平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月8日(日) 「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動に参加

「寒いよ~」思わずこんな言葉が出てしまいました。今朝はやけに寒いですよ。これほど寒いのは初めての体験かもしれません。本日の天気予報は、雨のち曇り、日中の最高気温は15度の予想です。朝コンビニに食料調達に立ち寄った時点で、雨はほとんど上がっていましたし、西の空は明るくなっており、天気が回復傾向にあるのが見てとれます。コンビニから、ひめゆりの塔前の駐車場までわずか15分で到着。繰り返しますが、今季一番の寒気団がやってきたという事で、それにしても寒い。とても沖縄とは思えない寒さです。ヒェ~。あっ違った、冷え~。(^^;)

今朝の慰霊巡拝は、「ひめゆりの塔」、「赤心之塔」、そして「梯梧之塔」の三カ所です。それではご一緒に参拝しましょう。

「ひめゆりの塔」

遺骨収集の様子1

新緑鮮やかな生け垣の先に「ひめゆりの塔」が見えます。午前8時過ぎ、まだ早朝である事から観光客は私以外まだ誰も居ませんでした。

遺骨収集の様子2

「ひめゆりの塔」です。同慰霊塔は、平成22年頃に慰霊塔のリニューアルされ、同時に通路の拡幅等整備が為され、参道の幅が広くなりました。これまでは参道が狭く、参拝者で参道が混み合うと、参拝する人帰る人とで渋滞していましたから、参道を拡幅して人の流れがスムーズになるようにしたのだと思います。御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子3

「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」と書かれた石碑があります。同石碑のすぐ横に外科壕の開口部が見えますね。沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。ここはその第三外科の壕として「ひめゆりの塔」と共に他の壕よりも際立って名を知られています。

遺骨収集の様子4

第三外科壕口ですね。底が見えている印象ですが、この壕は二段階になっていますので、壕底は更に下になります。沖縄戦当時は、ハシゴが設置され出入りしていたようです。

遺骨収集の様子5

「ひめゆりの塔」本体の納骨堂も平成22年頃リニューアルされました。シンボルとしてのユリの花を大きくした事により、印象深いモニュメントになりましたね。「ひめゆりの塔」の命名由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は併置校であったため、沖縄戦では両校生徒は同一行動をとっていたという経緯もあり、戦後真和志(まわし)村村長であった金城和信氏が中心になって、戦死した両校生徒を祀る慰霊塔建立に際しては、師範学校女子部の校友会誌「しらゆり」と、県立第一高等女学校の校友会誌「おとひめ」から名を取って、この塔を「ひめゆりの塔」と命名したそうです。こうした経緯もあり、戦後になって両校生徒の学徒隊を「ひめゆり部隊」、「ひめゆり学徒隊」などと呼ぶようになりました。

遺骨収集の様子6

「沖縄戦とひめゆり学徒隊」と題する解説文ですね。

「赤心之塔」

遺骨収集の様子7

「赤心之塔」は「ひめゆりの塔」敷地内にあります。「ひめゆり平和祈念資料館」の門の前に立ち、左側を注意深く見ると、とても小さな慰霊塔が目に入ってきます。ほら奥の方に見える小さな石碑が「赤心之塔」です。

遺骨収集の様子8

沖縄陸軍病院が壕に入るに際しては、病院壕として使うからと、すでに壕に入って居た大勢の民間人は出されましたが、大田家の家族だけ小さな子供が居るというので、そのまま壕内に留まりました。そして結果的に大田家の5名もまた米軍による毒ガス弾攻撃で亡くなりました。そうした経緯があり、「ひめゆりの塔」敷地内に「赤心之塔」があるのですね。

第三外科壕にほど近い現在の場所に、戦後の消炎の臭い醒めやらない昭和23年、大田家唯一の生存者であるトシさんとご兄弟で、亡くなったご家族5名の死を悼み、このゆかりの地に「赤心之塔」と命名し建立したものです。揮毫は仲宗根政善先生、刻字はトシさんの弟である徳元さんでした。

大田家唯一の生存者となった母のトシさんは、用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受け、三人の子供と夫の母を亡くしてしまいましたが、そのトシさんは、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった」が口癖だったそうです。

トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。

金光教那覇教会による初めての慰霊祭も無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立ってすると見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話です。御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子9

「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。

「梯梧之塔」

遺骨収集の様子10

戦没された60名の職員・生徒を祀る「梯梧(デイゴ)之塔」です。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。お土産屋さんの入り口に「梯梧之塔」看板があるにはあるのですが、ちょっと発見しにくいと思われます。その点が少し残念ですね。

遺骨収集の様子11

「梯梧之塔」です。長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子12

「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますね。

遺骨収集の様子13

お二方が詩を詠まれています。右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。その事を教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から30年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。

なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか…。お手紙を頂いたその年の遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。

遺骨収集の様子14

「ひめゆりの塔」そして「梯梧之塔」の慰霊巡拝を無事に終え車に戻ろうとしたら、「ひめゆりの塔」前の献花販売店のおばちゃんが、私を手招きして呼ぶではありませんか。近づいてみると、これを持って行きなさいと、沖縄では旧正月の時節に食べるという、サンニン(月桃)の葉に巻かれたお餅とお茶を頂いてしまいました。

このお餅は沖縄ではムーチー(餅、鬼餅)と呼ぶようですね。お餅は紐が結ばれていますが、お餅は幾種類かの味付けがされていて、この紐は味付けを識別するために色違いの紐を用いているそうです。私は沖縄に32年通っていても、まだ一度もこのお餅を食べたことが無かったので、休憩時に頂いてみましょう~。(^o^)

遺骨収集の様子15

沖縄のジャングルに茂っているサンニン(月桃)を写しています。遺骨収集奉仕活動をされている方なら、この葉は頻繁に見ている事にお気づきでしょう。ムーチー(餅、鬼餅)は、餅粉をこね、白糖や黒糖で味付けをして月桃の葉で巻き、蒸して作るそうです。旧暦の12月8日(新暦の1月下旬から2月上旬)に、健康や長寿の祈願のため縁起物として食されるとの事ですよ。

遺族会遺骨収集に参加

今日は松永さんと共に沖縄県遺族連合会が主催する遺骨収集奉仕活動に参加させて頂きます。この奉仕活動に参加させて頂くのは平成24年に続き二回目となりますね。(^o^)

沖縄県遺族連合会は、昭和27年(1952年)2月10日に琉球遺家族会として発足。同年11月には琉球遺族連合会と改め、沖縄県各市町村単位の遺族会結成に力を注ぐなどして組織強化を図り、昭和28年(1953年)10月、日本遺族会の支部となり、昭和29年(1954年)7月、沖縄遺族連合会と改称、そして本土復帰に伴い沖縄県遺族連合会となり現在に至っているという経歴を持ちます。

私は昭和61年(1986年)1月の遺骨収集初参加から今日まで金光教が主催する遺骨収集奉仕活動のみに参加させて頂いておりましたが、平成24年に一度だけ初めて他の団体である沖縄県遺族連合会が主催する遺骨収集奉仕活動に参加させて頂いた事があります。初めて他の団体の遺骨収集奉仕活動に参加して得られた教訓は、まず何もかも少しずつ違っていて新鮮な驚きを感じました。そしてその違いこそが遺骨収集奉仕活動の原点を思い起こせよと自身に強く促していると感じた次第です。

遺骨収集奉仕活動に限らず、仕事やボランティア活動にしても、長く続けていると、ついつい惰性で事を進めてしまいがちですが、そうした精神状態では、まず新しい発見には遭遇しませんし、得られる感動は薄弱なものとなりがちですよね。これは私達自身も日常生活の中で十分に認識している事柄でもあります。

能書きが長くなってしまいました。いつもの事で申し訳ありません。それでは本日は沖縄県遺族連合会の目線で、しっかりと遺骨収集奉仕活動に取り組んでみたいと思います。どのような新しい発見があるか大いに期待しましょう~。(^o^)

(※「沖縄県遺族連合会」の遺骨収集奉仕活動では、肖像権を侵害しないよう、可能な限り参加者を正面から撮影しないように務めました。ご了承下さいますようお願いします。また不適切な露出写真がある場合は、お手数ですが、サイト管理人までご連絡くだされば、すぐに削除いたしますので、よろしくお願い申し上げます)

「沖縄県遺族連合会」遺骨収集に参加

遺骨収集の様子16

沖縄県遺族連合会が主催する遺骨収集奉仕活動に参加させて頂こうと、私は八重瀬ガイドの会の皆さんと共に、集合場所である平和創造の森公園にやって参りました。朝9時30分から結団式という事でしたから、少し早めに私達も集合場所に到着しました。平和創造の森公園は全国植樹祭会場跡地(2ha)及びその周辺地域(20ha)を森林公園として整備した公園です。本日の遺骨収集調査・収集地域は、この公園に隣接する徒歩で10分程度の所の海岸線のようです。

遺骨収集の様子17

結団式が始まる直前の様子です。多くの人々が参集されました。名簿には170余名参加すると記されていますが、私たちのような当日参加者は当然記載されていませんので、人数は更に増えていると思われます。また沖縄県遺族連合会主催の遺骨収集奉仕活動の特徴は、他団体の参加が多いという点にあると感じました。もしかしたら他団体の参加者だけで軽く50名は超えるのではないか…。そんな印象です。という事で200名以上が参加する大規模な遺骨収集奉仕活動となるようです。また調査・収集作業は、実働4時間程度になりそうですから、この限られた時間内に私達も全力で取り組ますよ。頑張ります。よろしくお願いしま~す。(^o^)

遺骨収集の様子18

30分程で結団式も滞りなく終了し、平和創造の森公園の集合場所から徒歩で10分程の所に本日の調査・収集場所があるようです。徒歩で移動し間もなくその目的地に到達するようです。写真は道路に隣接する防風林とおぼしき場所の植林されていない端部を誘導ロープづたいに、列をなして歩いているところです。「農林水産部 南部林業事務所」という表示がありましたから、おそらく防風林として植林されている場所だと思われますが、植林されている様子は、少し貧弱な印象が…。(^^;)

遺骨収集の様子19

誘導員の方が所々にいて指示を出して下さいました。200人以上の参加者を二班に別けているとの事ですから、一班に100名以上居るわけですから、移動中のこれらの一列縦隊の人々を、今度は面に広げるにはそれなりの苦労が伴うというものですよね。

遺骨収集の様子20

防風林としてリュウキュウマツが多く植えられています。が、なぜか元気が無いように見受けられます。沖縄の県木であるリュウキュウマツは平和祈念公園内に多く植えられていますが、同公園のリュウキュウマツも松枯れが目立ちますが、本土に少し遅れて、沖縄にも松枯れ病がやってきているのでしょうかね。

遺骨収集の様子21

この植物の名前はリュウキュウキョウチクトウだったと思います。花や実はまだありませんでしたが、沖縄方言で、【ミーフッカーギー】→「樹液が目に入ったら失明する」というらしく、実は毒性の強い植物だそうですから、冬以外の時節に遺骨収集をされる方はご注意あれ。!! いや~。植物ってホント複雑怪奇ですね。(笑)

遺骨収集の様子22

海岸線で私達の前に必ずといって良いほど立ちふさがるのが、この多年生つる植物であるトウツルモドキですよね~。やや木質化した茎は長くのび,樹木などに覆いかぶさり、無秩序なネットワークのように蔓が伸びるので、遺骨収集奉仕活動をするに際しては、とてもやっかいな植物ですよね~。

遺骨収集の様子23

トウツルモドキの先端部の様子を写していますが、蔓の長さは5~15メートルにもなる蔓性木本です。本土のシノが蔓になったようなものとイメージして頂ければ良いのではと思いますが、蔓は手では切れません。剪定バサミで無ければ切れないところが、とても面倒ですし力を必要とします。いずれにしても、海岸線で遺骨収集奉仕活動は、このトウツルモドキとアダンとの戦いであると言えるでしょう。

遺骨収集の様子24

トウツルモドキの葉の一番先を写しています。ご覧のように葉の先端は巻きひげとなって他にまといつき、勢力範囲を劇的に広げていくのです。トウツルモドキが被覆した植物はことごとく枯れ、地面は他の植物が生えることのない不毛の地となるのです。

遺骨収集の様子25

トウツルモドキの前線帯を超えると、今度はアダンが待ち受けています。(笑) アダンを良く見ると、タコのように足といいますか根が沢山出ていることから、アダンの属名は、「タコノキ科」に属するそうです。冗談のようですが、これは文献に書いてあるので間違いないと思います。いずれにしても、アダンは初心者の方は特に注意して下さい。アダンの葉の鋸歯は白く目立たないのですが、特に顔を接近させる場合は十分に注意して下さいませ。

遺骨収集の様子26

私の本日のメインテーマはただ一つ。「誰もが避けたがるアダンの下を探せ」です。(笑)

遺骨収集の様子27

自画自賛で恐縮ですが、本日のメインテーマに沿って、ただひたすら最初から最後まで、トゲと格闘しながらアダンの下に潜り込み、御遺骨を探しまくりますよ~。(笑)

遺骨収集の様子28

海岸近くのせいなのか、今日はカニ君と遭遇する機会が多いですね。カニ君もビックリしたのか「やるか~」といった風情で威嚇するので、もうタジタジですよ。(笑)

遺骨収集の様子29

セミの抜け殻も結構見かけます。土の無いこんな岩場の何処が良くて住み着いているんでしょうかね~。確かセミは「土の中で7年間、飛翔して2週間」の命と聞いたことがありますが、こんな岩場で7年なんて、私はとても耐えられません。

遺骨収集の様子30

アダン帯の幅は思いの外狭いですね。アダン帯の調査はとてもしんどいですけど、右手に懐中電灯、左手にノコギリを持ち、前進あるのみです。アダン帯の調査では、ノコギリは堆積した落ち葉を除けるのにも重宝しますので必須の道具ですね。

遺骨収集の様子31

パイナップルに見えますが、これはアダンの実ですね。絶滅危惧種であるヤシガニが大好物だそうですよ。時節的にまだ熟していませんが、熟したら人間にも食べられるとの事です。沖縄では昔は普通に食べられていたし、葉の新芽は八重山地方で今も食べるそうです。勿論私は食べたことがありませんが、サトウキビのように繊維質で、基本的に味は無味だそうです。

遺骨収集の様子32

アダンが繁茂しているという事は、この一帯は基本的に土が少ない岩場という事になります。沖縄戦当時、このアダンは皆無だったと想像しながら、所々わずかに盛り上がる、人が隠れられそうな岩場を求めて調査は続きます。

遺骨収集の様子33

アダンの下に潜りっぱなしだと呼吸が苦しくなるので、時折顔を出して深呼吸します。(笑) 同時にアダンの木によじ登り、周囲を偵察して進むべき方向を順次決めていきます。

遺骨収集の様子34

荒崎海岸方面を見ています。地図で言えば西側方向という事になりますね。より海岸に近づくと、アダン帯も終わり、海岸までの20~30メートルの幅は、ご覧のように草原のような状況となります。もちろん岩場ですから、思いの外ゴツゴツデコボコしています。

遺骨収集の様子35

松永さんです。つかず離れず移動してるようです。目線が同じだからでしょうかね。

遺骨収集の様子36

ギンネム(銀合歓)の木ですね。沖縄では明治43年(1910年)人為移入されたものですから、沖縄では長い植栽履歴がありますが、戦後は米軍が戦後南部地域の荒廃を早期に復旧しようと、ギンネムの種を空中散布したという話もあるようです。乾燥したところを好み、旱魃に強く、また痩せた土地も厭わない生命力の強い木ですし、また亜熱帯のアルカリ土壌地帯が適地という事ですから、沖縄南部地域にはもってこいの植物なのかもしれません。実際に場所によってはすごく繁茂していますよね。

ちなみにギンネムは世界の侵略的外来種ワースト100に入っており、外来生物法で要注意外来生物に指定されているとの事ですから、やっかいな植物という事になります。実際にギンネムの林は、自身を密植させ他の樹木を寄せ付けないという雰囲気があります。

遺骨収集の様子37

ギンネム(銀合歓)の花ですが、すごく地味ですね。沖縄では周年で花を咲かせるそうですから、一本の木で花の蕾、花、そしてマメの実が揃った状態を見ることができます。

遺骨収集の様子38

オオ~。ベテランさんは目の付け所が違いますね。それにしても、正に塹壕のように人為的に掘られたような印象ですが、敗走の地で塹壕堀りなんてそんな悠長な事はできなかったでしょうから、やはり天然の造形とう事になるでしょうか。???

遺骨収集の様子39

アダンを求めて東に東にと進んで参りました。

遺骨収集の様子40

少し開けてきましたね。写真中央の遠方に写されている小山が摩文仁之丘ですね。地図で計測するとここから3.5kmの距離があります。

遺骨収集の様子41

植物が繁茂する平坦な草原に見えますが、実際の地際はゴツゴツとした岩場で、人一人が隠れるぐらいの岩陰は無数にあります。そうした場所を丁寧に調査・確認して進みます。こうした海岸線に身を隠した人の証言では、隠れる岩場が無い場合は砂地を探し、少し掘って自分自身を埋める。つまり口と鼻のみ地表に出すだけで、最終的には全身を砂に埋める事で、米軍掃討兵士の目をはぐらかしたと言います。

遺骨収集の様子42

作業終了時刻の3時になりますと、続々と作業を終えた参加者が、現地テントの元に参集しました。皆様お疲れ様でした。

遺骨収集の様子43

主催者側の慰労の言葉と共に、4時から平和祈念公園内で慰霊祭を開催するとの事で、そちらに移動して下さいとの話が伝達されました。

遺骨収集の様子44

御遺骨も沢山発見されたようです。写真の御遺骨はそのほんの一部です。近年は一柱といってもボリュームがとても小さくなりましたので、断定はしにくいのですが、大腿骨など確定しやすい目立つ骨の数からして、柱数は数柱はあるでしょう。素晴らしい成果だと思います。

平和創造の森公園内の植物

遺骨収集の様子45

平和創造の森公園で一際目立っていたのが、鮮やかな葉色の植物でした。真冬の内地からやって来たので余計に印象深かったのかもしれませんが、目に焼き付いて離れませんでした。

遺骨収集の様子46

表札があり「タイワンレンギョウ」である事を知りました。花はありませんでしたが、紫色の綺麗な花も咲くそうですよ。

遺骨収集の様子47

平和創造の森公園内にあったアダンを写してみました。普通のアダンに見えますが、なぜ写したのか理由は如何に。???

遺骨収集の様子48

理由は、「トゲの無いアダン」なんですね~。その名もズバリ、トゲナシアダンと呼ぶようです。ジャングルのアダンが皆トゲナシアダンだと良いのだけどね~。(笑)

「パナマ帽」という言葉をご存じの方も多いと思いますが、かつてアダンの葉で編んだ琉球パナマ帽は欧米にも高値で輸出されるなど、砂糖に次ぐ沖縄の特産だった…。という新聞記事を見つけました。パナマ帽輸出が全盛の100年前の頃は、3万人を雇用する沖縄の主要な産業でした。ですからアダンの葉は乱獲され、青々と生い茂るアダンの姿が見られなくなったほどであったといいます。という事で関連する新聞記事を転載させていただきます。

【沖縄産パナマ帽よ、もう一度 途絶えた技法継承へ】

「沖縄タイムス」平成27年6月15日

ままかつて砂糖に次ぐ沖縄の特産だったが戦後、途絶えてしまったパナマ帽(アダン葉帽)作り。久米島町でパラグライダーなどのガイドを務める木村麗子さん(48)はその技法を再現した。インターネットで小口の出資を募る「クラウドファンディング」を活用して作り方を本にまとめ、動画にするなどし、広めたい考えだ。(前田高敬)

「琉球パナマ帽復活!魂の技術を次世代へ伝える本を作りたい!」クラウドファンディングサイト

約110年前、神戸からの寄留商人が本土の竹細工の技法を基に創案したという沖縄のパナマ帽は欧米に高値で輸出され、最盛期には沖縄からの輸出・移出額の15%を占めた。しかし、アダンの乱獲と沖縄戦で帽子生産は途絶え、作り方も継承されていない。

木村さんは沖縄移住後の二十数年前にパナマ帽のことを知り、その繊細な仕上がりに心引かれた。試行錯誤の末、作り方を伊江島のお年寄りから聞いたという女性の協力も得てこのほど、原材料のアダン葉採集・乾燥から編み上げまで、3カ月近い全工程を再現した。

木村さんは「せっかく再現しても、このままではまた失われてしまう。高級工芸品としてのパナマ帽を作りたい人が、やり遂げられるような本を作りたい」と意気込みを語った。

本の制作に必要な最低目標は達成したが、よりよい本に仕上げるため、期限の28日まで出資を募る。出版後は実際の作業を動画にして公開したいとも話す。問い合わせは木村さん、電話×××(××××)××××。クラウドファンディングのサイトは、https://readyfor.jp/projects/ryukyupanama

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

県営平和祈念公園内での慰霊祭

遺骨収集の様子49

今季一番の寒気団がやってきたという事で、本日は沖縄とは思えないほど北風の強い寒い一日でしたが、事故もなく無事に全員撤収できたようです。作業終了後場所を移動し、慰霊祭は県営平和祈念公園内で執り行われました。祭壇が白布で調えられ、参加した各団体からの献花もあるなど、祭壇の前に整列した参加者の皆様の表情も含めて、会場は慰霊に相応しいとても荘厳な雰囲気でした。テレビ局の取材も入っているようです。沖縄県内だけでなく全国への情報拡散に繋がれば嬉しいですね。

遺骨収集の様子50

金光教の現地慰霊祭とは趣が違いますが、沖縄戦戦没者の慰霊という視点では、とても心のこもった立派な慰霊祭でした。

沖縄県遺族連合会主催の遺骨収集奉仕活動の特徴は、若い参加者が多い、また他団体の参加が多いという点に集約されると思います。例外なく沖縄県在住のご遺族の皆様も高齢化に直面しておられるようですが、他団体の参加者も含めて、後を引き継ぐ態勢が整いつつあるようで、引き続き沖縄遺骨収集奉仕活動の主軸としての活躍が期待されますね。本日は参加させて下さいまして、誠に有り難うございました。(^o^)

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