平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月20日(金) 完全一体ご遺骨の収集作業を開始

今日の天気予報は、曇り。最高気温19度の予報。少し気温が下がるようです。活動しやすい一日になりそうですね。今朝の慰霊巡拝は、「萬華之塔」一カ所だけです。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「萬華之塔」

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.1

この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA 糸満市集出荷場 真壁支所」という倉庫のような大きな建物があります。「萬華之塔」がある一帯は沖縄戦最後の激戦地となった地域ですが、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千人余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付により納骨堂を建てたものだそうです。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.2

「萬華之塔」塔は昭和26年に建立されましたが、現在の慰霊塔は平成15年に立て替えた塔です。初代の「萬華之塔」の屋根には十字架が掛けられていました。米軍兵士が頭骨を盗んでしまうので、十字架を立てて盗難を防ごうとしたという訳です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掛けられていたのをご存じでしょうか。下の写真がその初代の「萬華之塔」の写真です。なぜ十字架が設置されたのか?。

その理由は驚くことに、米兵が頭骨に電気を入れて照明器具にしたり、本国に帰国する際、"おみやげ" にする為に、納骨堂から頭蓋骨を含めてご遺骨を持ち去ってしまう事に理由があったのです。現実に納骨堂をこじ開けご遺骨を持ち去るという事件が後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。

そんな願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。同じ意味で、「ひめゆりの塔」にもご遺骨の盗掘防止のために、最初に建立された納骨堂には十字架がかけられていたのです。更に驚くに大東亜戦争の最中では、米軍兵士は戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨を、さかんに本国の家族や知人に郵送して贈ったそうです。

日本軍将兵のご遺骨は、要するに戦勝を祝うために、小綺麗な箱に詰められたプレゼントとして扱われたという訳ですよ。プレゼント以外にも、頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。「交戦国軍・民戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えますよ。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.3

昭和26年に建立された初代「萬華之塔」です。「萬華之塔」に十字架が設置された経緯は、米軍兵士による頭骨持ち去りが後を絶たず、十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。村民のそんな願いを込めて十字架が設置されたのでした。

手を合わせているのは、南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された石原正一郎さんです。石原正一郎さんは、沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、日本軍側で砲撃の指揮をとる立場の連隊中隊長だった方なのです。

石原正一郎さんはそうした経緯もあり、戦後沖縄に通い続け、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意を込めて共に遺骨収集にあたりました。また同時に金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。石原さんは正一郎さんは、沖縄での遺骨収集と慰霊祭参列の為に、私の推計でおそらくこれまでに70回以上沖縄に来たと思います。

毎年6月22日に「萬華之塔」で慰霊祭が執り行われますが、石原正一郎さんは毎年その慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていたと語っていました。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.4

「萬華之塔」は地元部落民等の寄付により建立されたものですが、その寄付一覧名簿です。「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、そして慰霊塔を守り続けて下さったのですね…。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.5

10円とか20円、多くて100円という寄付金ですね。昭和26年の100円は現在の貨幣に換算するとどれくらいの価値があるんでしょうかね。よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」 (ビーえん) という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

「砲兵山吹之塔」

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.6

「砲兵山吹之塔」です。昭和41年(1966年)6月22日建立されました。野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊、山根部隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.7

「砲兵山吹之塔」前に立つ石原正一郎さんです。沖縄戦も終局に近づいた昭和20年(1945年)6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死しましたが、石原正一郎さんは日本側の当時の野戦重砲第一連隊の中隊長として指揮をとっていました。石原さんは毎年6月22日に催される「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」慰霊祭には毎年必ず参列されるそうです。

沖縄遺骨収集奉仕活動で多大な貢献をされた石原正一郎さんは、金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。また私も東京の千駄ヶ谷にあるご自宅にお訪ねしたり、携帯電話やメールなども無い時代でしたから、手紙で頻繁にやりとりするなど親しく交流させて頂きました。

南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事群の中からから見つけましたので、ここに転載させて頂きます。

【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】

「琉球新報」平成14年6月18日

【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。 使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。

体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。

「琉球新報」から転載させて頂きました

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.8

「馬魂碑」です。沖縄戦では沢山の軍馬が動員されましたが、亡くなった軍馬の慰霊碑なのですね。沖縄戦では本土から沢山の軍馬が搬送されましたが、一方でここ沖縄の在来馬もその多くが軍馬として動員されたそうです。ちなみに真壁にはもう一カ所「馬魂碑」がありますね。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.9

「萬華之塔」の右側には、ご覧のような舗装された歩道があります。この歩道を60メートル程進むと大きな壕があります。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.10

鬱蒼とした雰囲気です。曇りの日はもっと暗いですよ。

アンディラガマ(真壁千人洞)

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.11

アンディラガマ(真壁千人洞)の壕口が見えてきました。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.12

ここが壕の入り口です。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.13

20メートルほど入った所で入り口部分を撮影しました。かなり大きな開口部であるのが見てとれます。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.14

おどろおどろしい雰囲気ですよね。火炎放射攻撃を受けて壁面が煤で真っ黒です。通路があるのですが、写真をみる限りちょっと解りにくいですね。単独行動ですので、あまり奥に行くとリスクが高まりますので、この辺で引き返します。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.15

火炎放射攻撃を受けて壁面が煤で真っ黒にになった壁面を写しています。如何に激しい攻撃に晒されたかというのが解りますね。

ちなみにこのアンディラガマから150メートルぐらいの場所にある、第二十四師団野戦病院分院だった「アンガーガマ」は、一度最奥部まで調査したことがあります。

遺骨調査・収集作業開始です

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.16

収骨作業が開始されました。花が供えられていますね。白い菊の花は、昨日お目に掛かった地元のご老人の方か持参して下さいました。有り難いですね。菊の花を持参されたご老人は、昨日私達や警察や市役所の方々が大勢でワサワサと動き回っていたので、何事かと声を掛けてこられたのです。「ご遺骨が見つかったので、収集の為の準備をしているのですよ」と語ると、「まだ遺骨があったんかいな」とビックリしていました。その話が出て、老人は戦後半年もの間、安里地域で専任で遺骨収集を続けていたという話をされました。そして今朝ご遺骨に菊の花を手向けてほしいと持参されたのでした。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.17

皆さんが気合い十分ですから、グングン作業が進んでいきます。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.18

サイト管理人は朝一番では所用があり、壕に少し遅れて到着しましたから、主要骨の引き上げには間に合いませんでした。という事で表面に見えていた主要なご遺骨は、すでに引き揚げられています。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.19

これからは注意深く土砂の中に埋もれたご遺骨を慎重に探し出すと共に、チェックの済んだ土砂を上に運び出すという単純作業が続く事になります。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.20

地上部では、南埜さんが持つ大型のフルイが到着しました。ご覧のように相当に効率を高める事が可能なように見えます。また右側の方は金光教の遺骨収集にいつも参加されていた金城さんです。最初は名前からして沖縄の方かなと思いましたが、そうではなく東京の方です。今日は応援に駆けつけて下さいました。有り難うございます。(^o^)

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.21

松永さんと金城さんが、慎重に土砂の中から、遺骨や遺品を見つけ出していきます。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.22

再び壕の中を見ると福岡さんが頑張って作業しています。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.23

現時点での収骨状況です。腕と足の骨は、少し離れた場所にある上腕骨を除き、全部揃っているのが解ります。一本多いとかという事もないので、完全に一体分のご遺骨と言って良いでしょう。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.24

戦死されてから72年そのまま壕内で埋もれていました。今こうして運び出された御霊様は何を思われているでしょうかね。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.25

1934年に陸軍に採用された九四式水筒です。将校用ではなく一般兵士用の水筒ですね。木栓はありませんでした。水筒の容量は1.2リットル入るそうです。そしてご覧のように極めて深く凹んでいますね。何か相当強い衝撃が加わらないと、これだけ凹むのは不可能だと思います。いずれにしても水筒や飯ごうは記名されている可能性がありますから、遺骨収集情報センターに持ち帰る遺品の一つとなります。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.26

これも水筒です。つまり水筒は二個見つかりました。こちらは損傷が激しいですが、形は原型を残していますね。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.27

問題はこの上腕骨です。このご遺骨だけ少し離れた場所にあるのです。手榴弾で吹き飛ばされたという事であれば、腕の先である橈骨や尺骨もこの付近にあって良いはずですが、そういう事もありません。上腕骨の下の方に錆が付着している部分がありますね。まだ肉体がある時に鉄の破片が骨に付着していたから錆が骨の表面に現れた事は間違いないと思います。この事が何か関わっているのかもしれません。最終的に遺骨収集情報センターの職員さんに判断してもらう事にしましたので、引き揚げる事にしました。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.28

白布の上に置いた上腕骨です。兵士が死亡し肉体が朽ち果てる段階で、鉄片が骨に付着していると、ご覧のように骨の表面に錆が残ります。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

更に接写してみました。ちなみに錆が付着した骨は、この上腕骨のみです。上腕に銃弾か鉄片を受け負傷したのか。そしてそれが致命傷になったのか…。あくまで推測に過ぎませんが、この上腕骨のみ少し離れた場所にあった事と言い、錆びている事と言い、何か戦没者の死因に関わっているのかもしれませんね。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.29

午後になり情報を提供して下さった真喜志さんが、現場を見に来て下さいました。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.30

真喜志さんは大量の飲料水とお菓子を持参して下さいました。有り難うございます。真喜志さんご自身も、完全一体のご遺骨が見つかったという事で、お父さんが戦後ずっと抱いていた戦友のご遺骨を回収したいという願いが実現したと喜んで居られました。(^o^)

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.31

フルイにてご遺骨や遺品等を選別している福岡さんと金城さんです。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.32

遺骨収集情報センターの所長さんと職員さんが、現場に訪れて下さいました。有り難うございます。収集作業は順調であるとお伝えしました。また上腕骨について、経緯を説明しこのご遺骨に含めるかどうか判定を御願いしたところ、ご遺骨の現況を見ながら検討され、「このご遺骨の腕として良いと思います」と話されたので、上腕骨を含めました。これにより手足を構成するご遺骨は過不足なく全て揃ったという事になりました。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.33

今回収集作業をしている近くにある壕に、遺骨収集情報センターの所長さんと職員さんを案内しました。積み上げてある岩を二個ほど移動して、内部を見てもらいました。広い空間の中の中央部に割れた瓶が置かれていて、粉のようになった風葬骨がある事を確認して頂きました。「あの風葬骨には手を触れないように御願いします」と語られていましたので、今回は古墓には手を付けない予定です。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.34

遺骨収集情報センターの職員さんに、記名がある可能性の高いこの水筒を見てもらいました。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.35

お守りのような形をしていますが、小銃等の手入れをする際の油缶ですね。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.36

引き続き壕内で収集作業が続けられています。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.37

属探知機が結構鳴ります。沖縄戦当時の地盤に達したかの目安になるのでこの道具は便利ですね。

2017年1月20日/遺骨収集の様子no.38

外はかなり暗くなってきました。しかしメンバーは頑張ります。ヘッドライトを照らして作業を続けます。

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