平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月17日(土) 遺骨収集事前調査(林先生他4名)

今日の天気予報は、朝のうちは曇りですが日中は晴れるとの予報でしたから、雨の心配は無用の一日となりそうですよ。(^o^)

本日の事前調査参加者は、金光教那覇教会教会長の林先生他、嶺井ご夫妻、松永さん、金城さん、そして私の総勢6名での事前調査作業となります。皆さんとは一年ぶりの再会ですから、こうして皆さんと元気にお目にかかれたことを、まず感謝したいですね。そして本日はよろしく御願いいたします。

本日の事前調査地域は、昨年遺骨収集作業を実施した地域に隣接した場所のようです。昨年同様かなり地形が複雑で、巨岩が多く見通しのきかない山岳地帯といってよいほどの困難地域ですから、事故が無いように祈りつつ、大いなる成果を出したいですね。(^o^)

それではまず恒例の朝の散歩からスタートします。今朝はホテルから歩いて20分ぐらいのところにある旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮、これは正式名称ですが、略して波上宮に参拝する予定です。それでは沖縄でとても由緒ある波上宮に、ご一緒に参拝しましょう。(^o^)

遺骨収集の様子

幼稚園の柵に絡まって咲いていた朝顔です。朝顔といえば、本土では7月頃から開花する初夏の花というイメージがありますが、ご覧のようにすでに咲いているではありませんか~。(^o^)

遺骨収集の様子1

ここの保育園の敷地は、民間人から寄贈されたもののようです。この掲示板は幅が40センチほどの大きさでしたが、「この土地が昭和48年に市に有志により寄贈された…」という経緯を左上に記し、かつこの付近の往時の景観を写真で紹介し資料的価値を付加しています。

対馬丸記念館

遺骨収集の様子2

ホテルから10分ほど歩き、那覇市若狭にある旭ケ丘公園に入って参りました。ここはご存じ対馬丸記念館です。昭和19年8月21日、対馬丸は護衛艦2隻と他の僚船と共に長崎に向けて出港しましたが、翌22日那覇の沖合から追跡してきた、米潜水艦ボーフィン号(USS BOWFIN)の魚雷攻撃によって、午後10時12分頃鹿児島県トカラ列島悪石島近海で撃沈され、学童780名を含むおおよそ1,500名が犠牲となりました。

沖縄県民の疎開については、護衛の海軍駆逐艦に守られて、当時700隻以上もの疎開船、輸送船を沖縄本島や離島から長崎あるいは台湾へと出航し続け、沖縄県民8万人以上を県外に引き揚げさせています。しかしながら、その700隻以上もの疎開船、輸送船の中で、唯一沈められたのが対馬丸である事を思うと、痛恨の一大事と思えてしまいますね。

「戦没新聞人の碑」

遺骨収集の様子3

旭ケ丘公園内にある、沖縄戦で犠牲になった新聞関係者14人の名前が刻まれた「戦没新聞人の碑」です。昭和16年大東亜戦争が開戦するまでは、全国的に新聞社は数多くありましたが、戦時下になると資源や人材確保という観点から、各県に一社という形で新聞社が統廃合されました。戦前の沖縄では、「琉球新報」「沖縄朝日」「沖縄日報」の三社がありましたが、統合して沖縄新報社となり「沖縄新報」が唯一の新聞として発刊が続けられました。

「沖縄新報」記者は、沖縄戦史においても特筆されるべき活躍をしたと言えるでしょう。県民に戦況を正確にそして迅速に伝えようと、首里城下の地下壕に立てこもり、第32軍司令部と連絡を密にしながら、洞窟からの新聞発行を続けたのです。そしてそれは沖縄守備軍が首里を撤退するその時まで発刊が続けられたと言います。恐るべき記者魂と言えるのではないでしょうか。

遺骨収集の様子4

「戦没新聞人の碑」の背後には、大きなガジュマルの木がありました。写真ではその巨大さは表現しにくいのですが、頭上に覆いかぶさるような大木でした。この木は「ふんばるガジュマル」と命名されているようです。命名者は、ガジュマルの木がしっかりと踏ん張っている姿に見えたのでしょうね。確かにガジュマルの木の力強さと雰囲気をよく捉えていると思いました。

松永さんの話によりますと、ガジュマルは沖縄では「歩く木」とも呼ばれているそうですよ。そしてもう一つのニックネームは、「家を壊す木」とか「絞め殺しの木」とも呼ばれているようです。怖い名前ですね~。

どういうことか!!。
ガジュマルは園芸植物として沖縄ではとてもポピュラーな木ですが、一方で沢山の気根を出して、他の木に絡みながら育つ生命力の強い熱帯の樹木として有名だそうで、ガジュマルに絡みつかれた木は、文字通り「絞め殺されてしまう」のだそうです。ヒェ~。

ガジュマルを原料としたガジュマルガムというのがあるそうです。本当ですよ~。(笑)

ここではガジュマルの木が話題になりましたので、私がこれまでに撮影して保存しておいた、ガジュマルの木に関わる写真を4枚掲載させていただきます。(^o^)

ガジュマルの木

遺骨収集の様子5

この写真をご覧下さいませ。この写真は遺骨収集をしている最中に、とあるジャングルでガジュマルの木を撮影したものですが、ガジュマルの木が気根を伸ばしながら移動していく様、正に歩く木と呼ばれるに相応しい姿が捉えられています。気根はあくまで根ですから、最初は細いのですが、次第に太くなり、樹を支える幹のような役割を担うようになります。このガジュマルの木は、一年一年着実に右側に移動していくのでしょう。

遺骨収集の様子6

ガジュマルの木ですが、気根を出しながら少しずつ移動しているのが見てとれますね。生えている場所は「黎明之塔」参道の北側です。

遺骨収集の様子7

左側の気根を出しているのがガジュマルの木です。ガジュマルの木が右側の他の木に絡みついている姿を撮影しました。松永さんによりますと、右側の木はまだ生きていますが、数年内に枯れてしまうのではと予測しました。ガジュマルの木は、正に締め殺しの木と呼ぶに相応しい残酷な木なのですね。

遺骨収集の様子7

この写真を見て怖いと思ったのは私だけでしょうか。(笑)
平和祈念公園内で撮影しましたが、おそらく苗木を植え付けた際に設けられた丸太による添え木が、間もなくガジュマルに飲み込まれようとしているのが見てとれますね。ここでもやはりガジュマルの木は締め殺しの木と呼ぶに相応しい木だというのが解ります。

遺骨収集の様子8

この木は「健児之塔」駐車場横に植えられている木です。ごく普通の木に見えますが、よ~くご覧下さい。この木の末路は悲惨なものです。なんと元々の木は、ガジュマルの木に絞め殺され枯れてしまっています。

「枯れてないじゃん」と思われるでしょうが、木をよく見て下さいませ。濃い茶色の樹肌をした、元から生えていた木は、すでに枯れてしまっています。上部に繁茂している葉は、これはガジュマルの木の葉であり、元々の木の葉ではありません。よく見ますと茶色の木肌に蔓のようなものが沢山絡みついるのが見てとれます。

ぼんやりと写真を見る限り、一本の木に見えますが、ガジュマルの木と、絞め殺された元々の木の二本が一体化しているというわけですね。自然界は厳しいですね~。

遺骨収集の様子9

自然界は厳しいね~。と書いたら、旭ケ丘公園内では、平和の象徴である鳩同士が大喧嘩をしているところに遭遇しました~。(笑)
写真は、喧嘩の理由は不明ですがにらみ合う二匹の鳩です。このあと激しいバトルが展開されます。

遺骨収集の様子10

鳩二匹の格闘は、写真ではあまり迫力を感じませんが、目の前で見るその格闘ぶりは、それはもう凄まじい戦いの一言でした。バチッバチッと結構大きな音もします。お互いの武器は、羽根の前側に固い部分のようですが、一向に止めず、これほど長いバトルは初めて見ました。均衡が保たれ勝敗がつかないようです。一向に止める気配がないので、見かねた私は急接近して二匹を追い払いました。上空に舞い上がった二匹がその後仲直り出来たかどうかは不明です。(笑)

「小桜の塔」

遺骨収集の様子

旭ヶ丘公園内護国寺に隣接して設置されている「小桜の塔」です。とても豪華な慰霊塔ですね。白色を基調に塔が作られており、独特の雰囲気を醸し出しています。建立年は昭和28年5月5日で、昭和34年6月9日にこの地に移設されました。

遺骨収集の様子11

沖縄から日本本土へ向かう学童疎開船対馬丸が、悪石島近海で米国の潜水艦「ボーフィん号」の攻撃を受け沈没し、乗っていた学童767人、引率教師28人が亡くなりました。塔には亡くなられた学童、引率教師の氏名が刻まれています。

遺骨収集の様子12

「小桜の塔建立について」の説明がされています。ギリギリ読めますね。

旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮参拝

遺骨収集の様子13

一の鳥居を過ぎるとすぐに二の鳥居が見えてきます。那覇市若狭にある波上宮は、昨年7月 に渡嘉敷島での第43回 慰霊巡拝・沖縄海域戦没者(沖縄特別攻撃隊員)慰霊祭に参加する為に、沖縄入りしたその日に初めて参拝しました。私は元々神社仏閣の参拝は好きな方ですが、こんなにも素晴らしい神社を知ってしまいましたから、これからはマメに参拝する事になりそうですよ。

遺骨収集の様子14

波上宮です。正式名称は、「旧官幣小社沖縄総鎮守波上宮」と呼ぶようです。沖縄県内では有名な神社で、初詣は多くの参拝者で賑わうといいます。「当宮は、古く沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々に祈る)に始まる。その後この聖地に…」と書かれていることから、創建はかなり古そうですね。波上宮は主祭神から熊野権現を祀る熊野神社です。そして琉球八社の筆頭だそうです。琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社で、波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮を指すそうです。

社殿は沖縄戦で消失しましたが、戦後の昭和28年に本殿と社務所が竣工し、同36年には拝殿も再建され、平成5年に本殿以下緒社殿が竣工したそうです。

遺骨収集の様子15

立派な社です。おっと拝殿の両脇で怖いシーサーが睨みをきかせていますよ。

遺骨収集の様子16

アッ、それほど怖くはないかな~。(笑)

遺骨収集の様子

波上宮の本殿の左側に浮島神社(旧県社)仮宮がありました。御祭神は天照皇大神です。とても小さな宮ですが、立札の由緒書きによりますと、「宝徳3年、尚金福王時代、国相懐機が長虹堤の築堤に当り二夜三昼祈願し、神助により完成。天照大神に奉じて長寿宮奉称、朝野の尊崇をあつむ」と書かれています。

遺骨収集の様子17

昭和天皇が詠まれた詩が書き記されているようです。「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」

遺骨収集の様子18

問題なく読めますね。この「昭和天皇のお言葉」は昭和62年(1987年)に発せられたと書かれています。昭和天皇は昭和64年の一月に崩御されましたから、崩御される二年前のお言葉と言う事で、昭和天皇は当時すでに病の床に伏されていたのですね。

昭和62年(1987年)といえば、秋には沖縄で国体が開催されるという年でした。この年の4月、昭和天皇は誕生日の会見で、「念願の沖縄訪問が実現することになったならば、戦没者の霊を慰め、長年の県民の苦労をねぎらいたい」と沖縄訪問への希望を述べておられました。しかしながら、同年9月に入り、昭和天皇は体調を崩してしまい、侍医ら医師団は手術を決め、昭和天皇の沖縄訪問はついに実現しませんでした。

昭和天皇の沖縄訪問は、翌年の春にもう一度模索されたようですが、半世紀にわたって仕えた徳川義寛侍従長が4月に勇退、続いて在職10年の富田朝彦長官が6月に勇退するなどしたため、昭和天皇の沖縄訪問は立ち消えになってしまったようです。

一枚上の写真の昭和天皇が詠まれた詩は、沖縄訪問中止を発表した時の御心情を詠まれたものなんですね。ちなみに今上陛下は即位前も含めて、なんと10回も沖縄を訪問されています。昭和天皇の沖縄へ馳せる思いは、しっかりと今上陛下に引き継がれていると言って良いでしょうね。

振り返りますと、昭和64年の昭和天皇崩御に際しては、私も宮中に参内し記帳を済ませた後、在りし日の昭和天皇に思いを馳せ、衷心よりご冥福をお祈り申し上げました。

「殉職警察職員慰霊之碑」

遺骨収集の様子19

旭ヶ丘公園内にある「殉職警察職員慰霊之碑」です。沖縄戦で殉職した警察職員だけでなく、明治時代以来今日までの殉職警察職員134人が祀られています。米軍による奇襲攻撃である10.10空襲や沖縄戦で殉職した警察職員は104人と記されています。

遺骨収集の様子20

「島守之塔」のところで述べましたが、島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長は、沖縄戦の混乱で県庁が解散するまでの約5ヶ月間、戦時下での沖縄県民の疎開政策と食糧不足対策に尽力しました。二人が推し進めた疎開政策により、沖縄戦を生き延びた沖縄県民は二十万人にも達し、沖縄戦犠牲者が日米双方で約二十万人であることを考えると、もっと高く評価されても良いと思えます。

荒井沖縄県警察部長は、轟の壕に滞在中だった頃から、胃腸障害と消化器伝染病であるアメーバ赤痢になっていたとの事で、摩文仁へは病を押しての移動となり、心身共に厳しい状況にあったと言えるでしょう。無事に摩文仁に到着した荒井沖縄県警察部長は、1945年6月26日、島田沖縄県知事と一緒に摩文仁の軍医部の壕を出たのを最後に消息不明となったままです。島田沖縄県知事と同様に御遺骨も発見されていません。その意味でも荒井沖縄県警察部長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」

田村洋三著 中央公論新社 平成18年(2006年)初版

遺骨収集の様子21

波上宮参拝を済ませ、旭ヶ丘公園内歩きながら波の上ビーチにやってまいりました。波上宮を遠望していますが、この写真を見ただけで、沖縄では信仰の場としてあがめられている霊域であると感じます。巨大な岩場の右下には、波に洗われ浸食して凹んだ部分が見えますが、この浸食現象はどの海岸の岩場でも見られますね。

遺骨収集の様子22

波の上ビーチです。この写真を撮影した時刻は、午前8時頃でしたが、地元の人でしょうか何人かビーチを散歩したりして浜辺での一時を楽しんでいました。海の中を走る道路は、波之上臨海道路です。ご覧のように二本走っていまして、奥側の道路は那覇空港まで行けるという、とても利便性の良い道路網となっていますね。

午前の遺骨収集事前調査

遺骨収集の様子23

おはようございま~す。(^o^) 今日は林先生を始め総勢5名でジャングルに入ります。今日は晴れ時々曇りという予報ですから、雨の心配は不要という事で、遺骨収集調査活動にはもってこいの天候となりました。本日の遺骨収集調査活動の目的は、来月実施予定の「第42回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動」の活動範囲を決めるための調査活動です。基本的に昨年実施した遺骨収集区域に隣接する西側の範囲を確定するために調査する事になります。

遺骨収集の様子24

昨年遺骨収集を実施した場所までは比較的楽ちんに移動することができました。アダンもそれほど多くはありません。

遺骨収集の様子25

昨年実施した遺骨収集区域を過ぎまして、ここいらあたりから、今年予定している収集区域となります。遺骨を探す事に専心せず、全体の風景を見ながら、ゆっくり前進します。

遺骨収集の様子26

今年予定している収集区域も、昨年実施した遺骨収集区域同様かなり岩場が連なる見通しのきかない場所が多いですね。

遺骨収集の様子27

オッ早くも嶺井さんが何かを見つけたようですよ。

遺骨収集の様子28

御遺骨ですね。第2肋骨あたりでしょうか。

遺骨収集の様子29

海が見える場所に出たので小休止する事になりました。登山に近い動きですから、結構汗も出てきました。ヘルメットを脱ぐととても心地よい気分となりました。海では波頭が見えますので、すでに引き潮が始まっているのでしょう。

遺骨収集の様子30

この場所は見る人から見れば、「アッあの場所ね」と記憶に留め置かれる独特の雰囲気を持つ場所です。ここから100メートル行かないうちに海に出る場所でもありますね。

遺骨収集の様子31

あっという間に昼食の時刻となりました。「朝来た道を帰るのでは芸がない」という事で、私が木に登り偵察活動をしました。私は思いの外木登りが得意なんですよね。私の前世は猿だったかもしれませんよ。(笑)

木に登ってみると、ご覧のように旧サボテン公園の建物が見えるではありませんか!!。オレンジ色の屋根がその建物です。距離は150メートル以上ありそうですが、下り坂ですし、アダンも多くなさそうなので、磁石を頼りにジャングルを直線的に進んで、当該建物の前に出ることにしました。

遺骨収集の様子32

ジャングル内を歩み始めてすぐに判明しましたが、アダンが少ないように見えたのは間違いでした~。比較的背の低いアダンが多いので、アダンがよく見えなかっただけでした~。

遺骨収集の様子33

今更引き返すのも大変ですから、とにかく切り込み隊長として前進することにしました。目標地点の建物は一切見えませんので、磁石をマメに見て、進む方向がずれないように注意しながら前進を続けました。

遺骨収集の様子34

低いところに見える幹はほとんどアダンです。

遺骨収集の様子35

ご覧のような「アダンの壁」に直面すると、アダンの木をノコギリで切断して進むべきか、回り道すべきか迷うことが多いですよね。こうした事態を体験された方は多いと思います。迷う原因のひとつに、「アダンの木は簡単に切れる」というのがあります。簡単に切れるが故に迷う…。という事ですよね。これは笑い話でなくとても迷います。ちなみに私は腕力を頼りに突進する場合が多いですね。(笑)

遺骨収集の様子36

ようやくジャングル、特にアダン帯から抜け出しつつあるようです。追尾してくる人達の姿が見えるようになりました。目標とする建物はまだ見えませんが、あと少しで到達するものと思われます。

遺骨収集の様子37

旧サボテン公園の敷地内に入ったようです。見通しがきくようになりました。建物もチラホラと見えてきました。写真中央部辺りに道ができています。私が歩いて道となったものですが、背景を見ますと、背後の一番高い場所辺りから、真っ直ぐ一直線で降りて参りましたが、進んだ方向はピタリ磁石と一致していました。回り道的なロスタイムはゼロと言えるでしょう。

遺骨収集の様子38

旧サボテン公園の敷地内に到達しました。ここは現在は公営の墓苑となっています。目標とする旧サボテン公園の当該建物に到着した後、折角ここまで来たのだからと、園内を移動し大渡の海岸線を見渡して、遺骨収集奉仕活動の糧にすることにしました。ちなみに “マスクをしてヘルメットを被った不審者侵入” と言う事で、警備員に呼び止められましたが、事情を説明してすぐに無罪放免となりました。

遺骨収集の様子39

旧サボテン公園の突端部は、とても見晴らしが良いですよね。ここは住所としては摩文仁ではなく大渡になります。ちなみに私も旧サボテン公園が営業している時に一度来園した事がありまして、この突端部はキチンと整備されていましたから、とても見晴らしが良いリゾートの地という雰囲気を醸し出していました。

現在はその突端部も雑草が繁茂して見通しが悪いですが、それでも海岸は見えますので、遺骨収集という視点で海岸線を俯瞰するのは良いことだと思います。この写真は突端部から東側を見ています。ちなに写真中央部に見える壕のような穴は、壕ではなくちょっとした窪みですね。

遺骨収集の様子

この写真は突端部から西側を見ています。海岸線を見ますと、かなり潮が引いていますね。大渡集落は崖下にあり陰になって全く見えません。霞んでいるので遠望しにくいですが、喜屋武岬方面を見ているという事になります。白っぽく見える砂浜の海岸線は、大渡米須海岸ですね。遠くからでもよく見える事で知られている束里の清掃工場の建物は、さすがに霞んで見えませんね。

遺骨収集の様子40

午前中に実施した遺骨収集事前調査について、あるいは海岸線を見ながら、いろんな意見を交わした後、昼食の時間となりましたので、国道331号線に隣接するそば屋さんに行くことになりました。皆さんお疲れ様でした。

午後の遺骨収集事前調査

遺骨収集の様子41

昼食を慌ただしく食べ終えると、私達はすぐにジャングルに引き返し、午後の遺骨収集事前調査活動を再開しました。

遺骨収集の様子

今朝入った場所は避けて違う場所から調査地域に入りました。

遺骨収集の様子42

私はこの辺り全域としては何度も来ていますので、単独で入っても大きく道に迷うことはありませんが、今立っているこの付近は、スポット的に私としても初めての場所です。方向を把握しながら、地形を頭の中にインプットしていきます。

遺骨収集の様子43

日本軍将兵の軍靴の靴底が見えますね。ここで兵隊さんが亡くなったという事を意味します。

遺骨収集の様子44

少し劣化していますが、青色のビニールテープが見えますね。古さからしてもしかしたら20年以上前のテープかもしれませんよ。この青テープは金光教の遺骨収集作業が終わっている場所ですよという目印で、遺骨収集運営委員会時代の第26回までは、遺骨収集作業が終わったら、自団体による調査収集作業の二度手間を避けるために、作業後必ずテーピングしなければならないルールでした。過去に何度もご紹介している青テープですが、この付近ではこの青テープが至る所にありました。という事で、今年予定している遺骨収集奉仕活動地域は、金光教として初めて入る場所ではなく、私の知る限りでは、数年間隔で少なくとも三回は遺骨収集が行われた場所だと認識しています。

遺骨収集の様子45

巨大な岩場に行く手を阻まれてしまいました。今年の遺骨収集地域は、端から端まで縦断できないという特徴があります。それだけに、十分注意して布陣しないと、未収集地域が発生しやすいという問題点がありますので、その点も含めてルートの開拓をしていきます。

遺骨収集の様子46

全体としてはやはりアダンが多いと言う事になりますかね。歩きやすい場所を選んで前進している訳ではないので、手間の掛かる場所にも遭遇します。

御遺骨発見!!

遺骨収集の様子47

御遺骨を発見しました。(^o^)
写真は発見した時のそのままの写真です。パッと見た限り三つの御遺骨が見えますね。ご覧のように御遺骨が露出している状態で発見されました。岩は一個たりとも動かしていませんし、樹木の枝葉等も排除していません。近年ではこのような完璧に露出している御遺骨が見つかるというのは、本当に本当に珍しいですよね~。発見した私自身が心から驚いている次第です。特に今回のような、この付近を歩いたなら、よほど目が悪くない限り、誰でも発見できるように御遺骨があるというのは本当に驚きです。

考えるに、ここは誰も歩いたことがない…。それはちょっと考えられない事態ですが、そう捉えざるを得ません。金光教の遺骨収集では、この地域には何度も入っています。実際に付近には、金光教による収骨作業が終わったという印である青テープが、あちこちに貼られていることからも間違いない状況です。

遺骨収集の様子48

周囲を探したところ、右側に岩の割れ目があり、中を懐中電灯で照らすと御遺骨がありました。大腿骨です。例の丸い大腿骨頭がありますので、これは人間だけにある特徴ですから、この御遺骨は人間である事が確定しました。また写真では解りにくいですが、窪みの中には、他にも幾つかの御遺骨がありまして、骨盤もハッキリと認識できました。

遺骨収集の様子49

表面に露出していた御遺骨三点を集めてみました。一番大きな骨は、膝から下の脛骨です。棒状の小さい方の御遺骨は、脛骨の近くにあるので、常識的には腓骨とみるのが順当でしょうが、もしそうだとしたら脛骨とほぼ同じ長さでなければなりませんが、ご覧のように目に見えて長さが短いので、これは腕の骨である橈骨ですね。もう一点、丸っこい御遺骨がありますが、これは足首の足根骨と思われます。

遺骨収集の様子50

他のメンバーが付近の岩陰から、これだけの小銃弾を僅かな時間で見つけてきました。こうした状況から、この発見された御遺骨は日本軍将兵の可能性が高いですね。とりあえず銃弾は赤テープでマーキングしておきました。

遺骨収集の様子51

発見した御遺骨は、来月の本番の時に収集してもらう事になります。御遺骨の状況からして、艦砲等で被弾して御遺骨が四散している可能性もありますからね。周囲を徹底して収骨してもらう事になります。あと一ヶ月たらずだけど、御遺骨を野ざらしのままにしておくのは可哀想と、金代さんが樹木の葉で御遺骨を覆いました。

遺骨収集の様子52

夕方になったので帰る事になりました。来た道を戻るか、海岸に出るかという二つの選択がありますが、高齢者が多いですから、来た道を帰るというのは、ウヒャーとう感じですから、海岸に出るという意見で即決しました。(笑)

遺骨収集の様子53

ほどなくして海岸に出ました。

遺骨収集の様子54

皆さんが海岸に出ると安堵の表情をしていました。

遺骨収集の様子55

引き潮時に現れる風景です。満潮時はこのあたりは波に洗われる場所となり、歩行横断は不可能になります。海岸のこうした風景は何度か撮影していますが、改めて大きな岩が波の浸食で大きくえぐられているのが見てとれますが、自然界の長い長い悠久の時の流れを感じますね。

遺骨収集の様子56

ご覧のようにとても歩きにくいですから、嶺井さんが少しフラフラしました。(^^;) ハッキリ言ってこんな所で転倒したら、顔面傷だらけになりますからね。くれぐれも慎重に歩きましょう。

遺骨収集の様子57

摩文仁の海岸にかなり近づいて参りました。あと100メートルぐらいで到達です。

遺骨収集の様子58

ガーン ガーン!!
引き潮の最中ではありますが、思いの外潮が満ちてきていますね~。摩文仁砂浜海岸の端部の、わずか10メートルぐらいの距離なのですが、満潮時にはちょっと通行に厳しい場所があって、潮が満ちている状態ではその場所は通れないというのを私達も知っているので、眼前の満ち具合を見て、「だめだこりゃ」と全員感知!!。後一歩というところで海岸横断を断念し、また山に上がることになりました~。ヒェ~、ならば最初から来た道を帰っていれば、今頃は車の中に…。
老いると色んな事態に直面します。(笑)

遺骨収集の様子59

さあ頑張って山を登りましょう。(T_T)(T_T)(T_T)

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