九州の南端に位置し、特攻作戦の最前線基地となった鹿児島県の知覧飛行場。陸軍による沖縄戦での特攻作戦は昭和20年の3月26日から7月19日まで行われた。1036人が戦死し、そのうち半数近い439人が知覧飛行場から出撃した隊員だった。

その知覧飛行場があった一角に建ち、特攻の歴史を語り継ぐ知覧特攻平和会館(同県南九州市)で、この作戦で戦死した一人の隊員が妻や子供らに宛てた「遺言」が公開されている。

「父ハスガタコソミエザルモ イツデモオマヘタチヲ見テイル」

隊員の名前は、久野正信中佐(享年29)。陸軍航空部隊の第3独立飛行隊に所属し、義烈空挺隊とともに沖縄の中飛行場(現嘉手納飛行場)に爆撃機で突入した。

当時4歳の息子、正憲と2歳の娘、紀代子への手紙では、残される子供たちへ父としての温かなまなざしが向けられている。

そして、こう説く。

「ヂブンノスキナミチニスヽミ リツパナニッポンヂンニナルコトデス」

当時の小学校では、最初に片仮名を学んだ。子供たちが成長して早く読めるようにと手紙は片仮名で書いた。

手紙の日付は昭和19年12月6日。久野中佐が沖縄で命を落としたのは翌20年5月24日だが、半年以上も前になぜ遺言を記した手紙を送ったのか。それは義烈空挺隊が当初、沖縄ではなく米軍に占領された太平洋上の要衝、サイパン島を攻撃するために編成された部隊であったからだった。

■当初はサイパン
19年6月15日、米軍がサイパン島に上陸した。B29爆撃機の基地を確保することが目的だった。サイパン島に基地が築かれれば、東京、大阪などの主要都市を含む本州の広い範囲がB29による空襲圏内に含まれることになる。

日本軍も必死の抵抗を試みたが、同年8月にサイパン島を含むマリアナ諸島が陥落した。米軍は基地を整備し、11月には関東への空襲を開始した。

米軍に奪われたサイパン島の飛行場に強行着陸し、B29を破壊する「切り込み隊」として11月末に編成されたのが義烈空挺隊だ。隊長は三重県津市出身の奥山道郎大佐(享年26)が務めた。

奥山大佐は、当時部隊が駐屯していた唐瀬原飛行場(宮崎県)から出撃基地となる豊岡飛行場(埼玉県)へ移動する際、隊員たちにげきを飛ばした。

「生きて再び唐瀬原の地を踏むことはない」

パラシュート部隊である空挺隊は航空機の操縦はできない。空挺隊員をサイパン島まで運ぶ役割を担うのが久野中佐が所属する第3独立飛行隊だった。

飛行隊も運んで終わりではない。米軍飛行場への強行着陸後は、空挺隊員とともに破壊活動に加わる。

この「必死」の任務を前に、久野中佐は遺言をしたためた。

久野中佐は愛知県飛島村に生まれ、19歳で志願して陸軍に入隊。19年に第3独立飛行隊が編成されるとベテランの基幹要員として配属された。妻、千代子とは軍への慰問をきっかけに交際を始め、14年に結婚した。

2人の子供たちとともに千代子へ宛てた手紙は、感謝の言葉で始まる。

「平凡なる小生に嫁ぎしより良く仕へくれたる事を謝す」

ここでも、「小生逝きし後は(中略)愛児 正憲 紀代子の養育を頼む」と、何より子供たちを案じている。

手紙はこう結ばれる。

「小生の本望是に過ぐるものなし 千代子此のほこりを其方も共に喜んでくれ 後を頼む」

久野中佐が家族への思いとともに最後に伝えたのは、軍人としての誇りだった。

■夜間飛行に問題
サイパン島攻撃が内示されたのは19年12月17日で、決行日は1週間後の24日とされた。

豊岡飛行場から爆撃機で出撃し、中間地点の硫黄島で給油してからサイパン島のアスリート飛行場に強行着陸する計画だった。

しかし、攻撃2日前の22日に実施した訓練で、夜間に洋上を飛行する航法が未熟であることが問題視され、攻撃は延期に追い込まれた。

その後、中継地である硫黄島での戦闘が激しさを増していった。米軍による空襲や艦砲射撃も激化。硫黄島は中継基地としての使用が困難になった。義烈空挺隊は出撃を待ったが、20年1月30日にサイパン島攻撃は中止された。

2月19日に米軍が硫黄島に上陸すると、今度は硫黄島攻撃が計画され、3月20日が決行予定日として示された。部隊は西筑波飛行場(茨城県)に移動し出撃準備を整えていたが、戦況の悪化もあり、攻撃3日前に中止が決まった。

義烈空挺隊は再び出撃の機会を失った。

この間、B29による空襲で日本の各都市は焼け野原と化していた。

知覧特攻平和会館の八巻聡専門員(44)は「とても歯がゆかったと思う。義烈空挺隊の当初の目的は都市への空襲を防ぐことだった。当時、東京などが空襲を受けているのは、自分たちのせいだという気持ちが強かったのではないか」と心境を推し量る。

義烈空挺隊は3月下旬、「生きて再び踏むことはない」と覚悟して発った唐瀬原に戻った。

「産経新聞」から転載させて頂きました

【特攻のための特攻 義烈空挺隊の遺言】(下)飛行場へ強行着陸 3度目命令「淡々と」出撃

【産経新聞】令和2年(2020年)8月16日

太平洋のサイパン島と硫黄島への攻撃が中止となり、出撃の機会を失った旧日本陸軍の特殊部隊「義烈空挺隊」は、駐屯する唐瀬原飛行場(宮崎県)に戻り、訓練に励む中で苦悩の日々を送った。

挺進集団の精鋭たちで編成されたにもかかわらず、日々戦況が悪化する今も基地でくすぶっている。他の部隊からは「出戻りの特攻隊」と冷めた視線を浴び、部隊名をもじって「愚劣食い放題」と自嘲する隊員もいた。

特攻隊の歴史を伝える知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の八巻聡専門員(44)は「義烈空挺隊は結局、戦争末期まで出番がなかった。何とか空襲を食い止めるための行動をとりたいという思いは強かったのでしょう」と話す。

◆「見るに忍びず」

昭和20年4月1日、米軍は沖縄本島への上陸を開始した。北飛行場(後の読谷補助飛行場、現在は日本に返還)と中飛行場(現嘉手納飛行場)の確保が第1目標とされた。

米軍は、その日のうちに両飛行場を占領。これを足掛かりに防空網を形成し、日本軍の特攻を主体とする沖縄方面への航空作戦に大きな打撃を与えた。

沖縄の戦況が悪化する中、福岡の陸軍第6航空軍内には敵基地を攻撃するため「今こそ義烈空挺隊を投入すべき」との意見が浮上した。

当初、大本営は本土決戦に備えて義烈空挺隊を温存するもくろみで、沖縄への投入には消極的だった。しかし、第6航空軍司令官、菅原道大中将の「特攻部隊に指定されたうえ、作戦中止命令を受けること再三に及び、もはやこれ以上見るに忍びず」との同情的な意見もあり、20年5月17日に作戦が認可された。

義烈空挺隊と、飛行機の操縦を担う第3独立飛行隊は、それぞれ出撃基地となる健軍飛行場(熊本県)へ移動し、その時を待った。

作戦は「義号作戦」と名付けられた。

「義号部隊(義烈空挺隊と第3独立飛行隊)ヲ以テ沖縄北・中両飛行場ニ挺進シ敵航空基地ヲ制圧シ 其ノ機ニ乗ジ陸海航空兵力ヲ以テ沖縄附近敵艦船ニ対シ総攻撃ヲ実施ス」

義号部隊の突入によって飛行場の機能をマヒさせ、その間に陸海軍総力を挙げた特攻を仕掛ける。義烈空挺隊の役目は、その後の総攻撃の戦果につなげる「特攻のための特攻」だった。

作戦は2段階で、義烈空挺隊には、「特攻の先」の任務も課された。飛行場を破壊した後は、北飛行場の東北約5キロの地点にある「220・3高地」付近に向かいゲリラ戦を展開することが求められた。

◆共闘の海軍翻意
2度の作戦中止を経て、ようやく出撃の機会が訪れた。

長野県飯田市出身の今村美好少尉(享年27)は、兄と姉に宛てた手紙に、当時の心境をつづっている。

「遂に待望憧れの大命降下(中略)任務を完全に果し快(よろ)こんで悠久の大義に生る軍人の本分を盡(つく)します(中略)淡々とした心境で何時も変らぬ朗らかな美好ですから決して御心配なく でわくれぐれも御躯(からだ)御大切にお暮し下さい でわお別れします」

作戦決行日は5月22日の予定だったが、天候不良で2度延期された。

出撃が目前に迫った24日午後、味方の海軍が思わぬ行動に出た。

「沖縄東方において敵機動部隊を発見 ただちに菊水作戦(特攻)を発動する」

海軍は単独で特攻に打って出るので、義号作戦は陸軍だけでやってくれということだった。陸軍は憤慨したが、これ以上の作戦延期は困難だった。

◆突入112人が散華
24日午後6時40分、1機に14人が乗り込んだ全12機の爆撃機が、約750キロ離れた沖縄に向けて健軍飛行場を飛び立った。

途中、爆撃機の故障などで4機が引き返し、残る8機が北、中両飛行場に突入を試みた。

午後10時ごろ、夜更けの北飛行場に1機が胴体着陸した。隊員たちは機体から飛び出し、米軍の飛行機を破壊した。

急襲された混乱した米軍は周囲の飛行場に緊急を告げる電文を打った。

「北飛行場異変あり」

「在空機は着陸するな」

突入に成功したのはこの1機だけで、残る7機はあえなく撃墜された。

米軍側の被害は戦死者2人、飛行機33機を失った。北飛行場は翌25日午前8時まで使用不能となったが、27日には完全復旧した。

一方、義号部隊は総勢168人のうち、引き返した4機に乗っていた56人を除き、突入に挑んだ112人全員が命を落とした。

義烈空挺隊の隊員は、ほとんどが20代の青年だった。国や家族を思い、若くして勇敢な死を遂げた。

宮崎市出身の阿部忠秋大尉(享年22)は、残される弟の「高美ちゃん」と妹の「リツちゃん」へ、最後の手紙を宛てていた。

「高坊ヘハ何モシナクテスマナカツタネ 大キクナツタラ 立派ナ兵隊サンニナツテ兄サンナンカヨリモツトモツト頑張ツテクレ」

「リツちゃんへ 父母上様、高坊を宜しくたのむ と云っても出来れば早く嫁に行きなさい 何もしてやれずすまなかった 体には呉々も気をつけて しっかりやれ さようなら」

(この連載は小沢慶太が担当しました)

知覧特攻平和会館では、企画展「父の遺言-義烈空挺隊の真実-」が開催されている。9月30日まで。

「産経新聞」から転載させて頂きました

熊本県の「火之国之塔」

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.96

「火之国之塔」です。慰霊祭が執り行われるのでしょうか? 祭壇が飾られていました。近づいて見ましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.97

やはり慰霊祭が執り行われるようです。「火之国之塔」には、平成29年(2017年)に独立混成第44旅団工兵隊の村本福次隊長のご遺骨が発見された際、同隊長が熊本県出身者である事が判明したので、何度か訪れましたから、今でも親しみのある慰霊塔になっています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

調査・遺骨収集作業開始です

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.98

調査・収集作業開始に先立ち、沖縄戦戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.99

今日も天気は問題ありません。有り難いです。本日は右から松永さん、豊澤さん、福岡さん、そして吉井さんです。今日も頑張って参りましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.100

ジャングルに入ってすぐに、ご覧の様に瓶が沢山捨てられていました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.101

これらも瓶です。戦後捨てられたと推測されます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.102

さあジャングルに入りました。豊澤さんがロープを持参しました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.103

目指すは昨日少し遺品が出た場所です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.104

昨日と少しルートを変えました。間もなく到着です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.105

作業現場に到着です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.106

用意したロープは、岩を移動する為に使用します。松永さんが岩にロープを巻き付けている所です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.107

準備完了。皆で力を合わせてロープを引きます。成功です。岩が動きました。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.108

松永さんが岩が移動した後の土砂を検分しています。大小様々な鉄の部品が出て来ました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.109

ご覧の様に大小様々な鉄の部品が出て来ました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.110

これも鉄の部品ですが、何でしょうかね?

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.111

これは鉄製の筒ですね。大きさ長さからして、迫撃砲の砲身でしょうか? 砲身がペシャンコに潰れています。砲身を含む、これらの鉄の部品上に大きな岩が乗っていましたので、恐らく艦砲砲撃の直撃に近い被弾で、人が持てないような巨岩が上から落ちてきたのでしょう。残念ながらご遺骨は発見されませんでした。

ガーン ガーン ガーン
今年の遺骨収集活動で調査収集作業を予定していた壕に入って見ると、他の団体によって遺骨収集が為されている事が判明しました。こんな事があるんですね~。摩文仁海岸線で遺骨収集をしているのは私達の南部戦跡遺骨収集会だけだと思っていました。(^^ゞ

いずれにしても、昨年下調べした段階では 、さすがにご遺骨は無さそうな雰囲気でしたが、遺留品は驚くほど数多く散乱していた事から、記名遺品等の発見もあり得ると期待していたのです。ですから一年越しの今年のメインの調査・遺骨収集作業として、多くの時間を投入して全力で取り組もうと予定していたのです。岩が移動され、地面もくまなく調査された雰囲気の壕内を見て驚き、こうした予期せぬ事態にガッカリしています。
ざんね~~~ん。(T_T)(T_T)(T_T)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.112

見て下さい、この遺品の数々‥‥。この壕に於いて、昨年の下調べをした段階で発見された遺留品の数々です。因みにこの昨年発見した遺品は、白布に包んで岩陰に置いたのですが、写真のように白布は無くなっていました。

昨年は少し探しただけなのに、写真の様に沢山の遺品が発見された事から、「来年は絶対ここでやろう」 と皆で話し合っていました。という事で本年の作業で、私達が凄く期待していた壕なのです。それなのに他団体の後塵を拝する事となりガックリです。これから作業しても何も出てこないかもです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.113

手で持てる大きさの岩が集められているのが見て取れます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.114

写真奥の方に岩が集められています。写真手前側にも岩が集められた場所があります。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.115

固い地盤を穿り返した雰囲気がまだ残っています。土もフワフワしているので間違いありません。写真中央の壁面が黒く焦げていますので、炊事をした跡かも知れませんね。そして何か遺品があったのでしょうかね。かなり深く土が掘り返されています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.116

写真手前側は地盤が綺麗に片付けられています。福岡さんも心なしかガッカリした様子です。(^^;)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.117

他の団体が遺骨収集を済ませている‥‥。という予期せぬ事態に、皆で話し合った結果、万全な収集が為されていない可能性があるので、ここでしばらく探してみようという話になりました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.118

写真奥の地盤は綺麗に片付けられているのが見て取れます。ガッカリしているだけでは先に進みませんので、吉井さん、福岡さんが思い思いの場所を見つけて、クマデや金属探知機で作業を開始しました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.119

豊澤さんはここで作業を開始しました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.120

松永さんはここで作業開始です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.121

ご遺骨も少し出て来ますね。胸椎でしょうか?

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.122

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.123

ここが壕口です。ご覧の様に入り口は狭いですよね。人一人がやっと入れる大きさです。しかもロープ無しには、壕底にまず降りられません。この壕口を見つけた他の団体に天晴れと言いたいです。(笑)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.124

豊澤さんです。遺品も少し出ている様です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.125

福岡さんです。こちらも遺品も少し出ている様です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.126

土が比較的乾いているので、フルイの作業効率が抜群に良いですね。勿論こうした場所ではマスクは必須です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.127

吉井さんです。一人奥まった場所で、コツコツとマイペースで作業しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.128

皆さんが一定の距離を空けて配置につき作業をしています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.129

福岡さんの所は、乾いた土の部分からご遺骨が出て来ますね。当然の事ながら小骨が主体ですが。福岡さんがピンセットで摘まんでいる小骨は、足の基節骨でしょうかね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.130

それ程時間が経過していませんが、脊髄一個を含め、すでにこれだけの小骨が収骨されました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.131

日本軍将兵の襦袢(シャツ)のボタンが四個発見されました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.132

私一人で壕内を探索していたら、壕内から出られそうな開口部がありました。写真では簡単に出られそうな感じですが、ちょっと狭くて苦戦しましたが、私の腰ベルトに装着している装備を外して挑戦したら外に出られました。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.133

まずはここを登らねばなりません。何度か挑戦してコツが解ったので、無事に登れました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.134

ここは勾配も緩いので、腰ベルトを外していれば難なく通過できました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.135

人間がやっと通れるこの狭い岩の隙間に、ご覧の様な白熱電球がありました。割れていないですね。灯火管制用の電球と考えられます。因みに昨年の軍司令部壕内でも全く同じ電球が発見されました。軍司令部壕には、発電機による発電が為されて、壕内に電球による照明が灯った時期がありました。その期間は短かった様です。

その発電機は崖下の炊事壕に置かれていたとの事。発電機を稼働するのは、多くの水を消費するそうですし、炊事壕から司令部壕まで、およそ100mぐらい離れていますから、海からの砲撃などで、すぐに両壕を繋ぐ電線が切られてしまう等々の理由で、電灯灯火は短命に終わった様です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.136

狭い岩に挟まれた通路から無事に地表に出ました。狭い通路事態は少し曲がっていましたが、出た方向に対して磁石の向きを見ると真南を向いて出たのが解ります。つまり海側と言う事ですね。周囲がどうなっているのか、しばし探索してみましょう。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.137

天井を覆う大きな岩です。雨宿りには便利ですが、開口部の至近弾では危険ですね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.138

巨岩がバックリと割れています。今のところ降り口が見当たりません。こうした危険な場所というのは、戦後遺骨収集が為されていない可能性が高い場所です。つまり「無理だ。不可能だ。降りられない」と言う様な場所こそ、私達にとってはチャンスなのです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.139

写真では解りにくいですが、ちょっとした隠れ場所がありました。次の写真で中を見ています。蔓植物が繁茂していて、岩の地形が読みにくくなっていますが、私達は地面を覆う植物は無いものとして見なければなりません。理想的には地面を覆う植物を透過して、岩場のみが見えるレントゲンレンズを目に装着して見る事です。(笑)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.140

蔓植物を越えて中を撮影するとこんな感じです。一人か二人は隠れる事が可能ですね。しかも方向的には海からの砲撃に耐えられます。30年ぐらい前の遺骨収集では、こうした一人か二人ぐらい隠れられる場所でも、結構ご遺骨がありました。そして頭から足先まで岩にへばりつくようにご遺骨が並んでいる事も珍しくありませんでした。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.141

ここも良い場所ですね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.142

ここも、まあまあな場所です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.143

オッ、奥が深いと思って近づいて見ましたが、入り口が狭く人が入れない構造でした。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.144

ここもいい感じです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.145

更に奥に入ってみるとこんな感じです。良い場所です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.146

ここは89高地からは全く見えない位置となります。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.147

樹木や蔓植物に覆われているので、解りにくいですが、地形はかなり凸凹しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.148

急な斜面もあります。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.150

ここも良い場所ですね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.151

日本軍の手榴弾がありました。安全栓を含む信管が劣化したせいか外れて無いですね。爆発時に飛び散る榴散弾(手榴弾の破片)はご覧の様にしっかり識別出来ますね。火薬は入っていたので未使用品でした。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.152

目に見える形で遺留品が散乱していたので集めてみました。

再び皆で作業している壕に戻りました。色んな遺品が出ている様です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.153

吉井さんが作業しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.154

かなり小さいですが陸軍のマークですね。どこに使われていたのでしょうか。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.155

皆さんが黙々と作業しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.156

松永さんと豊澤さんです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.157

色んな遺品が見つかっています。万年筆も見つかりましたね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.158

万年筆です。残念ながら記名は無いようです。(T_T)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.159

色んな遺品です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.160

小さいながら、ご遺骨もご覧の様に見つかっています。この壕が未発見のまま今日に至ったという事はあり得ないので、かつて遺骨収集が行われて、その取りこぼしという事になりますね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.161

福岡さんが歯ブラシを見つけました。記名は無いようです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.162

歯ブラシも石けん箱同様に、記名されている可能性が高い遺品です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.163

認識票が見つかりました。後で清掃され部隊名等が判明するでしょう。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.164

松永さんと豊澤さんです。この辺りから認識票やその他遺品が出ている様です。この壕は他の団体に先を越される形で遺骨収集されてしまいましたが、岩石の山になっている部分は作業しなかったのかもしれません。通常は岩石の山にする場所を一番最初に作業して、ご遺骨や遺品が無い事を確認するのが常ですが、それをしていなかったのかも知れません。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.165

また何か見つかった様です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.166

土がこの辺りは若干黒っぽい色をしています。特に壕内は火炎放射攻撃を受けたとかではありませんので、一つの可能性として、この辺りにかまどがあったと言う事でしょうかね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.167

小石混じりの土砂をフルイに入れていきます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.168

松永さんがフルイに掛けている所です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.169

次から次へと、フルイが大活躍です。少し話が逸れますが、フルイには色んなサイズがあって、松永さんが手にするフルイは、どちらかと言うと小さめのフルイです。もっと大きいフルイの方が効率が良いのでは‥‥。と思われた方も居られると思いますが、大きいフルイ程体力といいましょうか、腕力といいましょうか、エネルギーを必要とするのです。二十代三十代の若い方なら、もっと大きなフルイをバンバン力任せにフルイを動かせるでしょうが、五十代六十代ともなると、松永さんが手にする小さなフルイでないと続きませんね。実際に今松永さんは土砂を山盛りにしていますが、これだけ入っていると結構重いですよ。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.170

二つ目の認識票が見つかりました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.171

松永さんと豊澤さんが全力で作業しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.172

また何か見つかった様です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.173

三枚目の認識票が見つかりました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.174

吉井さんが作業しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.175

吉井さんが見せてくれましたが、万年筆とは違う筆記具の部品の様です。凄く原始的ですが、昔こんな筆記具がありましたよね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.176

これは被甲(ガスマスク)、いわゆる防毒面の付属品で、黒いセルロイド容器に収められている「曇止板」です。未使用品と思える綺麗さですね。「曇止板」は丸い形状をつきてしていて透明です。恐らく雲母の様な材料で出来ていて無色透明です。この付属品は、外気温が零度以下になった場合とか、呼気の結露で将兵の視界が遮られる場合などに使用される物です。沖縄戦では使用されなかったと推測されますが、防毒面等は将兵に配布されている備品なので、遺骨収集活動では発見される確率が極めて高い遺品です。ただ残念ながら、記名されていないので、故人を特定するのは不可能です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.177

次から次へと遺品が出て来ます。この壕には多くの将兵が滞在していたに違いありません。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.178

この時点での発見された遺品です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.179

万年筆と歯ブラシです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.180

見つかった三枚の認識票です。ぱっと見ても、錆がひどくて何が書いてあるか判読不能です。持ち帰って清掃する予定です。明日朝には何が書かれているのか判明するでしょう。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.181

見てください。場所によっては壕内の遺骨収集現場とは思えないほど、整地され真っ平らになっています。ゴミ一つありません。(笑)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.182

フルイに掛ける度に、次は何が現れるか楽しみだと言う様な現場は、そう多くは無いですね。この作業現場は正にそんな感じです。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.183

この時点での発見されたご遺骨の様子です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.184

吉井さんが作業しています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.185

見つかった遺品です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.186

ほとんど土と言ってよい場所から遺品が出てくる様です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.187

遺品が数多く出ている場所の作業も佳境に入っていますが、本日の調査作業も無事終了となります。明日の朝からすぐに作業に入れる様に、大きな岩を一気に除けて作業終了としましょう。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.189

どんどん岩を移動させています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.190

どんどん岩を移動させています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.191

随分すっきりしましたね。これで明日朝からすぐに作業着手出来ます。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.192

壕を出る前に、皆さんで発見された遺品について語り合っています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.193

壕を出る前に、皆さんで発見された遺品について語り合っています。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.194

認識票を検分した結果、三枚のうち一枚には名前が彫り込まれている様です。驚きました。通常認識票には部隊名が掘られているだけなので、戦没者を特定はほぼ不可能なので、発見されても発見されたという事で関心は終わってしまうのが常でした。

しかしながら、ごく希に氏名が書かれている認識票が発見される様です。高級幹部などは氏名が彫られた認識票を持っていると言うのは知っていましたが、まさかこの壕で発見されるとは驚きです。明日朝が楽しみになって来ました。発見した豊澤さんが清掃作業をする事となりました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.195

さあ壕から出ましょう。壕から出るに際しては大勢であればある程、リュックサック等の荷物は先送りしておくと、効率よく壕から出る事が可能です。(^o^)

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.196

壕口までやって来ました。あと一息です。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.197

壕から出ました。ご覧の様なジャングル帯を進みます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.198

崖下まで到達しました。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.199

急斜面を登っていきます。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.200

あと一息です。本日も全員事故無く終了となりました。お疲れ様でした。(^o^)

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