平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月14日(土) 国立戦没者墓苑下で遺骨収集、金山均大佐自決の壕慰霊巡拝

今日の天気予報は、曇りで最高気温17度の予報です。雨の心配はなさそうで何よりです。今朝の慰霊巡拝は、「ひめゆりの塔」「赤心之塔」、そして「梯梧之塔」です。ご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「ひめゆりの塔」

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.1

奥の方に見える白い慰霊塔が「ひめゆりの塔」です。午前8時過ぎ、まだ早朝である事から観光客は私以外まだ誰も居ませんでした。黄色味を帯びたタイワンレンギョウが早春の沖縄を飾っています。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.2

「ひめゆりの塔」です。厳密に言えば納骨堂でもあります。右側の小さな石碑が、昭和21年4月に設置された初代ひめゆりの塔です。「ひめゆりの塔」本体の納骨堂も平成22年頃リニューアルされました。シンボルとしてのユリの花を大きくした事により、リニューアル以前よりも印象深いモニュメントになりましたね。「ひめゆりの塔」には、教職員・学徒戦没者、女師115人、一高女104人、合計219人が合祀されています。

「ひめゆりの塔」の命名由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は併置校であったため、沖縄戦では両校生徒は同一行動をとっていたという経緯もあり、戦後真和志(まわし)村村長であった金城和信氏が中心になって、戦死した両校生徒を祀る慰霊塔建立に際しては、師範学校女子部の校友会誌「しらゆり」と、県立第一高等女学校の校友会誌「おとひめ」から名を取って、この塔を「ひめゆりの塔」と命名したそうです。こうした経緯もあり、戦後になって両校生徒の学徒隊を「ひめゆり部隊」「ひめゆり学徒隊」などと呼ぶようになりました。

【ひめゆりの塔の記】

昭和20年3月24日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒297名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護を続けた。

日本軍の首里撤退もせまった5月25日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。南にくだった後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。

6月18日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。

戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕が探しあてられた。真和志村民の協力により昭和20年4月7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒208名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.3

納骨堂の前には、「沖縄陸軍病院第三外科壕」があります。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.4

沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。ここはその第三外科の壕として傷病兵を収容していました。この壕は二段階になっており、沖縄戦当時は、ハシゴが設置され出入りしていたようです。

6月18日解散命令が出た翌日未明の頃、脱出直前にガス弾攻撃を受け、陸軍病院関係者、通信兵、集落住民など壕内に居た96名のうち87名が犠牲になりました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.5

ひめゆり学徒隊を引率した仲宗根正善先生が詠まれた哀悼の歌「いわまくら碑」です。
いわまくら かたくもあらん
やすらかに ねむれとぞいのる
まなびのともは

と彫られています。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.6

右側の慰霊碑は「沖縄戦殉職医療人之碑」です。各地で守備軍に協力し、住民の衛生、保険、ケガなどの治療に従事しながら戦没された医師、歯科医師、薬剤師、看護婦ら50人が祀られています。

《書籍ご紹介》
具志八重さんの著書をご紹介させて頂きます。

「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言

長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)初版

長田紀春さんと具志八重さんの共著となっています。6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が義勢になりました。具志八重さんは第三外科壕から奇跡的に生還したお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の壕内の様子を生々しく活写されています。

「赤心之塔」

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.7

ひめゆり平和祈念資料館に到る手前20メートルぐらいの位置で、左手をご覧下さい。ご覧のような高さ60センチほどの小さなちいさな「赤心之塔」が見えるはずです。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.8

「赤心之塔」です。大田家唯一の生存者となった母のトシさんは、用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受け、三人の子供と夫の母を亡くしてしまいましたが、そのトシさんは、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった。」が口癖だったそうです。

トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。

トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。

その初めての慰霊祭が無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。

私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立ってすると見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.9

「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。

「梯梧之塔」

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.10

「梯梧(デイゴ)之塔」が見えてきました。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。

長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。 お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.11

戦没された学徒58名、教職員4名を祀る「梯梧之塔」です。この「梯梧之塔」は昭和23(1948)6月に学校の校舎跡地に建立されましたが、その後昭和46年に(1971)6月に、多くの犠牲者を出したゆかりの場所に程近い、糸満市伊原に移設されたものです。

「梯梧之塔」のでいごは、赤い花を咲かせる熱帯植物で、インドが原産です。沖縄県の県の花にもなっていまして、沖縄昭和高等女学校の近くに、でいごの並木道があった事から、学校のシンボルにもなりました。校章も、でいごの葉が表現されているそうです。昭和高女は戦前、事務員を養成する学校として、簿記とかを教える商業学校だったそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.12

「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますがテキストを起こしましたのでご覧下さい。

【慰霊碑碑文】

梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちな んで、「梯梧の塔」として建立された。

昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。

4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。

無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。

梯梧同窓会 

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.13

「梯梧之塔」・沖縄昭和高等女学校説明碑文です。ギリギリ読めますね。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.14

お二方が詩を詠まれていますが、右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。その事を教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。 経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から27年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。

なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか。その理由はお手紙を頂いたその年、今から30年前ですが、遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.15

梯梧学徒隊についての解説文です。ギリギリ詠めますね。

遺骨調査・収集作業開始です

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.16

本日は、昨日に続いて摩文仁で一番大きな壕で遺骨収集を行いますが、それに先立ち昨日松永さんと豊澤さんの二人で取り組まれた、金光教の1班の方々の取りこぼしのご遺骨を収集した場所で献花し手を合わせました。金光教の1班の方々が収集したご遺骨と、昨日見つかった水筒は同じ方のものかも知れません。壕を出て10メートルぐらいの場所で、なぜ亡くなられたのか…。そんな事に思いを馳せながら手を合わせ、ご冥福をお祈りしました。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.17

それでは摩文仁で一番大きな壕での遺骨収集を開始します。南埜さんは昨日からの続きをやるとの事。私たちも思い思いの場所で、作業に着手しました。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.18

小銃弾が見えてきました。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.19

三八式歩兵銃の6.5ミリ普通弾二発と蓄電池の一部がほぼ同じ場所から出てきました。随分と錆びているのが見てとれますね。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.20

皆さんが思い思いの場所で作業しています。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.21

結構深い所から遺品が出てきているようです。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.22

写真中央付近の大きな岩を移動させようとしています。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.23

大きな岩を移動し大きな穴が目の前に現れましたが、その穴底レベルでも沖縄戦当時の地盤ではないようです。南埜さんが掘っても掘っても、目標としている沖縄戦当時の地盤が出てこないと語っているところです。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.24

皆さんが集まって状況を検分していますが、全体的にもう少し掘り進んでみようという話になりました。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.25

慌てず騒がず、地道にコツコツと掘り進めています。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.26

慌てず騒がず、地道にコツコツと掘り進めています。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.27

南埜さんのところは、巨岩以外の土は皆移動してしまったという状況ですね~。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.28

巨岩を移動する事にしました。ここでもバールが大活躍です。二本ないし三本と複数本あると確実に岩を移動させる事が出来ます。バールは重くて長いので、現場に持ち込むのに四苦八苦して大変でしたが、巨岩の移動には感動するほど大活躍してくれますね。(^o^)

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.29

バールを持つ人同士で声を掛け合い、呼吸を合わせて、巨岩に立ち向かいます。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.30

巨岩の移動が完了したので、再び地道に土を所定の場所に移動させます。四人居られるので作業が早いです。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.31

本日は南埜さんが壕の中を整理したという場所を見学する為に、少し早めに作業を切り上げる事になっていますので、ボチボチ作業を終え、本日収集した物品の前にメンバーが集まってきました。収集した物品を手に取りながら皆さんが話をしています。強者揃いですから、話が弾んで弾んで。(笑)

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.32

本日収集した物品の様子です。壕内でいつも発掘される物品が網羅されているという印象です。拳銃の弾が多いので、一つの特徴としてこの壕には将校が大勢居たのではないかと推測されます。但し支援要員も小銃代わりに拳銃を携帯していたと言われていますから断定は出来ない話ですが…。左側の違う白布に写されている水筒は、壕の外で発見された物で、概に紹介済みのものです。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.33

公園まで戻って参りました。右側から豊澤さん、松永さん、松永さんのお友達のHさん。南埜さんです。本日はお疲れ様でした~。

新垣の「歩兵第89聯隊 金山 均大佐自決の壕」慰霊巡拝

真栄里、国吉、新垣、与座、八重瀬嶽の防衛ラインは、第三十二軍司令部のある摩文仁を守る為の最後の防衛線として、残存する兵力を結集して米軍の進軍を阻み頑健な抵抗を続けた事で知られています。特に真栄里から与座に連なる稜線は、沖縄の典型的な城塞立地に相応しい地形であり、与座を中心に防衛ラインを築いていた第24師団独立歩兵89連隊が陣地としたこの付近には、その昔古城が築かれ、湧き水も豊富にあり那覇方面などの低地側からの侵攻・攻撃に耐えられる自然の要塞である事が見て取れます。

第24師団隷下の各部隊はそうした地形を上手く利用し、巧みな戦術を交えて、食糧、弾薬の補給が一切ない状態で、6月19日まで組織的戦闘を続けたのでした。日本軍将兵のこの敢闘精神には、いつの時も心から敬意を表したいですね

今日はこれからタイトルにも記しましたように、新垣の「歩兵第89聯隊 金山 均大佐自決の壕」に向かいます。壕の名前の通り、米軍による馬乗り攻撃を受け、歩兵第89連隊が全滅した壕でもあります。場所は新垣の北側の丘陵地帯になっている所で、現在は道を挟んでゴルフ場があったりする場所でした。

ちなみに、私はこの金山 均大佐自決の壕に、平成22年(2010年)に国吉さんと共に入って中を見学した事があります。今から7年前ということになりますね。その時の写真を引用しつつ、南埜さんが再び着手する必要が無いレベルで徹底的に遺骨収集をしたという壕内を見学させて頂きましょう。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.34

鉄柵で仕切られた向こう側に壕口が見えますね。ここが「歩兵第89聯隊 金山 均大佐自決の壕」です。構築壕ですから高さがもっとあって良いはずですが、米軍による馬乗り攻撃の際に、ブルドーザーで入り口を埋められてしまったとの事で、現在のような狭い入り口となっています。出入り口は二カ所あり、あと換気口と思われる通路が一カ所あります。壕入り口の左側には慰霊碑もあります。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.35

歩兵第89聯隊(山3476)は、第24師団麗夏隷下で連隊長は金山 均大佐です。北海道の旭川で編成された部隊で、歩兵聯隊では、日本陸軍の主力部隊の一つでした。昭和19年7月に沖縄へ移駐し、沖縄戦が始まると連隊は運玉森陣地で防御にあたり、これ以降首里付近で激戦を繰り広げました。慰霊碑碑文をテキストを起こしましたのでご覧下さいませ。

【歩兵第89聯隊 沖縄戦々跡】 聯隊長 金山 均大佐自決の壕

昭和20年、沖縄本島をめぐる日米両軍の攻防は、5月初旬第32軍が総力を傾けた首里戦線の死闘も空しく終に軍主力を南部島尻地区に後退戦闘の持久を図る、歩兵第89聯隊は八重瀬、与座、両岳南西山麓に陣地を配備、其の後方新垣後原(この壕内)に聯隊本部を置き第24師団前衛の任に当る、然れども空海を制する米軍の進攻は早く6月15日東西全戦線を蹂躙突破、指揮下部隊との連絡も途絶、聯隊の命運旦夕に迫る、6月19日金山聯隊長は最後の時を決断、軍旗を奉焼し師団司令部に決別を打電、所在の児玉 工兵聯隊長と共に自決す、また聯隊本部に所属せる鈴木少佐ほか多数の将兵も生存皆無の為、同日を相前後し全員壕内外で自決若しくは戦死と認められ歩兵第89聯隊は悲運の幕を閉ずる。

戦後の調査によると此の壕は、師団工兵隊構築による坑道式陣地壕で全長概ね80余米、米軍制圧後は延々十余日に亘り燃え、内部全てが灰燼と化した事は遺族にとり断腸の思いである。

依って本壕は、肉親玉砕の聖地たる意も含め沖縄戦を語り継ぐ貴重な歴史戦跡として永く後世に遺すべく此の銘碑を建立する。

平成15年10月31日 歩兵第89聯隊顕彰碑奉賛会 
関係遺族支援有志一同 

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.36

壕に入って10メートルぐらい進んだところで振り返り撮影しました。ブルドーザーで埋められてはいるものの、軍の構築壕の規格である一間×一間の坑道になっていたと思われる雰囲気ですね。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.37

壕入り口付近ですが、凄いです。坑道の右側半分に積み上げられている土石は全て南埜さんが積み上げたものです。勿論先に積み上げる場所の遺骨収集をして、ご遺骨や遺品が無い事を確認したうえで、その場所に土石を積み上げるという手順を踏んでいるはずです。7年前はどうであったか下の写真と比較して下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.38

今から7年前の壕入り口の様子です。壁天井の煤で黒くなっている様子は7年前の方がリアルですね。また7年前は約10メートルぐらいは腰を屈めて低い姿勢で入らなければなりませんでした。奥の方に国吉さんが立っておられます。国吉さんが立っている場所は壕のごく普通の床面だといえるでしょう。手前に山のように積まれている土砂は、米軍が複数ある壕入り口のどれかをブルドーザーで埋めたという話がありますので、その埋めた土砂の可能性があります。この壕は摩文仁への撤退時に急遽作られた壕ではありません。第二十四師団が後方支援の為の壕として早くに構築された壕ですから、軍の規格で掘り進めたはずで高さも1間はあってよい筈ですからね。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.39

長い直線部分の坑道ですが、ご覧下さい。全部きれいさっぱりと土石が片付けられています。沖縄戦当時の地盤がしっかり露出している印象です。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.40

ご覧のように直径が70センチ程度でしょうか、小さな穴が開いていますが、換気口になっており、地上と繋がっています。換気口ですから人の出入り口では無いので、かなり狭い坑道となっています。平成22年(2010年)の時の写真と比べてみましょう。下の写真と比較して下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.41

今から7年前の換気口の様子です。当時の方がゴミがありませんね。現在の方が大量にゴミがあるというのは理由がありまして、7年前の時は、この換気口の坑道の中に、地上部分からかなりの量の生活ゴミが投げ入れられていました。国吉さんもこの地表の換気口から戦死した遺体を投げ入れたという証言があるという話をされまして、国吉さん自身もこの壕内側から換気口に入って見たが、ゴミが凄くてこの換気口内の作業は出来てないという話でした。当時そこで私がこの換気口から入って見ることにしたのです。(^^;)

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.42

壕内の換気口から入り3メートルほど進んだところです。写真では解りにくいですが、かなりの急勾配です。そしてかなりゴミが増えてきましたね。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.43

換気口を進むと、ついにゴミで完全に塞がれた状態になっている所まで到達しました。この辺りは垂直坑道に近いところだとは思いますが、光は全く見えません。しかしながらゴミとの格闘が10分ぐらい続いたでしょうか、目にゴミが入り大変でしたが、ゴミをかき分けかき分け前進した結果、かすかに光を感知しました。結果としてゴミが詰まっている部分はおよそ2メートルぐらいではないかと推測されました。その事を国吉さんに報告したら、遺骨収集の見通しが立ったと感じたのでしょう、とても喜んで居られました。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.44

この写真は換気口を地表側から見ています。国吉さんが恐る恐る覗いている場所が換気口の垂直坑道です。ちなみに写真左側にあるゴミの山は、この付近に散乱していたゴミを国吉さん達が集めて積み上げておいたものです。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.45

私も恐る恐る垂直坑道を覗き込み撮影してみました。ゴミが見える場所まで4メートルぐらいかなという印象でした。国吉さん達は数年前にこの垂直坑道のゴミを掻きだし、遺骨収集をされたと聞き及んでいますので、その掻きだしたゴミが本日撮影した大量のゴミとなって壕内の換気口付近に散乱しているという事になります。説明が長くなってしまいまいましたが申し訳ありません。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.46

壕口から換気口のあった場所までは直線的に坑道が掘られていました。そして換気口辺りからほぼ直角に坑道は曲がります。これはセオリー通り爆風避けという事になるでしょう。この写真は直角に曲がった以降の直線的な坑道を撮影しています。この部分が一番長い直線坑道です。沖縄戦当時の路面がしっかり表出していますね。下の写真と比較して下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.47

今から7年前のメインの直線坑道の様子です。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.48

この辺りからまたカーブが始まったりしています。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.49

坑道はやや狭くなりますが、まだまだ続きます。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.50

壕内には慰霊に訪れた方々が取り付けたと思われる、慰霊の言葉が書き記された札が吊されていました。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.51

今から7年前の時は、左側の二枚だけ撮影しました。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.52

南埜さんの背後に進むともう一カ所の壕出入り口に到達します。この辺りはまだ土砂が山のように積まれていますが、南埜さんが作業の困難さを説明している所です。場所によっては落盤の危険性も指摘していました。壁天井が真っ黒ですよね。碑文にも「米軍制圧後は延々十余日に亘り燃え、内部全てが灰燼と化した」と書かれていますが、壕内の様子は十分にそれを裏付けるものです。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.53

遺品ですね。かなりの量の遺品が出たそうです。ちなみにご遺骨そのものは現時点までであまり無かったようです。

新垣にある「歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕」慰霊巡拝を終了しますが、壕内を再び遺骨収集をしなくても良いレベルで、しかも整然と整備しながらその作業を進めたのは、他ならぬ南埜さんです。そしてたった一人で来る日も来る日も作業を続けたのでした。暗い壕内はともすると不気味な雰囲気が漂う時があるのも承知しています。微妙な心の変化がそうさせるのであり常にそうなる訳ではありませんが、そうした心の不安を乗り越え作業を継続出来たのは、一重に強い使命感を持ち合わせているからに他なりません。壕内での精力的な取り組み、本当に有り難うございました。何よりもこの壕内で亡くなられた戦没者の方々が喜んで居られると思います。m(_ _)m

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.54

「歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕」から200メートルぐらい離れているでしょうか、同じく構築壕があり、南埜さんの説明では情報では三カ所あるはずだが、二カ所しか見つかっていない。後の一カ所の発見に努力しているとの話でした。この写真はすでに把握している二カ所の内の一つの壕です。中に入ってみましょう。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.55

規格通りに掘られているのが見てとれますね。あまり深くなく20メートルは無いという印象です。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.56

内部の様子を観察する松永さんと豊澤さんです。

2017年1月14日/遺骨収集の様子no.57

壕口の様子です。壕口は西を向いていると思われます。

PAGE TOP