平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月18日(水) 八重瀬町安里で真喜志氏と共に調査、具志頭で遺骨収集

今日の天気予報は、曇り時々雨。最高気温22度の予報です。朝は晴れていますが崩れるようです。最高気温が22度まで上がりますから、梅雨時のように蒸すかもしれません。今朝の慰霊巡拝は、「沖縄工業健児之塔」一カ所だけです。朝9時から真喜志さんという地元の方の情報提供による調査を行いますので、遅刻するなどという事態は絶対に避けねばなりませんからね。早めに摩文仁に向かいます。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「沖縄工業健児之塔」

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.1

「沖縄工業健児之塔」です。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。海岸沿いの崖上にあり、背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.2

大東亜戦争中、沖縄、その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員、生徒167名が祀られています。同校は、沖縄戦では、生徒97名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織するなどして戦闘に参加し、88名が犠牲となりました。学徒隊の中では最も高い戦没率であったとされています。

7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。7本の柱にしっかりと守られていますね。ご覧のように塗装も新しくピカピカに塗られ、新装なった「沖縄工業健児之塔」の塔です。

軍の解散命令が出た後に、慰霊塔の背後にある壕内で学徒が自決したとされている事から、私も同塔背後を徹底的に調査したことがあります。その結果壕はありませんでした。あるのは亀裂です。深い所では10メートルぐいらはあるでしょうか。そんな亀裂が100メートルぐらい続いていました。亀裂の最終局面で一カ所壕がありましたが、その場所はこの「沖縄工業健児之塔」からかなり離れていますので、背後という事には当たらないと思います。調査の結果平成20年(2008年)ですが、頭骨も含めて一柱見つけることが出来ました。この「沖縄工業健児之塔」から40メートルぐらい離れた場所でした。遺品としてはかなりしっかりした鉄兜のみが見つかっています。学徒隊との関連を裏付ける遺品等は発見されませんでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.3

鉄血勤皇隊工業隊として戦没された生徒の名前が刻み込まれています。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.4

碑文ですが、ギリギリ読めますね。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.5

説明文ですが、こちらもギリギリ読めますね。

遺骨調査・収集作業開始です

沖縄での遺骨収集に関わるウエブサイト「南部戦跡に膝をつきて」の管理・運営を続けて早13年が経過しました。光陰矢のごとしとよく言われますが、光のように早く過ぎ去った13年でもありました。ウエブサイトの管理・運営をしていますと見知らぬ方々から連絡が入ります。特に遺骨収集という特殊な分野ですと尚更なのかもしれません。

そうした連絡を頂く方々の中で、遺骨収集に関わる情報を教えて下さる方も、ごくたまにいらっしゃいます。こうした連絡は本当に嬉しく思いますし、結果がどちらに転んだにせよ、情報提供者と同じ思いを共有出来ますし、何より情報に基づいて結果が出せたこと自体に充足感を感じます。そして汗を流し結果を導いた達成感も十全に得られるのが何よりの喜びとなります。こうした経緯もあり、情報提供者からの連絡は、特に慎重且つ丁寧に応接するように努めていると言えるでしょう。

そうした中で、沖縄在住の真喜志さんという方からメールを頂きました。(真喜志さんから氏名等必要な事柄の掲載許諾を得ています)

「先日、偶然にネットで貴ブログ「南部戦跡に膝をつきて」を拝見し、独立混成第44旅団工兵隊の慰霊碑、「萬朶之塔(ばんだのとう)」などを興味深く読ませていただきました。実はこの慰霊碑は、15年前に85才で亡くなった私の父が所属していた工兵隊の慰霊碑であります…」

この様な書き出しの長文メールを頂いたのです。ちなみに真喜志さんが見たというサイト記事は、私を含めた有志で、平成25年(2013年)に遺骨収集情報センターの職員の方に、「壕を紹介するので遺骨収集してみませんか」という意味合いで、「萬朶之塔」付近に散在する複数の構築壕に案内して頂いた時の記事です。その記事では調査に先立ち「萬朶之塔」で献花し手を合わせたりもしました。少し脇道に逸れますが、真喜志さんのお父さんが所属していた独立混成第四四旅団工兵隊の慰霊碑に書かれている碑文は次の通りです。

【萬朶之塔碑文】

独立混成第四四旅団工兵隊は、優勢なる米軍に対し勇戦奮斗、敵の心胆寒からしめたるも昭和二十年六月中旬村本福次大尉を長とせる将兵並びに軍に強力せる住民併せて二百余名は善戦空しくこの地において玉砕せり。

ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て御霊を慰め永くその遺烈を伝う。

昭和四十三年六月 財団法人沖縄遺族連合会 

沖縄作戦に参加した主な陸軍部隊は、第三十二軍隷下第二十四師団、第六十二師団、そして独立混成第四十四旅団でしたが、真喜志さんのお父さんは、「萬朶之塔」の碑文にも記載されている独立混成第四四旅団工兵隊に所属していた兵士だったのですね。お父さんはすでにお亡くなりになられたようですが、生前毎年6月の慰霊の日に暑い陽射しが照りつける中、バスを利用して慰霊参拝を続けられたり、所属部隊長である村本福次隊長や戦友の甲斐曹長の御遺族を「萬朶之塔」に案内案内したり、更には御遺族とは手紙などで長く連絡を取り続けられたそうです。

そしてこの点が核心なのですが、独立混成第四四旅団工兵隊の壕が米軍の攻撃を受けて、部隊は全滅し壕も入り口が落盤して塞がれてしまったとの事で、真喜志さんのお父さんは場所の解っているその埋没壕から戦友の遺骨を掘り出したいと、厚労省に何度か掛け合ったそうですが、結果として発掘調査は実現せず、慰霊塔の建立だけで終わったそうです。国が動かない事が確定した以降も、埋没壕から戦友の遺骨を収集したいという思いが常にあったようで、真喜志さんのご兄弟二人とお父さんとで、一緒に「萬朶之塔」に慰霊に訪れた際などにも、しきりにその話をされたそうです。

私が真喜志さんのメールを拝読して最初に沸き上がってきたのは、「新聞記事の通り、まだ遺骨収集されていないのか…」との思いでした。私も平成25年(2013年)の「萬朶之塔」付近の構築壕調査以降は、真喜志さんのお父さんが所属していた独立混成第四四旅団工兵隊に関わる事柄を何度かネットサーフィンしたところ、下掲の新聞記事を見つけ埋没壕の存在を知る事となったのです。皆様もぜひ読んでみて下さい。

【10 独立混成第44旅団工兵隊壕(上)】 いまだ30柱が眠る

「琉球新報」2010年1月4日

報復攻撃で小隊全滅
「敵戦車がすさまじい砲撃を壕に浴びせかけている間、また、砲撃が終わってから米兵が引き揚げていくまでの間は全く生きた心地がしなかった」。独立混成44旅団工兵隊(球18800部隊703部隊)第3小隊の生存者、吉川正潤さん(70)=那覇市楚辺=はそういって小隊の最期のもようを話し始めた。

九州で編成された同旅団は沖縄への配備途中、米潜水艦の攻撃を受けて多くの犠牲者を出した。昭和19年9月、名護市で現地召集など行い再編成。玉城村糸数城跡の陣地壕に布陣し沖縄戦を迎えている。

戦闘が始まってから糸数壕を出た旅団主力は識名方面に進出。首里をめぐる戦闘に参加したが、敗退。以後、南部を目指し、各地で抵抗しながら、最期の地・具志頭村安里の陣地壕にたどりついた。6月4日ごろだったという。吉川さんが配属された第3小隊の壕は日本軍が構築した陣地壕だったが、吉川さんらの第3小隊は、先に駐屯していた石野隊が異動した後でその壕に入った。

壕は岩山をうがって北向きに造られ、高さ2・5メートル、幅もそれぐらい。奥行きは20メートルほどもあり、鍵型になっていたという。米軍の激しい砲撃で入り口がつぶされてしまった。現在の壕跡は深い樹木に覆われたままだが、戦闘の最中、崩れ落ちてきた大岩が一つ38年前の当時の姿で横たわり、壕内には第3小隊の遺骨約30柱が掘り起こされるのを待ちながら静かに眠っている。

吉川さんの証言によれば、悲劇の始まりは米軍攻撃前日・6月13日にのこのこと現れた敵の斥候兵に射撃を加えたことだった。「こちらが壕にひそんでいることを敵は全然気づいていんかっただけに、斥候兵への射撃が文字通り小隊全滅の“引きがね”になってしまった。あれほどの戦だったから、あの時は生き長らえたとしてもその後どうなったかは分からない。でも何人かは生き抜いたにちがいない」と声を詰まらせた。

発見されたその日は何事もなく過ぎた。その夜のうちに他に移動すれば何十人もの人が犠牲になるのは避けられたかもしれない。しかし、前日12日には米軍が壕前を通過。南部へと前進して行ったのを見ていた第3小隊の井上中尉は「ここが死に場所」と覚悟を決めたのだろう、移動命令は出なかった。

「小隊長がその思いならと小隊みんなが覚悟を決めた」と吉川さんは話したが、運命の日の14日、吉川さんは部下2人をつれて壕から少し離れたたこ壷に入るよう命じられた。「どうせ死ぬのなら、現地召集されて以来の短い付き合いだったとはいえ、同じ釜の飯を分け合った仲間と一緒だ」と激しく小隊長に食ってかかったが、聞き入れられず、崎本部出身の初年兵・崎山さん(名前不詳、当時25、6歳)と補充兵の仲宗根さん(同、35、6歳)の2人を連れて、たこ壷に陣取った。吉川さんの運命の別れ道だった。そして、いよいよその日の昼前、米軍は壕に通じる細いあぜ道を戦車3両を先頭にして押し寄せて来た。
(「戦禍を掘る」取材班/1983年8月25日掲載)

「琉球新報」から転載させて頂きました

【11 独立混成第44旅団工兵隊壕(下)】 壕の入り口崩れる

「琉球新報」2010年1月5日

生存者の吉川さん証言 たこ壷で命びろい
ズドーン、ズドーン。第3小隊に気づかれぬよう、壕のすぐ近くまで接近していた米戦車が火を噴いたのは午前10時すぎだったと吉川さんは述懐する。突然の砲撃で壕内から14、5人の戦友が飛び出してきたが、壕入り口にピッタリ照準を合わせていた機関銃は容赦なく次々となぎ倒していった。まるでアリの子でもつぶすような光景だったという。近くのたこつぼでそのもようをつぶさに眺めていた吉川さんは「壕内にいれば、生き延びられるかもしれない。出てくるな、出てくるんじゃないぞ」と念じるだけで、手の出しようもなく、ただ見ているだけ。「無念さだけが残った」とポツリとつぶやいた。

そのうち、壕の上部が崩れ、大岩が吉川さんらのひそむたこつぼを覆い隠すように落下してきた。「そのお陰で命拾いしたようなもの」と言うが、攻撃が終わった後も立ち去ろうとしない米兵を前にして、砲弾の破片で右腕と胸の2カ所に傷を負った吉川さんは2人の部下に「音を立てるな。もう少しの辛抱だ」と励ましながら苦しさに耐えた。意気揚々と米軍が引き揚げていった夕暮れまで、およそ7、8時間も狭いたこつぼの中で息を殺していたという。

シーンと静まり返った戦場跡。たこつぼからはい出た3人の目に映ったのは、壕前広場でむなしく戦死した戦友の遺体と無残にも崩れ落ちた壕。土石で埋まった入り口上部には、わずかながらも人の出入りできるようなすき間がありはしたものの、中で人が動く気配は感じられなかった。「転戦中に、足に負傷し、動けなかった垣花出身の石原伍長や本部出身の仲宗根勝正上等兵らを含め、約30人が中に埋まっている、とは思いはしたが、生きているとは考えられなかった」と、3人は心を後に残しながら、南部へと逃げた。吉川さんはその後、崎山さんや仲宗根さんと別れたが、戦後になってからも2人の消息は分からない―と話した。

上部が一部分あいている状態の壕を確認しているのは吉川さん以外にもいる。仲宗根勝正さんの長男・宏さん(45)=那覇市首里=もその一人。本部の実家を訪れた吉川さんから、父親の最期のもようを伝え聞いた宏さんらは家族総出で具志頭に出かけたが、その時も「子供だったが。上の方があいていたのは覚えている」と宏さんは言う。「収骨できなかったので、その場所から石ころを遺骨代わりに拾って来ました。今でも仏壇に祭り、毎年慰霊の日には、壕にもうでます。埋まったままであるのをいつも気にしていた祖母も12年前に亡くなりました。私ら遺族からすれば、遺骨がそこにあると分かっている以上、一日も早く掘り出してほしい」。

独立混成第44旅団工兵隊のモニュメント・萬朶の塔は第3小隊壕近くに、沖縄県遺族連合会の手で昭和43年に建てられた。村木福次隊長以下200余柱が合祀(し)されているが、具志頭村援護係の話では、戦後第3小隊壕を掘り起こし収骨したことはないという。
(「戦禍を掘る」取材班/1983年8月26日掲載)

「琉球新報」から転載させて頂きました

新聞記事によれば、埋没壕は未だ発掘調査されていないように見えます。もしも発掘調査されれば、琉球新報により追加記事が出るはずだと思えます。ネットサーフィンしても続き記事のような文面は現れません。真喜志さんもそういう情報はまだ聞かないので、当該埋没壕は未だ発掘調査されていない可能性がある事から、「父と共に訪れた壕がその当該埋没壕である可能性が高い」と語ります。

真喜志さんは私達をその埋没壕に案内して下さるとの事です。私は高鳴る期待を抑える事が出来ませんでした。しかしながら、ここで改めて遺骨収集情報センターの職員の方が話して下さった言葉もまた頭を過ぎりました。「情報に基づく場所については、結構連絡を頂くのですが、70年以上も前の見聞ですから、どうしても記憶を頼りにという事になりますし、道路が出来たり家が建ったりと地形も変わっている事が多いなどの理由で、残念ですがご遺骨発見に到らないケースが多いですよ」と語られていた事を思い出しました。

長年の取り組みの中で、一度ではなく何度か職員の方から聞いた言葉なので、頭の脳みそにしっかり刻み込まれています。ガ~ン。現実は甘くないんですよね~。ですから今度もまた…空振り…という事態も十分考えられます。

あまりに期待しすぎて外れてしまうと、ショックで寝込むかもしれないので(^^;)、冷静に本番を迎えるように努め、真喜志さんとメールのやりとりを続けました。そして昨年の内に1月18日に、真喜志さんご兄弟お二人が現地を案内して下さると約束して下さいました。その約束の日が今日なのです。

唯一天候が気がかりでしたが、曇り空ながら雨の心配はなさそうですので安堵しました。安里にある特別養護老人ホーム正門前での待ち合わせとなりましたが、約束の9時少し前に真喜志さんご兄弟が乗った車が坂を駆け上がってきました。

真喜志ご兄弟と「萬朶之塔」にて

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.6

真喜志さんご兄弟と共に、お父さんの戦友が眠る「萬朶之塔」で献花し線香をあげ手を合わせました。亡きお父さんは勿論、戦没された独立混成第四四旅団工兵隊将兵の皆様もきっと喜んで下さったと思います。後ろに位置する左側のお二人が真喜志さんご兄弟です。ウエブサイトの記事が発端で、こうしてお目に掛かる事になりました。出会いへの天の配剤を感じずにはいられません。埋没壕を発見する為に、本日は私達全員が真喜志さんご兄弟の手足となり、全力でジャングルを探し歩きますよ。(^o^)

遺骨収集は複雑微妙な意味合いを含みます。従いまして調査地域の地権者の方々や住民の方々に迷惑を掛けないよう最大限配慮する為に、調査地域に関わる文言は表記しません。ご了承下さいませ。m(_ _)m

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.7

壕口を発見しました!。ジャングルに入ってから十数分の後には発見に到りました。真喜志さんご兄弟が指さして下さったのですから、当然と言えば当然ですね。真喜志さんご兄弟は服装からして壕には入れないので、壕の内部状況を真喜志さんご兄弟にお知らせする為に、速やかに内部を調べる事にしました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.8

壕の入り口です。現況では痩せた人なら入れるかな…。というレベルの開口部寸法です。そこで容易に中に入れるように、入り口を少し広げて中に入りました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.9

壕口から3メートルぐらい中に入った場所から入り口を撮影しました。

ご遺骨発見!

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.10

ご遺骨がありました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.11

少し離れた場所にも1本あります。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.12

頭骨もありました。外れた下顎は写真には写っていませんが、下の方にありました。頭骨の位置は特に重要です。勿論その他の遺骨の位置もしっかり把握しなければなりませんし、他のご遺骨との連関も見なければなりません。戦没者が自決したのか、ケガが原因による死なのかその他どのような経緯で亡くなられたのか等多くの情報を提供してくれます。頭骨を持ち上げて観察しましたが、少なくとも拳銃銃弾を頭に撃ち込むなどの自決でないのは明らかでした。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.13

福岡さんが写真撮影をしている所です。壕内至る所に遺骨があります。そして遺品として兵士が身につけていた水筒が一つ表面に出ていました。地下足袋のゴム底もありました。これらを踏みつけないように注意しながらしばらく観察を続けました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.14

ご遺骨を発見した壕の周囲はどのようになっているのか…。松永さんと二人で周囲を歩いてみました。小山となっている斜面をぐるっと回ったところに古墓がありました。写真中央、少し解りにくいですが、線香を焚く石の台もありました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.15

壕の中を懐中電灯を照らして見てみると、縦横8メートルぐらいの空間があり、地面はしっかり整地され、内部空間の中央部に割れた瓶が二つあり、骨というよりも粉のような骨という表現がピッタリとする相当古い風葬骨が置いてあります。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.16

青テープが見えます。古墓入り口から5メートルぐらい離れた場所にありました。これはかつて金光教の遺骨収集が実施され、且つここでご遺骨が発見されましたよと言う目印です。この山にも金光教の遺骨収集が為されたのですね。調べてみますと、金光教では一度だけですが、第二回(昭和53年)の遺骨収集で、この安里地域入っていますから、今から39年前に実施されたという事になります。しかしながら、青テープから30メートルぐらい離れている、今回ご遺骨が発見された、あの小さな壕口は残念ながら見落としてしまったようです。小さい穴ですからね~。ちょっと見る角度が違えば、違った風景となりますからね~。ここが大切なポイントですが、だからこそ遺骨収集ではより多くの方々の目線が必要不可欠なのです。(^o^)

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.17

周りの風景も入れたので、少し解りにくいですが、写真中央にちょっとした石垣が見えますよね。石垣の内側は兵士一人が入れる小さな蛸壺になっていました。その蛸壺に兵士一人が居て周囲を監視し、米軍の接近を察知しようという事だと思います。勿論戦後70余年が経過して少しばかり土砂が堆積してはいますが、そうした推測に間違いないと思われます。この蛸壺の位置は御遺骨発見現場から7メートルぐらいの距離にあります。

※沖縄戦戦没者と見られるご遺骨が発見されたと言う事で、直ちに収骨の為の準備作業を開始しました。と言ってもすぐに着手は出来ません。まず最初に遺骨収集情報センターに通報する事になります。続いて警察による他殺・自殺の遺体でない事の確認と、教育委員会による史跡・遺跡に関わる場所であるかないかの確認をして頂かなければなりません。と言う事で、私達メンバーは午後も遺骨収集を続けながら、主に松永さんが奔走する事になりますが、適宜そうした公的機関の方々を現場に案内して調査と審査をして頂いて、問題が無いという結論を頂いて遺骨収集に着手するという手順になります。

「上江門家」

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.18

具志頭に戻る道すがら、松永さんが寄り道をして安里集落内のある一軒家を訪ねました。松永さんが敷地入り口付近にご覧のような標識がありました。八重瀬町安里にある「上江門家(イージョーケ)」という八重瀬町指定の文化財となっているようです。沖縄戦では被弾しながらも焼ける事なく戦災を生き抜いたという歴史的な建物との事です。お昼ご飯を食べに行く道すがらにある事から、松永さんが案内して下さいました。松永さん、有り難うございました。(^o^)

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.19

敷地に入りますと、路面は石畳となっていますし、側面も石垣がありました。そしてよく見ると途中で直角に折れ曲がっています。一直線にせず、なぜわざわざカギ型に曲げるのでしょうか~。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.20

直角になった部分を曲がり、再び直線の石畳を歩くと、目の前にヒンプンが現れました。少し解りにくいですね。黒っぽい塀がヒンプンです。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.21

この黒っぽいコンクリートブロックのような塀がヒンプンです。皆さんが本土には無いヒンプンを珍しそうに見ています。ヒンプンとは元々中国語の屏風(ひんぷん)のこと。家の門の内側にある目隠し。沖縄の魔物は角を曲がるのが苦手なため、直進して入ってこないように魔除けの意味もあり、先ほどの石畳部分が直角に曲がっているのも、その同じ魔除けの意味合いで設けられているのですね。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.22

ヒンプンを回ると古民家がありました。グスク時代に島尻地域を支配していた多々名按司(たたなあじ)の子孫が建てたと伝えられているそうですから、それは1700年代にはあったという事で、沖縄戦戦渦を生き延びつつ、築300年以上経過しているという事になりますね。木造で300年以上ですか、ヒェ~。建物は大正期に茅葺きから瓦葺きに改修され、また昭和35年頃にも改修工事が行われて現在に到っているという話です。それにしても湿度が高いなど沖縄独特の気象状況で、木材が300年以上も保存・維持できているのに驚きですよね。家主さんは沖縄では有名な方らしいですが、ここに住んではいないようですね。松永さんが雨戸を開けて中を見られるようにして下さいました。手招きしています。近づいてみましょう。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.23

暗くて中が見えにくいですが、普通の住宅と同じように、木材で出来た廊下の奥には畳の部屋が並んでいます。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.24

凄まじい沖縄戦の様相を今に残す、柱に刻まれた弾痕跡ですね。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.25

この柱も被弾していますね。松永さんの話では、こうした弾痕跡は何カ所かあるそうですよ。ちなみに内部の様子は暗くて見えにくいですが、一般の住宅と同じように色んな家財道具が置かれていまして、常時人が住んでいないだけで、普通の住宅と変わりはありません。家主さんはここには住んでいないものの、この歴史的建造物を地域振興に役立てたいというお考えのようですから、大勢の人々が集う色んなイベントがこの住宅内で開催されているようです。そうした事もまた住宅の維持・管理に役立っているのかもしれませんね。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.26

「上江門家」の敷地は約600坪もあるそうです。広いですね~。松永さんが建物右側にも色んな施設があると手招きしていますので、そちらに行ってみましょう。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.27

この写真を見て何の為の施設だと思われますか。?
この施設の適切な表現としては、「便所兼豚小屋」という表現が一番当たっているでしょうかね。ちなみに現在は石組みだけしか残っていませんので、答えが出しにくかったと思います。上の方にあった便所としての、木材で出来た建物部分は消失しています。すなわち今は形が無い木造の便所部分で人間が排便すると、下の石組み部分に飼われている家畜としての豚が、その便や尿を餌にして食べる…。勿論排便だけでは満腹にはならないでしょうから、その他人為的に餌も与えているでしょうけどね。それにしても、無駄のない便利なシステムだと思いますね。未来を先取りしたかのような完璧な循環型リサイクルシステムが、沖縄では300年も前から実現していたという驚くべき事実を知る事となりました。(^^;)

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.28

約600坪という敷地には、大きな木々が植えられており、木陰に入ると涼しい風が吹いていました。福木も多く植えられているのが目にとまりました。福木は並べて植栽すると緑の壁のようになり、防風林・防潮林としても有効だそうです。又緑の壁のように並木植えにしておくと、植えておくと隣家の火事による延焼を食い止められるとされているそうです。奄美方言の地方名では福木を「火事場木」を意味する「クヮジバギ」と呼ぶそうですから、防火も期待できる樹木なのですね。

昨日と同じ場所で遺骨収集

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.29

それでは、昨日と同じ場所で収集作業の継続です。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.30

ご遺骨発見現場に到着しました。皆さんがそれぞれ昨日の続き作業を開始しました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.31

警察の方が現場視察に訪れて下さいました。有り難うございます。松永さんが案内して下さったものです。この場所でご遺骨が一定量出ていますからね。自殺・他殺等事件性があるご遺骨かどうか、警察に確認してもらいます。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.32

吉井さんがフルイを用いて作業しています。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.33

昨日同様少しずつご遺骨や遺品が出ているようです。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.34

福岡さんが日本軍将兵が身につけていた真鍮製の認識票を見つけました。(^o^)

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.35

福岡さんは七つ道具を持っていますからね。素材を痛めないレベルで表面を磨くブラシも、金属製からナイロン製まで複数持っていますから、この程度の作業はあっと言う間に済ませてしまいます。「山三四七六 七 番一六」と読めると福岡さんは語りました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.36

見つかる遺品も少しずつ増えています。今のところ記名のある遺品は見つかっていないようです。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.37

この金属製の物はなんでしょうかね。名前が書かれているとは思えませんが…。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.38

南埜さんはお一人で続き作業をやっています。どんな状況か訪ねてみました。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.39

比較しにくいので実感できないと思いますが、凄く掘り進んでいます。ビックリです。

2017年1月18日/遺骨収集の様子no.40

掘った土石は全て積み上げています。誰かが同じ場所を二度遺骨収集しなくても良いように、良いマーキングになるでしょう。

PAGE TOP