令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月16日(日) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日の天気予報は「晴れのち曇り」で、予想最高気温21度、降水確率は30%、40%です。暑くなりそうですが、天候そのものは下り坂に入ったようですね。本日朝の慰霊巡拝は、「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」「山形県の塔」「眞山(みやま)之塔」「白梅之塔 上の壕」「白梅之塔」「白梅学徒看護隊自決之壕」「萬華之塔」、「アンディラガマ/真壁千人洞」「真和の塔」「真壁宮」「山雨の塔」を訪ねました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.1

国道331号線の「真栄里交差点」からご覧のような、真栄里集落に入る道があります。同交差点には、写真右側にあるような「真栄里入口」と書かれた石柱がありますし、慰霊塔名が書かれた案内板もありますから、ここから「白梅之塔」方面に向かうのも良いと思います。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.2

真栄里集落の道すがら、ご覧のように、紫色の綺麗なブーゲンビレアが咲き誇っていました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.3

こちらは民家の庭先に植えられていた、お馴染みのハイビスカスですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.4

ご覧のように、一輪がとても大きいですね。花弁の縁がフリルみたいになっています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.5

無事に 「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」や「山形の塔」、そして「白梅之塔 上の壕碑」などが建立されている場所に到着しました。ただ、初めて参拝されると言う方は迷う事なく到着‥‥。と言うのは難しいかもですね。ルートにもよりますが‥‥。(^_^;)

「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.6

糸満市字真栄里にある「我が興亡の史碑 歩兵第三十二聯隊終焉之地」と書かれた石碑です。平成17年(2005年)8月に歩兵第32連隊会により建立されました。碑名には呼名として「霞城聯隊、満州八〇三部隊、山三四七五部隊」と刻まれています。歩兵第32聯隊は島尻に撤退以降も、国吉大地を中心に米軍と激突し、米軍側にも多大な出血を強いた部隊です。

平成17年(2005年)建立ですから、比較的新しい石碑ですね。場所は、「白梅之塔」から歩いて2分程度です。「山形の塔」に隣接するように建立した理由は、碑にも「霞城聯隊」と書かれているように、明治29年秋田に設置された連隊本部が、日露戦争後、秋田から山形城(雅名は霞城)へ転営し、徴募区が山形県になったと言う歴史事実が関係しているものと思われます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.7

裏面の碑文です。問題なく読めますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.8

石碑の横面に書かれている文言です。軍旗を奉焼した場所が書き記されています。「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」と書かれていますね。地図上でその方向と距離を照合してみますと、バクナー中将慰霊碑の少し北側には高地帯になっていて稜線が通っており、その崖下の低地で焼いたという可能性が高いですね。と言いますのも、そのバクナー中将慰霊碑の北側の高地帯は、真栄里集落の北側を貫いており、そこには数多くの構築陣地がありまして、第三十二聯隊や第二十二聯隊による最後の激闘が展開された場所でもあります。私も一度その中の一つの構築陣地に入った事があります。同地は、こうした陣地壕が散在している場所でもあります。

動画ご紹介

「大日本帝国陸軍『歩兵第32連隊』山形・東北地方の誇り!三十二連隊の歩み【歴史解説】」

《書籍ご紹介》

「沖縄戦 24歳の大隊長」 陸軍大尉伊東孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研 平成27年(2015年)初版

この本は歩兵第三十二聯隊第一大隊長である伊東孝一大尉の軌跡を綴った本ですが、この本の中に同隊の軍旗奉焼に関わる記述がありますのでご紹介します。

軍旗奉焼

調査の結果、日本の敗戦は歴然としていた。今となっては一日も早く戦闘を終結させて、一人でも犠牲を少なくすることだ。

全力で戦うことと、見事な負けっぷりとは、いずれ劣らぬ大事である。問題は聯隊長以下全将兵をどう納得させるかだ。

伊東は決して話上手ではなかった。言葉で気持ちを伝える術を持たない。ただそのまま調査の実態を報告するしかない。(あとは自分という人間を信じてもらうだけだ)

伊東はそう心に決め、夜になって樫木副官と佐藤軍医見習士官を従えて聯隊本部へと赴いた。

聯隊長以下十名ほどの全将校が、伊東が来るのを待ちかまえるようにして集まっていた。伊東は調査の結果について順を追って淡々と述べ、最後に「日本の降伏を信ずる」と報告を結んだ。誰からも、質問も反論もなかった。ほっとした一方、気が抜けた感じもあった。しばし沈黙が続いたが、結局、武装解除を受諾することに決まった。

しかし誰からも具体的な方法が出てこない。交渉は伊東に一任された。

翌日、伊東は、日本軍第三十二聯隊は米軍による武装解除を受諾すると回答し、その上で次の事を要求した。

一、武装解除の日は八月二十九日とする
一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること
一、このため四周に米軍から警戒兵を配置し、他の米兵の侵入を禁ずること

米軍側は直ちにこれを承知した。さらに警戒のために飛行機を使用し、米軍将校と通訳をジープと共に国吉集落中央に配置することを申し出た。ただし夜は恐ろしいから引き揚げさせてくれ、とのことだった。最後のくだりが伊東には少し愉快だった。米軍がいかに国吉台周辺の日本軍に痛い目に遭っていたかがわかろうというものだ。

‥‥‥。

武装解除の前夜、歩兵第三十二聯隊の軍旗奉焼が行われることになった。伊東は樫木副官を伴い、聯隊長に指示された場所へと向かった。

明治三十一年の創設以来、歩兵第三十二聯隊の伝統と団結、そして栄光のシンボルだった軍旗は、日露戦争以来の戦歴を物語るように、布地が破れ周囲の金モールの縁取りと紫色の房だけを残していた。

紋章を槌でたたき潰し、棹を鋸で三つに切断し、旗と共に油を注いで焼く。

将校たちは挙手の礼をもって焼かれていく軍旗と決別した。折しも、群雲が月を覆い、小雨が降ってきた。涙雨だったのかもしれない。

「沖縄戦 24歳の大隊長」から転載させて頂きました

「一、二十七日以降二十九日まで陣地周辺約二平方キロの地域は、昼夜を問わず日本軍が自由に行動できるようにすること」

上掲の様に米軍に約束させたと言う事は、陣地周辺は全く昼夜別なく安全に、そして自由に行動できた事を意味しますので、狭い壕内で煙にむせながら、コソコソと軍旗を奉焼する必要は感じられません。歩兵第三十二聯隊は毅然と、聯隊の象徴とも言える軍旗の奉焼に際しては、堂々と胸を張って矛を納める儀式に臨んだはずです。と言う事で「歩兵第三十二連隊終焉之地碑」に書かれている様に、「ここより西北西470mの低地で軍旗を捧焼した」という記述が事実と思われます。

「山形県の塔」

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.47

「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の向かいに「山形県の塔」があります。但し案内石柱には「山形県の塔」と書かれていますが、慰霊塔本体には「山形の塔」と書き記されています。どちらが正解でしょうか?

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.9

「山形の塔」の説明板です。読めますね。ただちょっと気になる記述がありますね。軍旗の奉焼場所についてですが、ここから10m離れた所にある「歩兵第三十二聯隊終焉の地碑」の側面に記載されている碑文には「ここより西北西470mの低地で軍旗を奉焼した」と書かれていますが、この説明板には、「歩兵三十二連隊が軍旗を‥‥この壕内で奉焼した」と書かれています。

聯隊毎に授与される聯隊旗は、連隊旗のある所に連隊本部があり、そして連隊長がいると言う象徴です。更に聯隊旗は、聯隊の力と団結の徴であり、拉孟守兵の士気の源泉でもありました。

部隊が壊滅間際とか玉砕直前とかの聯隊の消滅に伴う軍旗奉と、軍命により止むなく矛を納める象徴としての軍旗奉焼とでは、意味合いは百八十度違ってきてしまいます。従って軍旗奉焼を実行した場所と言うのは、場所により奉焼の意味合いが全く違ってくるのは自明であります。

歩兵第三十二聯隊の軍旗奉焼に関わる説明文は、10メートルしか離れていないにも関わらず真逆とも言える解説が為されています。両塔は設置に40年の差(案内板再記は23年の差)があり、爾後歴史的真実が解明されたと言う事なのかもしれませんが、10mと言う至近距離で、真逆と言える歴史記述が掲示され続けているのは問題なので、解明された正しい歴史事実に統一してほしいですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.10

「歩兵第三十二聯隊の壕」です。「ウフ壕」とも呼びますし、「田原屋取(たばるや-どぅい)の壕」、32連隊の壕等とも呼ぶようです。ウフとは沖縄の言葉で「大きい」を意味します。坑道の長さは凡そ100mあるそうです。「ウフ壕」と呼ばれたように、かなり大きい壕だと感じますね。

歩兵第三十二聯隊は、米軍上陸前は高嶺村大里の大城森の壕を聯隊本部にしていました。その後暫時首里戦線に投入され、首里撤退に伴い6月4日島尻のこの壕へ移動して来ました。また同聯隊以外にも同居した第二十四師団の部隊があるようです。

このウフ壕は真栄里集落の人達の避難壕だったそうで、集落の人達が自然壕を掘り進めて拡張したものだそうです。出入り口は二カ所あるそうですが、一カ所は埋没しているとの事です。ご覧のように、現在は立ち入り禁止となっていますので、残念ながら壕内を見る事は出来ません。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.11

途中右に曲がっているのが見えます。沖縄戦当時コンクリート階段部は結構な急勾配となっている状況からして、出入りは大変だったかもですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.12

階段を曲がり、階段部の奥を撮影しています。階段が終わっているようですが、その先がよく見えません。横坑道は地表面から4メートル以上ありそうですから、艦砲砲撃にもびくともせず耐えたのでしょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.13

砂利道を少し歩くと右側に「山形の塔」見えてきました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.14

「山形の塔」です。昭和40年(1965年)2月6日建立され、合祀者数40,834柱(沖縄戦戦没者 765柱、南方諸地域戦没者 25,612柱、その他地域戦没者 14,457柱)の英霊が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

塔の背後には碑文がありましたので、テキストに起こしてみました。ご覧くださいませ。

【山形の塔建立記】

大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのびみ霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建立したのである

昭和四十年二月六日 
建設期成同盟会長 加藤富之助 

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「眞山(みやま)之塔」が見えてきました。「山形の塔」と隣接して建立されていました。

「眞山(みやま)之塔」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.16

「眞山(みやま)之塔」です。昭和42年(1967年)5月に建立され、100柱が合祀されています。この慰霊塔は特定の部隊等は無く、第二十四師団隷下の各部隊と表現されていますね。そうした隷下部隊将兵凡そ100名がこの付近の壕に布陣し戦死されたようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.17

碑文ですが読みにくいので文字を起こしました。(^o^)

【眞山(みやま)之塔 碑文】

怒濤の南進を続ける米軍に対し第二十四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮闘敵の心胆を寒からしめたるもついに昭和二十年六月十七日この付近の壕内において玉砕せる

ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め長くその偉烈を伝う

昭和四十二年五月 財団法人沖縄遺族連合会 

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.18

「眞山(みやま)之塔」の左側から、草木が刈られていて、更に奥に行けそうな道が見えますよね。その道の突き当たり、「眞山(みやま)之塔」から40mぐらいの所に「白梅之塔 上の壕」があります。曇り空などでは、ちょっと怖い雰囲気ですが向かってみて下さいませ。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.19

見えてきましたよ。(^o^)

「白梅之塔 上の壕」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.20

「白梅之塔 上の壕碑」です。昭和63年(1988年)6月、白梅同窓会により建立されました。沖縄戦当時この壕は「上の壕」と呼ばれ、自然壕を利用していたようです。同壕は、沖縄守備軍の食糧弾薬倉庫であると共に、白梅学徒看護隊員の仮眠所として利用されていたようです。背後にある縦穴があり、碑文には「6月22日米軍の攻撃を受け、軍人、白梅隊員および一般住民が死傷した」と書かれています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、白梅之塔の施設を利用させてもらいます (^^;)」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.21

「白梅之塔 上の壕碑」から見た壕の状況です。ご覧のように、上から見た限りでは縦穴ではなく、天井のない横穴と言った方が正しい状況です。当初は縦穴だったのでしょうが、米軍による激しい攻撃で、北側の壁が破壊されてしまい、このような姿になったのかも知れませんね。軍需物資は壁面に沿って可能な限り擬装されて保管されたのでしょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.22

縦穴壕の周りを歩いてみましょう。反時計回りで廻ってみます。しばらく進むと坑道らしき黒い影が見えてきましたね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.23

それは影で黒く見えただけでした。現実は小さな横穴という感じですね。ここから見た限り横穴は見える範囲で終わっている印象です。写真撮影したこの位置は、慰霊碑が真向かいにあると言う位置関係ですね。岩盤は石灰岩で構成されてはいますが、縦穴に直撃弾もしくは迫撃弾を受けたら‥。死傷は必至と言う印象を受けました。この壕は軍の集積所兼白梅学徒看護隊員の仮眠所とされていたようなので、ご覧のような横穴の一番奥まった場所などで眠ったのでしょうかね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.24

ご覧のように、窪地の深さが写真右に行くほど浅くなっているのが解りますね。写真右端は窪地がほとんど終わっています。写真左端に注目です。穴が見えますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.25

その穴を拡大してみました。壕口のような雰囲気はありますね。壕口まで行って確認したいのですが、普通の運動靴では一寸危険なので確認は出来ませんね。ご了承下さい。慰霊碑のある場所からこの場所まで、凡そ40m近く歩いたでしょうかね。それでは戻ります。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.26

次は「白梅之塔」を訪ねます。「山形の塔」から坂道を100mほど下ると、ご覧のモクマオウが生い茂る「白梅之塔」霊地前に到着します。勿論同塔には、大きな専用駐車場とトイレも完備されていますので、ご安心下さいませ。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「山形の塔」から坂道を100m程下ると、ご覧のような「白梅之塔」前に到達します。また逆ルートである、県道54号線から入ってくる場合は、県道54号線から200メートルも行かないうちに、右側に「白梅之塔」が現れます。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.28

お~~。40m程ある参道がコンクリート舗装されたり、手摺が設けられたりと、参道が刷新されましたね~。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.29

「白梅之塔」全景です。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事です。実に不思議なのですが、此処に立つと学徒さん達の清楚なイメージが沸いてきますね。

「白梅之塔」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.30

「白梅之塔」です。現在は四代目で、平成4年(1992年)6月に建立されました。同塔には、沖縄戦に従軍学徒として動員された生徒のうち、戦死した22名の白梅隊員をはじめ、教職員12柱、同窓生113柱、計149柱が合祀されています。沖縄県立第二高等女学校は、現在の那覇市松山公園の辺りにあった女学校です。「白梅之塔」は何時来ても管理清掃が行き届いているなと感じます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場、トイレあります」

《書籍ご紹介》

「沖縄・白梅の悲話」 新聞記者が語りつぐ戦争=11

読売新聞大阪本社社会部編 読売新聞社 昭和55年(1980年)11月初版

「平和への道しるべ」 白梅学徒看護隊の記録

白梅同窓会編・発 平成7年(1993年)初版

「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録

白梅同窓会編・著 (株)クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版

「白梅の碑-野戦病院編」

新里 堅進著 (株)クリエイティブ21 平成14年(2002年)6月初版

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.31

「白梅之塔」碑文です。チラチラして読みにくいので、テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。

【白梅之塔 碑文】

沖縄県立第二高等女学校の四年生56人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。

米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。

戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。さその場所は殆ど不明である。

また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。

塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生149柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立した。毎年6月23日の「慰霊の日」に祭礼が行われる。

平成10年6月23日
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 

この霊地は激戦が展開された国吉にかなり近いのですが、糸満市真栄里ウテル原になるんですね。「白梅之塔」はそんな木立に囲まれ静寂な雰囲気の中にがありました。参道の両側には常緑高木であるモクマオウ(木麻黄)が植え込まれ、実に清楚で霊域らしい雰囲気を醸し出していますよね。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持して頂きたいです。それから、いつ来ても感ずる事なのですが、清掃が行き届いています。「白梅之塔」に慰霊巡拝した際に、偶然清掃員の方が居て清掃作業をされていた男性に、立ち話的に色々と聞いてみましたら、やはりキチンと定期清掃を行っているという話でした。

因みに国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。沖縄守備軍が最後の防衛線として設定した八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里ラインに重なる事もあり、小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉丘陵が与座に連なる防衛陣地の要衝であった事が解ります。国吉丘陵での戦闘は攻める米軍は第一海兵師団で守る沖縄守備軍は第二十四師団隷下部隊です。

沖縄戦を戦った米軍の公式記録に近いと言える、米国陸軍省編の「沖縄 日米最後の戦闘」にも国吉丘陵での戦闘について触れていて、「(490ページ)国吉丘陵での戦闘の光景は、まるで気が狂ったようなものだった。兵はうろたえ、多数の犠牲者を出し、肉弾相撃つ白兵戦がこの沖縄南部の地点に展開されたのである」と、書いている程なのです。

林に囲まれた静かなたたずまいのこの地は、観光化された「ひめゆりの塔」とは違い、実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますね。 白梅同窓会の方々が定期的に清掃しているとの事ですから、いつの時も清潔な雰囲気が維持されているのかも知れません。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持していただきたいですね。

この「白梅之塔」は、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日富盛の本部壕での解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。

解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃による流れ弾に当たり戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.

納骨堂です。多くのご遺骨が国立戦没者墓苑に移された為か、小さくてスマートな納骨堂となっていますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.32

昭和22年(1947年)1月に建立された初代の「白梅の塔」です。塔名は彫った文字穴に白い色で描かれていましたが、年々薄くなってきています。ご覧のような琉球石灰岩製の簡素で小さな塔なのですが、終戦から一年半後に建立されたと言う事ですね。米軍による激しい砲爆撃で、割れないお皿は無いと言われる程、あらゆる物が粉々に破壊されました。戦いが終わった沖縄は、山野には兵士や避難民の屍と、瓦礫の山だけが残されたのでした。終戦後の数年間は生活物資は何もなく、生きていくのが精一杯の時代だったのです。この小さな塔は、小さくとも大きな意義を内包していました。「戦没された学友達の供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの精一杯のご尽力と連帯により建立されたのです。そして同時に同窓生等の予てよりの悲願であった、第一回目の慰霊祭が執り行われたのでした。

この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に二代目の立派な慰霊塔が完成した時に併せて移設されたものです。そして現在の姿の「白梅之塔」が建立されて現在に至っています。ちなみに現在の塔は四代目です。現地に行かれましたらぜひ、時代を映す鏡として、この初代「白梅の塔」も探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.33

初代の「白梅の塔」の背面に彫られている詩です。
散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
元教諭 金城宏吉 昭和二十二年一月建立

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.34

ご覧のように、道路から慰霊塔までの参道がコンクリート舗装され、また拡幅されて見違えるように刷新されました。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.35

参道が拡幅され、また参道両サイドの土の部分との段差もほぼ無くなりました。参道の奥まった部分について言える事ですが、昔は段差が20cm近くあったので、誤って踏み外すと捻挫するなどのリスクがありました。と言う事で、この度の改修工事により、お年寄りがご自身の足や車椅子で参拝されても、不慮の事故が発生するリスク要因は全て排除されたと感じます。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.36

コンクリート舗装面の右側を見ています。同じく嘗てはこちら側も段差が大きくて、足を踏み外した場合捻挫する恐れがありました。今回はその段差も解消されて、安心安全な参道になりました。勿論車椅子での参拝も参道は広いですし、真っ平らな路面なので安心して行き来できます。(^o^)

参道がコンクリート舗装され、且つ拡幅されたりと、安全性向上に向けて改善工事が為された事由が解りました。「若梅会」と言うボランティアグループが令和2年(2019年)に誕生し、同会がクラウドファンディングで募金を募り工事を実施したのですね。素晴らしいです。(^o^)

《サイトご紹介》

沖縄戦体験者世代である同窓生やご遺族の高齢化に伴い、沖縄県にある慰霊塔、各塔での慰霊祭挙行も難しい状況にあると、頻繁に伝え聞くようになって参りましたね。ここ「白梅の塔」の毎年の慰霊祭開催も遂行が難しくなりつつあるようです。そうしたなかで、白梅同窓会を支え、「白梅学徒隊の沖縄戦を語り継ぎ、白梅之塔の慰霊祭を継承する」と言う二つの目標を掲げた「若梅会」というボランティアグループが、令和2年(2019年)春に誕生したようです。琉球新報記事を引用させて頂きます。

白梅学徒の体験継ぐ「若梅会」発足 慰霊祭運営に初参加

【琉球新報】令和元年(2019年)6月23日

〇教員や大学生など20代から50代の9人で結成した「若梅会」。沖縄戦に動員された県立第二高等女学校の元女子学徒らでつくる白梅同窓会(中山きく会長)、白梅之塔慰霊祭協力会とともに「白梅継承の会」として本年度から慰霊祭の運営や戦争体験の継承活動に携わる。高齢化が進む同窓会会員の思いを受け継ぎ、「次世代に継承したい」と強い思いを持つ。

若梅会は白梅同窓会の中山会長の呼び掛けをきっかけにことし2月ごろ発足。代表を務める雑誌モモト編集長のいのうえちずさんは(50)は「きくさんの熱量を受け取った気持ち」と気合が入る。

絵本作家の磯崎主佳さん(47)は中山さんの体験を主題とした絵本「白梅学徒隊 きくさんの沖縄戦」の絵を手掛けたことがきっかけで関わり始めた。

「若梅会」のメンバーに遺族や戦争体験者はいない。いのうえさんは「体験者に寄り添うことと同時に、体験者じゃないからこそ沖縄戦を一歩引いて見ることができる。考えて伝えることができる」と話す。

若い世代へ白梅学徒隊の体験や思いを“伝える”こと、遺族や同窓会の方々の気持ちに“寄り添うこと”を2つの柱として活動する。23日の慰霊祭を出発点として戦跡ツアーや同窓会の方々との街歩きなどさまざまなワークショップも展開していく予定だ。
(上里あやめ)

「琉球新報」から転載させて頂きました

戦後三十五年目の卒業式

沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒同期生の間で、「卒業証書を頂けないだろうか」という話が、戦後三十年を経て持ち上がったそうです。そうした経緯もあり、金城宏吉先生の指導を仰ぎながら、6月23日に亡くなった学友たちの墓前白梅之塔で行うという方針が定まりまして、沖縄の「ウスーコー(法事)」は、三十三回忌をもって終わりますので、白梅隊ご遺族の心情にも配慮しつつ、昭和52年の三十三回忌明けの二年後となる昭和54年(1979年)に、戦後三十五年目の節目に、白梅学徒同期生の卒業式が執り行われたそうです。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という本の中に、その三十五年目の卒業式の様子が書き記されていますので、引用させて頂きます。(^o^)

《書籍ご紹介》

「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録

白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版

【戦後三十五年目の卒業式】 東恩納 道子(旧姓・東恩納)

(ここまで省略)
1979年6月23日、戦後三十五年目の私たちの卒業式が行われました。開式の言葉は、西平一男先生、司会の仲田史子さん《現・東(昭和17年入学)》の声が、塔の庭に優しく、そして静かに、緑の梢の蝉時雨の中に消えていきました。

日出ずる国 みんなみの み空も海も か青なる

懐かしい校歌。しっかり歌っているつもりなのですが、なぜか声になりません。金城先生の張り詰めたお声…。

「卒業証書 安仁屋 俊子 右ハ本校所定ノ学科ヲ…」

卒業証書

稲福全栄校長先生(戦没)が、あの激戦の中を大事に持ち歩かれた校印で、朱色も鮮やかに押印され、「安仁屋俊子」、「上原春江」と戦没した白梅隊員の名前が読み上げられ、御遺族の方が正面に進まれる。いくらか腰の曲がったお父様。そして、白いおぐしのお母様。証書の娘の名をジーッと…。赤いバラをお着けになった胸を震わされ、一筋の涙を1945(昭和20)年3月23日、貴女たち自身で手にした筈の卒業証書の上に。

例年にならい「仰げば尊し我が師の恩」の歌で、広い講堂を在校生に送られ、昭和二十年三月六日、地久節といわれた皇后誕生日が、私たち二十年卒の卒業式でしたが、前年の十・十空襲で、那覇市は九十パーセントが全焼し、私たちのモダンなコの字型の校舎も全焼。空襲後、校長先生方でやっと決めた二十年三月二十三日でした。その前日二十二日の夜中十二時まで、東風平の山部隊との交渉をされた金城宏吉先生の願いも空しく、二十三日から米軍の艦砲射撃が始まりました。今にして思えば、卒業式などできる筈がありませんでした。

時は過ぎました。そう、三十五年も…。

塔に眠る貴女たちと一緒にやる筈だった卒業式。遠く東京から肥後秀子さん(現・肥後)、四国の松江富貴子さん(現・戸梶)と鈴木ヤス子さん(現・久保)、鹿児島から須賀米子さん(現・大川)、福島シズエさん(現・平井)、悦田淑子さん(現・川路)たちが、宮古の大嶺信子さん(現・砂川)、八重山からは大山喜代さん(現・大山)、備瀬秀子さん(現・新垣)渡嘉敷スエさん(現・宮良)たちが出席し、涙、涙で証書を頂いて…。

式はゆっくりと時を刻み、万感の想いを込めて『仰げば尊し』

「白梅」から転載させて頂きました

「わが国の守りは私たちの手で」と健気な決意も新たに、みずから進んで看護隊に志願し、非業の死を遂げられた白梅隊員と共に挙行された念願の卒業式…。

同期生の念願であった卒業式の挙行を待っていたかのように、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などが見つかったそうです。これら校章などの遺品は、摩文仁に近い大渡の壕から発見され、これらは同校同窓会会長大嶺勝子さんに届けられましたが、なんと三十五年目の卒業式の前日だったそうです。

校章をその他の遺品を発見したのは、石原正一郎さんという方で、金光教の遺骨収集にも参加されており、私も随分とお話をする機会がありました。

ちなみに石原正一郎さんは、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した野戦重砲第一連隊の中隊長だった方で、戦後は沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方なのです。

石原さんによる沖縄県立第二高等女学校の校章や遺品を発見し、同校同窓会長にお届けした経緯などが「沖縄・白梅の悲話」(読売新聞大阪社会部編)に記載されていますので転載させて頂きます。

本文では、発見された校章に関する説明や、石原さんの人となりや遺骨収集に掛けるその思い、そして戦没された女子看護隊の純粋さ、至高さに寄せる慈愛に満ちた哀悼の念などが記載されていますので、ご覧下さいませ。

《書籍ご紹介》

「沖縄・白梅の悲話」

読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版

【沖縄白梅の悲話】

(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。

この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。

白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。

帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。

渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。

石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。

与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。

「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」

石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。

私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」

河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。

―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。石原さんは、両手を合わせていた。

沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。

県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。

「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。

戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。
まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。これまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」

石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野に、壕の中に入ってゆく。

「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三回忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字をあげろ、なんて役人は言いますけどね。厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野には決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。いま、南部ではあちこち採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱もあったりするんです。かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある万華の塔にはね、だれだれ三円、だれだれ五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を立てることだったんですね。あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」

石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。

「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました

追記:
「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」の第十章 白梅の香り永久には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんという方が書いていますが、この方は昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。

高岡敏郎さんは、金光教の遺骨収集にも石原さんと共によく参加されました。結果として私も懇意にしていただき、インターネットの無い時代でしたから、メールなどの便利な手段はなくて、専ら手紙による“文通”を通じて高岡敏郎さんと交流を深めました。文通というのは現代では死語になっているのかな。?

「萬魂之塔」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.37

霊域の参道左手にある「萬魂之塔」です。昭和30年(1955年)5月に建立されました。四千柱が祀られています。戦後付近一帯に散乱していた戦没者のご遺骨凡そ四千柱は、当初は付近の壕に納められいましたが、昭和30年(1955年)5月に同塔が完成し、ご遺骨が移されて現在に至っています。因みに、四千柱のご遺骨の多くは、この国吉・真栄里一帯で最期を遂げた第二十四師団隷下の第22連隊、第32連隊、そして第89連隊の将兵だそうです。そして注目すべきは、設置者は国吉自治会です。と言う事で、集落の人々が建立した軍人の為の慰霊塔と言う、数少ない事例の一つと言えるでしょう。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.38

霊域の参道左手にある「陸軍大尉 中村巌之碑」です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.39

良く見ると、小さな石碑も複数建立されていますね。第三十二軍陸軍将兵の名前が刻まれていました。ご遺族の方々が建立されたのでしょう。御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

「白梅学徒看護隊自決之壕」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.40

「白梅学徒看護隊自決之壕碑」です。この石碑の右側に、その自決之壕壕口があります。因みに、同碑の背面をご覧下さい。昔と比べて格段に明るくなっていますね~。正直に話しますと、昔はこ場所は暗くて、且つ凄く陰気な場所でした。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.41

「白梅学徒看護隊自決之壕」を地元の方々は「マチドーヌティラ」と呼ぶようです。ガマの由来や沖縄戦当時の白梅学徒隊の軌跡が書かれていますのでテキストに起こしてみました。

【マチドーヌティラ】

字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦9月にはクングヮチムヌメーとう伝統行事が国吉自治会によって行われています。

また、この壕は沖縄戦において第24師団第1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は1945年6月4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うこととなりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食料や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡しました。

戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅之塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.42

ガ~~ン! ガ~~ン! 立ち入り禁止になっていますね~。予期せぬ事態です。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.43

柵から手を伸ばして壕口を撮影しました。ここから先に行けないなんてショックです。せめて階段下の部分まで行かせてよ~。皆様も壕口の天井部分の岩盤の様子を見て下さい。一枚岩の頑丈な石灰岩ですよね~。階段下までなら、絶対落盤は無いと断言できるのですから~。階段下まで降りられるようにして下さい。参拝者に、そこから見える壕内の様子を見てもらい、往時の沖縄戦に思いを馳せて頂く‥‥。これこそが意義のある民間の平和学習だと思いますよ。(^_^;)

因みに、この壕は、沖縄戦当時「下の壕」と呼ばれていました。地元では古くから「マチドーヌティラ」と呼びます。ティラとは神が鎮座する洞穴の事を指すと言われ、集落の人々が聖地として大切にしていた壕ですね。

令和3年(2021年)に、自決之壕内部の様子を写真撮影したのでご紹介します。

    

《過去の写真ご紹介》

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.23

【令和3年(2021年)撮影】
間もなく階段も終わりですね。前方は突き当たりとなっています。壕としての坑道は突き当たりから右側に深く伸びています。因みに大昔から「マチドーヌティラ」と呼ばれ、聖地として大切にされてきた場所は、階段が終わり、最奥部にある拝所までが同洞窟であったかも知れません。

突き当たり部右側から始まる横坑道は、沖縄戦当時に構築されたものかも知れません。この壕の10m程右側には、先ほど写真撮影した縦穴がありますから、それぞれ単独の壕を地下部で連結した可能性も考えられます。と言うのも、ここは巨大な一枚岩の岩盤の下を掘り進めて坑道を構築しているのが見て取れます。巨大な一枚岩の岩盤の下は、岩石と土が混じった地層なので、人力で容易に掘り進めるのが可能であるからです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.24

コンクリート製の階段を降りきって、通常は右側の坑道に進みますが、この写真は突き当たりの左側を撮影したものです。土砂は戦後堆積したのかもしれませんが、それなりに広い空間がありますね。もしかしたらこの辺りにも負傷兵が大勢居られたのかもしれません。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.25

壕の天井部分を撮影しています。少し解りにくいですが、鍾乳石の氷柱が折られているという点を知って頂きたく撮影しました。少しでも坑道の高さを確保するため、そして安全を確保する為に折られたのだと思います。また壕内は米軍の火炎放射攻撃などで壁面が真っ黒になっている場合も多いですが、この壕もまたよく見ると攻撃された後と見られる黒い煤が付着しているのが見て取れます。

6月21日に「下の壕」、翌22日には「上の壕」が米軍の激しい攻撃を受け、学徒16人のうち10人が死亡したとされています。米軍の馬乗り攻撃では、現在階段になっている壕口からドラム缶に入ったガソリンを落とし込まれたと言われています。二十年三十年前は、煤で壕内はかなり黒かったですが、年々黒色が薄くなっていく印象があります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.26

ここで亡くなられたご遺族の方でしょうか。いつ来てもここにご覧のような、一つの鎮魂の場として色んな人形が置かれています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.27

最奥部の拝所です。ここは「マチドーヌティラ」としての拝所のような印象です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.28

コンクリート製の階段を降りきってから、右側を見ています。平和学習の為でしょう、しっかりと坑道が歩きやすいように整備されています。歩く部分には砂利も敷かれているのが見えますね。今はこうして歩道のように歩きやすくなっていますが、昔は岩だらけで行き来するのが大変でした。その困難さは次の写真で紹介致します。

写真に写されている横坑道は沖縄戦に備えて掘られた可能性が大きいと思います。天井面の岩盤層の下は、ご覧のように岩とか土砂ですから、掘り進めるのは比較的容易だったと思えます。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子69

【平成26年(2014年)2月11日撮影】
坑道の奥まった部分が黒く三角形をした穴のようになっていますが、そこが上掲写真の「頭上注意」の看板があるところです。この頃の坑道はとても歩きにくい状況だったのがよく解る写真です。この壕は繰り返し繰り返し遺骨収集が為されていましたから、地形が変わったと感じる事がよくありました。因みに国吉勇さんも、この壕で熱心に遺骨収集をされていました。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.29

坑道は高さがありません。特に高さが無い場所は、ご覧のように「頭上注意」の看板も設置されています。この壕の見学はヘルメットは必須ですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.30

壕の最奥部空間が見えて来ました。この辺りも頭上注意です。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.31

一番奥まった空間に到達しました。結構な広さがある空間ですね。沖縄戦当時は、ちこの辺りに負傷兵が並んで居られたと思われます。ここは高さが十分にありますので、頭上を気にする事なく安心して立てる場所です。足下もしっかりと砂利が敷かれて安定しています。昔はこの辺りは遺骨収集で何度も何度も掘り返されていて、岩と共に土が多くて歩きにくく滑りやすかった場所です。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子70

【平成26年(2014年)2月11日撮影】
上掲写真とは撮影方向が少し違いますが、一番奥まった所を撮影しています。ご覧のように写真では、カメラ目線で見ても天井部がかなり低いのが解りますよね。昔の最奥部で立って歩ける場所は、現在の状況よりも狭かったです。平和学習実施の為に土砂を搬出したと思われます。

ご覧のように繰り返される遺骨収集の為に、地盤が大きく掘り返されているのがお解りになると思います。遺骨収集で地盤が掘り返された時期が古いのか新しいのかは、目で見ると意外と解るものです。言葉では説明しにくいですけどね。この写真の時も、最近掘り起こされたのがハッキリと認識出来ました。

この広場は、現在は砂利も敷かれ比較的平らな面となっていますが、撮影した時はごく緩い傾斜面といって良いほどで、平らな面は全くありませんでした。そうした所を病院壕として利用した訳ですから、軍医や衛生兵そして学徒看護隊、また運び込まれた患者さんのご苦労が忍ばれます。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.32

地際付近にご覧のように、煤で黒くなった場所がありました。炊事をした場所かも知れません。ただ良く見ると、近年ここに土を寄せたという雰囲気がありますので、断定は出来ませんけどね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.33

右側天井部に開口部があります。「南禅廣寺」の右側にあった穴の部分ですよね。天井面の岩肌に注目です。開口部に近づく程に、岩肌に煤が付着しているのが見えます。開口部から爆雷やガソリンを流し込まれ煤で黒くなったものと思われます。下掲写真でアップしてみました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.34

(拡大したので画面が荒くなっています) 戦後七十余年を経て、煤で黒くなった色合いは年々薄くなっていますが、それでもご覧のようなタールが付着したような色合いとなっているのが解ります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.35

「南禅廣寺」の右側にあった穴の部分を下から撮影しています。岩盤の崩落を防ぐ目的で数多くの鉄パイプとジャッキが設置されているのが見えますね。岩盤の色で判定できますが、天井面は無数の鍾乳石氷柱が形成されている事から、一枚岩に近い堅固な鍾乳石灰岩で出来ています。一方地面部分に展開する飴色の土石類は極めて崩れやすいのが一目瞭然となっています。

崩れる恐れのある部分、無い部分の分別は、それ程難しくありません。現在沖縄では沖縄戦に関わる構築壕を中心に落盤の恐れがあるという理由で、立ち入り禁止となる壕が増えていますよね。それは修学旅行での平和学習の場が失われるという事態であり、平和学習関係者は苦慮していると聞いています。この「白梅学徒看護隊自決之壕」(マチドーヌティラ)は、目の前の落盤危険地のみをきっちり管理できれば、その他の壕内部については、落盤の危険度ゼロと言って良い程安全な場所です。この壕内の往復の時間や移動距離は、平和学習に最適な条件で運用出来ますから、この壕での平和学習は長く続けてほしいですね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.36

それでは帰りましょう。天井面の氷柱にヘルメットをぶつけないように注意して進みます。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.37

地面は、ご覧のように砂利が敷かれ、とても歩きやすくなっています。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.38

壕口が見えて来ました。壕に深く入ると、いつも思うのですが、普段は日常生活の中で光をありがたいとは思いませんが、暗い壕から再度こうして光を浴びると、光のありがたさ偉大さが身にしみますね。因みに現在の平成4年(1992年)6月に建立された四代目である「白梅之塔」の形状は、「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事ですよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.40

拝所付近の天井にある鍾乳石氷柱も見事ですね。あちこち見渡してみても、現在は氷柱の先に水滴は全くありませんね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.39

写真を良く見て下さい。三カ所鍾乳石の氷柱が折られていますね。沖縄戦当時危険だからと折られたと思われます。

過去写真掲載はここまでです。

「南禅廣寺」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.44

「南禅廣寺」の社殿です。屋根は本葺瓦と言う、伝統的な女瓦と男瓦を用いた沖縄赤瓦で葺かれています。一方壁面は目立つピンク色となっていおり、凄く目立ちますよね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.45

上掲の自然洞穴「マチドーヌティラ」についての解説文にも書かれていましたが、「南禅廣寺」広場で、旧歴9月9日(10月23日)に国吉集落の旧暦行事「寺ムヌメー(物参り)」が行われているとの事です。「寺ムヌメー」は、集落の発展や区民の健康を祈願する旧暦行事で、神事やカチャーシーを踊ったりと多彩な行事が含まれ、学校や会社が休みとなる日曜日に合わせて行われているようです。確かにそうした視点で見ますと、「南禅廣寺」前広場は円形劇場にようになっていて、20mぐらいの広場の周りは、一段高くなっていて草地であり若干の勾配もある事から広場を舞台とした観客席のように見えます。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.46

「南禅廣寺」の内部の様子です。最奥部に祭壇らしき物がありますね。ご神体などが安置されているのかも知れませんね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.47

「南禅廣寺」の右側に来ました。縦穴の壕口がある場所です。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.48

ここは昔からずっと縦穴がありました。今年は開口部がそのままになっていますね。完全に塞がれた事もあるのですが‥‥。修学旅行生等の平和学習に利用する壕という観点で、何年も試行錯誤されているのが良く解りました。結局壕口も閉鎖されたと言う事で、遂にこの壕口も放置が確定したようです。 ここ「白梅学徒看護隊自決之壕」では、近年になってから修学旅行生への平和学習が恒常的に行われるようになりました。しかしながら、この縦穴がある場所が、壕内部への落盤の危険性が最も高かった場所です。その崩落の危険度は、すでに崩落の可能性が高いとして閉鎖された「マヤーアブ」よりも、格段に崩落の可能性が高かったと言えるでしょう。

《過去の写真ご紹介》

令和年(2020年)1月11日/沖縄遺骨収集の様子no.20

【令和02年(2020年)1月11日撮影】
「南禅廣寺」の右側に来ています。ここは昔からずっと縦穴がありました。今は完全に塞がれた印象です。壕内部はしっかりと落盤防止措置が講じられたのでしょう。

ここ「白梅学徒看護隊自決之壕」では、近年から修学旅行生への平和学習が恒常的に行われるようになりました。この縦穴があった場所付近が一番壕内部への落盤の危険性が高かった事から、安全第一で落盤を防止する工事が為されたのだと思われます。

過去の写真掲載はここまでです。

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.49

【平成31年(2019年)1月24日撮影】
先ほどの壕内で立ち入り禁止の場所がありましたが、上から見るとここですね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.50

開口部の真上から撮影しました。建設足場に使うジャッキが設置され、岩底を支えていますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.51

なるたけ奥を撮影しています。これが限界ですね。ジャッキアップしているのが見えます。そうするのもやむを得ないほど岩の厚みが薄いですね。爆雷を投げ込まれたような場所は、岩盤がかなり緩くなっている可能性があるので、下に堆積している土砂の多くが戦後崩落したものかもしれません。

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.49

「南禅廣寺」前広場の観客席は、ご覧のように、円形劇場のような形状をしているのが解ります。この広場では、上掲写真でもご紹介しましたが、旧歴9月9日(10月23日)に国吉集落の旧暦行事「寺ムヌメー(物参り)」が行われているとの事です。「寺ムヌメー」は、集落の発展や区民の健康を祈願する旧暦行事との事で、神事やカチャーシーを踊ったりと多彩な行事が含まれるようです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.50

向かって左側を撮影しています。同じように観客席が階段状になっています。

《サイトご紹介》

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.51

帰りは「南禅廣寺」の参道を通って車道に出ました。境内入り口には、ご覧のような「南禅廣寺」と彫られた石柱が立っています。やはりピンク色の外観は目立ちますね~。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.52

霊地付近の畑にはキャベツが植えられていました。長閑な田園風景という感じで、心が癒やされますね。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.53

個々のキャベツは元気に育っていますね。ただ土壌を見て下さい。ひび割れていますよね。粘土質なので乾くと割れると言う事のようです。土壌はジャーガルと呼ばれ、古代に大陸から堆積した島尻層群の泥灰岩からなり、粘土質の非常に細かい粒子で出来ているため透水性が低く、雨が降るとグチャグチャの泥になるので、農作業も大変なようです。沖縄農業のご苦労が忍ばれる一コマでした。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.54

「萬華之塔」など諸慰霊塔が並ぶ真壁の霊域を撮影しています。看板に書かれている「山3474部隊」とは通称号で、正式な部隊名は歩兵第二十二聯隊です。私は以前にこの看板を頼りに、前方で同塔をくまなく探しましたが、結果的に見つける事が出来ませんでした。6月15日まで歩兵第二十二聯隊の本部は、真壁タヂリガマの壕を使用していたとの事で、そのタヂリガマのある方向を指し示している可能性がありますが、壕は埋められてしまったのかも知れませんし。

近年になってこの霊域内に「山3474部隊慰霊之碑」が移設されているのに気づきました。と言う事で、この案内看板は私と同じように、前方に慰霊碑があるのではと探して歩く方が出てしまう恐れがあります。早急に撤去して頂きたいですね。

「萬華之塔」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.55

「萬華之塔」です。この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA糸満市集出荷場真壁支所」という倉庫のような大きな建物があります。「萬華之塔」がある一帯は沖縄戦最後の激戦地となった地域ですが、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付を募り納骨堂を建てたものだそうです。また霊域には部隊単位での、或いは個人での慰霊塔・慰霊碑も数多く配置されています。その慰霊碑の多さを垣間見ただけでも、ここ南部島尻で果てた戦没者の無念が偲ばれます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.56

最奥部にある「萬華之塔」です。昭和26年(1951年)8月に真壁集落の住民が、集落内に散在していたご遺骨19,207柱を収集し、多くの方々の寄付金と三週間にわたる勤労奉仕とで納骨堂を建立し合祀したものです。現在の慰霊塔は二代目で平成15年(2003年)に立て替えられた塔です。よく見ると新しい建物の雰囲気が少し残っていますよね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.57

「萬華之塔」は地元集落の方々の寄付により建立されたものですが、その「寄付者名簿」と言える看板です。「萬華之塔」は昭和26年(1951年)に建立されました。昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、ずっと慰霊塔を守り続けて下さったのです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.58

5円、10円とか20円の寄付が多いですね。100円もお一人おられます。これらの円は、米国占領時代「B円」(ビーえん)としての円だと思います。昭和26年の10円は現在の貨幣に換算するとどれくらいの価値があるんでしょうかね。戦後の焼け野原状態での寄付に金額では計れない温情を感じます。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.59

寄付金額と寄付者の一覧が横に長いので、二枚に分けて撮影しています。一部重複していますがご了承下さいませ。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.60

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.61

芳名録のような記述部分も二枚に分けて掲載させて頂きました。同じく一部重複しています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.62

反対側から「寄付者名簿」を撮影しました。

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

「B円」 は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票です。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった…。」 と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれています。

B円 について、ここでもう少し詳細にウィキペディアから引用させて頂きましょう。

【B円】

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。

正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。

正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、末期のものは日本で印刷されたものもある。硬貨はなく、全て紙幣だった。

沖縄県、奄美諸島とB円
アメリカが占領した直後は、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。その他の地域では旧日本円や、久米島紙幣などの地域通貨が若干流通していた。

1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美諸島においては、これらの通貨が混合して流通していた。

しかし、アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。

当初は 日本円1 円 = 1 B円が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1B円(1ドル=120B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美諸島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。

B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。

これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。

当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1B円=1.8 日本円程度だったという。

1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。

「Wikipedia」から転載させて頂きました

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.

初代の「萬華之塔」です。塔名が彫られている石柱は十字架ではないのが解ります。この初代の「萬華之塔」は、真壁集落の人々による寄付金集めと三週間にわたる勤労奉仕とで、納骨堂を建立し手厚く亡骸を納めたものです。
※写真は那覇市歴史博物館ホームページから転載させて頂きました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.72

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:戦跡・慰霊
アルバム名:琉球政府関係写真資料 070
撮影地:
撮影日:1966年 8月
写真解説:
【原文】
【和訳】 森清総理府総務長官、上村千一郎総務副長官 山野幸吉特連局長ら11人来沖 糸満 真壁 萬華之塔

サイト管理人コメント:
この写真は昭和41年(1966年)8月に撮影されたものですが、塔名が彫られた石柱が十字架に変えられています。駐留米兵が塔を破壊して頭蓋骨を持ち去る事件が後を絶たず、その対策として十字架を設置すれば持ち去らないのでは‥‥。と期待しての措置だったようです。因みに駐留米兵は、本島南部一帯に散在する風葬墓の頭蓋骨も持ち去ったと言われています。

最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掛けられていませんでしたが、ある時から十字架に変えられました。初代の「萬華之塔」に、何故十字架が設置されたのか?

その理由は驚くことに、米兵が頭骨に電気を入れて照明器具代わりにしたり、本国へ帰国する際の "おみやげ" にする為、納骨堂から頭蓋骨などを持ち去ってしまう事件が多発したからなのです。持ち去りが後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架が架けてあれば、米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。

そんな盗難防止の願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。同じ盗難防止という意味で、「ひめゆりの塔」にも、最初に建立された納骨堂に十字架がかけられていたのです。ちなみに大東亜戦争の最中の話ですが、米軍兵士は戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨を、さかんに本国の家族や知人に郵送して贈ったそうです。

日本軍将兵の頭蓋骨は、要するに戦勝を祝うために、小綺麗な箱に詰められたプレゼントとして扱われたという訳ですよ。プレゼント以外にも、頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。「交戦国軍・民戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えますよ。

「…日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかった」 という新聞記事がありますのでご覧下さいませ。

【米の大学倉庫に日本人戦没者?の遺骨30年以上も放置か】

「産経新聞」平成21年8月24日

【ニューヨーク=松尾理也】全米有数の名門大として知られるカリフォルニア大バークリー校の人類学博物館の倉庫に、第二次世界大戦の激戦地、サイパン島で自決した日本人などと記述された複数の人骨が収蔵されたままになっていることが明らかになった。

地元紙サンフランシスコ・クロニクルによると、頭骨を含む3体の人骨と、いくつかの頭骨のない人骨が木箱に収納されていたという。
木箱には、採取地として「サイパン」と明記され、「米軍の進攻の際に自決を遂げた日本人」などの説明が付されてあった。

大学側によると、これらの人骨はすでに故人となっている海軍医が1974年に寄付した。それ以前は、同医師が個人的に保管していたとみられる。

戦争犠牲者の遺骨が博物館の倉庫に収蔵されたまま、いわば、たなざらしになっていたとすれば、敬意や厳粛さを欠く取り扱いといえる。
バークリー校近くを選挙区とするナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)の事務所は、クロニクル紙に「経緯に重大な関心を持っている」と述べた。

また、カリフォルニア州のグロリア・ロメロ州上院議員の事務所は「いわばクローゼットに骸骨があったようなもの。人間の尊厳を冒すものだ」と、日本への謝罪と遺骨の返還を求める方針を明らかにした。

クロニクル紙は、第2次大戦中に、日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかったと指摘。戦争犠牲者の保護を定めたジュネーブ条約違反の可能性もあると問題提起した。(太字:サイト管理人が加えました)

これに対し、大学側は「人骨の身元が日本人と判明したわけではない。兵士か民間人か、どんな状況で死亡したのかという情報もない」とした上で、ジュネーブ条約は戦時捕虜に適用される国際法であり、身元不明のままでは条約違反とはいえないと反論している。
しかし問題を真剣に受け止め、米政府当局などと連絡を取っているという。

在米日本大使館も「厚生労働省をはじめ日本の関係省庁と連絡を取り、情報収集を行っている」と関心を寄せている。

(※サイト管理者の判断で太字部分を強調させて頂きました)

「産経新聞」から転載させて頂きました

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.5

昭和26年に建立された初代「萬華之塔」です。「萬華之塔」に十字架が設置された経緯は、米軍兵士による頭骨持ち去りが後を絶たず、十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。村民のそんな願いを込めて十字架が設置されたのでした。

手を合わせているのは、南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された石原正一郎さんです。石原正一郎さんは、沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、野戦重砲兵第一連隊(球第4401部隊)の中隊長だった方なのです。

石原正一郎さんはそうした経緯もあり、戦後沖縄に通い続け、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意を込めて共に遺骨収集にあたりました。また同時に金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。石原正一郎さんは、沖縄での遺骨収集と慰霊祭参列の為に、私の推計でおそらくこれまでに70回以上沖縄に来られたと思います。

毎年6月22日に「萬華之塔」で戦没者慰霊祭が執り行われますが、石原正一郎さんは毎年その慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていたと語っていました。

過去の写真掲載はここまでです。

「砲兵山吹之塔」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.63

「砲兵山吹之塔」です。昭和41年(1966年)6月22日建立されました。野戦重砲兵第一連隊(球4401部隊)、同部隊に配属された鉄血勤皇隊員10柱を含む、山根忠隊長以下739柱が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.64

碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は、宮内省の許可を得て、揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)の筆によるそうです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.65

野戦重砲兵第一連隊(球4401部隊)戦没者が記載された墓誌碑です。同部隊の戦没者名を各県毎に掲載しています。写真では解りにくいと思いますが、墓誌碑の冒頭右上最初の位置に、沖縄県出身戦没将兵とは別枠で、同部隊に配属された学徒である、鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒の戦没者10柱の氏名が記載されています。因みに野戦重砲兵第一連隊には、一中鉄血勤皇隊員が沖縄戦開戦当初から82名が配属され、弾雨の中を伝令や負傷兵護送などの任務に当たっていました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.66

「野戦重砲兵第一聯隊顕彰碑」です。「砲兵山吹之塔」と同日、昭和41年(1966年)6月22日建立されました。同聯隊の軌跡が一面ビッシリと書き記されているのが解ります。碑文は極度に劣化しており、極めて読みにくい状況でしたが、無事に全文テキストに起こせました。お読み下さいませ。(^o^)

【野戦重砲兵第一聯隊顕彰碑 碑文】

我等野戦重砲兵第一聯隊は遠く明治二十三年創設せられたる要塞砲兵第一聯隊を始祖に後東京湾要塞砲兵聯隊と改称せられ日露戦役には野戦重砲兵聯隊を編成し鴨綠江旅順奉天の諸会戦に参加赫々たる武勲を奏す これ実に国軍における野戦重砲兵の濫觴であり明治四十年に至り改編された銃砲兵第一聯隊こそ我が聯隊の母体であって大正七年発祥之地千葉懸市川国府台に転営し始めて野戦銃砲兵第一聯隊と呼称す

昭和十四年三月ソ満国境ノモンハン事件勃発するや勇躍征途につき優勢なるソ聯機械化兵団に対し勇戦奮斗よく国軍砲兵の威力を発揮し全軍の期待に応えたるも全軍八月聯隊本部及第一大隊は守勢地区にありて敵戦車群への大攻勢に遭遇激戦を展開し我が将兵の壮烈鬼神も哭く奮戦は敵に甚大なる損害を與えその攻撃破摧に寄與せる戦果多大なりしも遂に衆寡敵せず火砲と運命を供にす 爾後聯隊は関東軍隷下の満州第八一六部隊と呼称し満州国黒河省神武屯に駐屯しソ満国境警備の任につく

昭和十六年十二月太平洋戦争開戦劈頭第十四軍隷下の比島派遣軍第六五二三部隊と呼称しマニラバターン半島コレヒドール要塞攻略戦に参加疾風電撃よく機械化砲兵の威力を発揮し殊勲を奏す 爾後再び神武屯に瓵環し北辺の護りにつきたり

斯くして昭和十九年六月二十日我が聯隊は沖縄第三十二軍に転出仝年七月十二日沖縄到着第五砲兵団長和田孝助中将(元聯隊長)隷下の球四四〇一部隊と呼称し聯隊本部及第二大隊を沖縄本島に第一大隊を宮古島に配備し沖縄攻防戦に参加す 昭和二十年四月米軍沖縄本島に上陸を開始するや熾烈なる敵の艦砲射撃と間断なき砲爆撃下全軍の骨幹となり勇武を誇る聯隊の名誉と光輝ある伝統を遺憾なく発揮し奮戦敢斗せるも遂に衆寡敵せず仝年六月二十二日聯隊長山根忠大佐以下七三九柱の将兵は祖国日本の永遠の平和と繁栄を祈念しつつ我国悠久の大義に殉じこの地南冥の島に火砲と運命を供にし玉砕せり

この秋我等戦友遺族相志し今は亡き戦友の御霊を弔い遺勲を永久に顕彰すべく野戦重砲兵第一聯隊終焉の地に慰霊碑を建立しかつて亡き戦友と我等共々高らかに唱い親しんだ砲兵歌の一節より砲兵山吹之塔と名づく

ここに謹んで砲兵歌の一節を捧ぐ
襟には映ゆる 山吹色の
軍の骨幹 誇りも高き
我等は砲兵 御国の誇り

昭和四十一年六月二十二日 
野戦重砲兵第一聯隊 山吹会・有志一同 

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.67

「萬華之塔」の左側に「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」と書かれた碑がありました。碑も小さいですが、文字も極めて小さいので写真では全く読めませんから、テキストに起こしてみました。平成4年5月15日 沖縄復帰二十年記念として建立されたもので、「野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 文責建立石原正一郎氏」と記載されていますので、石原正一郎氏が起案した文章である事が解ります。

野戦重砲兵第一聯隊会及び石原正一郎氏が、「萬華之塔」「砲兵山吹之塔」の建立に尽力された経緯と共に、真壁住民の御厚情に対する感謝の念を強く表出しています。また戦没された方々への慰霊と顕彰に心を尽くす姿が浮かび上がってくる文面です。そして金光教那覇教会の林先生も現地慰霊祭に深く関わっているのが見てとれます。少し長いですがお読み下さいませ。

【萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記】

この浄財寄附者の碑は、昭和二十年六月二十三日沖縄戦終焉直後米軍占領下にあって、ここ當時糸満町三和村真壁部落の村民が、山野や田畑に累々と野曝しのままであった尊い軍官民戦没者の御遺骨を収集奉仕され、焼土と化した住むに家なき生活にありながら、占領下の通貨B円の五円、十円の尊い浄財を募り、納骨堂を建立し手厚く御屍を納め、萬華之塔と命名された建立基金協賛者の碑であり、納骨遺骨は約壱萬余柱に及ぶと聞く。このたび台風により破損した碑を真壁区長新垣正順氏の許可を受け、(合)本部砕石嘉手刈林春企画部長の御厚意と、例年山野の遺骨収集に協力奉仕を続ける沖縄在住米軍退役軍人ウイリアムJブレブル夫妻(妻邦子沖縄県民)のご協力により補修完成した。

砲兵山吹之塔建立も昭和四十一年四月遺品の火砲を米軍司令部より返還受領訪沖時、この地真壁の故金城増太郎先生、糸満市田島重男町会議員はじめ、村民一同の好意ある会議決定により無償で許可された。砲兵山吹之塔建立二十年を経た昭和六十一年十二月塔の補修工事中、左側珊瑚礁附近より発見された御遺骨もブレブル夫妻、キャップテンメンザ夫妻、篤志家栃木県高岡敏郎氏、金光教沖縄遺骨御用奉仕団等の協力を得て、二カ年にわたる遺骨収集奉仕により、数多くの遺品(球第四四〇一認識票外)と十三柱を収骨し、「諸霊安らかに」の建碑を奉献した。ここに由来を刻し縁りの遺族戦友はじめ本土同胞として、沖縄県民特に真壁村民の御厚情を永久に銘記し、深く感謝の誠を捧げる次第であります。

因に萬華之塔内遺骨は、昭和四十一年六月二十二日挙行された砲兵山吹之塔建立除幕式慰霊祭の祭主として来沖された、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下(明治天皇皇孫、昭和天皇第一皇女故照宮成子内親王殿下の背の宮、今上天皇御義兄)の御意思により、占領下の昭和四十二年六月二十二日縁りの本土、沖縄生残りの戦友と米軍上陸前部隊駐屯地東風平村出身故神谷正雄氏御一家の御協力奉仕により、萬華之塔内の御遺骨を全て搬出し、那覇市日蓮宗妙光寺故新垣宣岳上人読経裡に一昼夜に及ぶ荼毘作業を営む。(偶々新垣上人御長男宣恒命は球第四四〇一部隊第六中隊衛生兵として真壁に戦死、萬華之塔に納骨され御尊父の回向供養を受く、奇しき法縁であった)

荼毘を終えた分骨二基を砲兵山吹之塔に供え慰霊祭を営み、分骨は岩水、石原両中隊長の胸に抱かれて本土に奉還され、靖國神社の特別の御配慮により境内奉納沖縄戦遺品の火砲と対面を許された。(靖國神社境内に戦没者が迎えられたのは御創建以来前例はない)この年七月十五日うら盆回に故東久邇盛厚王元宮総裁祭主となられ、本土遺族戦友により長野県善光寺忠霊殿、山梨県日蓮宗総本山身延山久遠寺に盛大に納骨法要を挙行、更に昭和四十五年六月二十二日沖縄、本土遺族戦友、真壁村民により砲兵山吹之塔、萬華之塔慰霊祭を営み、分骨を訪沖遺族戦友奉持して、和歌山県高野山沖縄戦戦没者供養塔に納骨、豪雨の中遺族戦友により盛大に納骨回向慰霊祭を挙行した。

昭和五十四年二月摩文仁ヶ丘国立戦没者墓苑完成、橋本龍太郎厚生大臣祭主の沖縄戦全戦没者追悼式典挙行時には、萬華之塔分骨を国立墓苑納骨堂に納骨した。例年の慰霊祭は、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下の御意思により決定された六月二十二日を玉砕日と定め、真壁区民建立の萬華之塔と砲兵山吹之塔協賛行事として縁りの遺族戦友、真壁区長以下全区民参列、金光教那覇教会長林雅信師を祭主として二十七年間欠かすことなく挙行し、沖縄戦友は例年清明祭を営み今日に至る。

因に球四四〇一部隊沖縄県出身兵戦没者は七十八柱、配属鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒十二柱が散華された。この砲兵山吹之塔は本土神奈川県真鶴産の原石を本土で加工し、沖縄に輸送したものである。碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は宮内省の許可を得て、御製と砲兵山吹之塔の御揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)米寿の筆になる。

碑裏面と顕彰碑の文字は石原正一郎記し顕彰碑文も起案す。砲兵山吹之塔祭主東久邇盛厚王元宮殿下は、昭和十四年対ソ連ノモンハン事件参戦時の第一中隊長殿下であり、昭和四十四年二月一日薨挙去、一乗院日静上人も昭和四十六年十二月二十七日行年九十三才の御長寿にて遷化された。

諸霊よ安らかに

平成四年五月十五日 沖縄復帰二十年記念 野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 合掌 文責建立

(サイト管理者注:常用漢字にない漢字は常用漢字に変換しました。その他は原文ママ)

「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」碑文を起草された石原正一郎氏とは、ご自宅を訪問するなど交流させて頂きましたが、本文に出てくる「篤志家栃木県高岡敏郎氏」とも金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で出会い、爾来石原正一郎氏同様長いお付き合いをさせて頂きました。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という書籍の第十章 白梅の香り永久に には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんが書かれています。高岡敏郎さんは昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。

私と石原正一郎氏と高岡敏郎氏との連絡手段は、携帯電話やインターネットの無い時代でしたから、通信手段はもっぱら手紙です。電話という便利な通信手段があるにも関わらず手紙でした。殆ど常に手紙でやり取りしました。文通といってもよい程です。昔の方は電話よりも手紙の方が、圧倒的に自分の気持ちを表すのに良い手段だと感じていたのだと思いますね。電話は邪道だと。(笑)

私の親世代でもある石原正一郎氏、高岡敏郎氏が書き記す文面は、実際に電話での会話では言い表すことのできない程の深みのある、実に含蓄ある言葉がちりばめられ、体験したからこその説得力ある文脈で全編綴られていました。

ただ一つ私が難儀したのは、送られてくる便箋の枚数が毎回半端ない数だったことです。十枚以上というのが時折ありました。皆様考えてもみてください。例えば便箋10枚の手紙をもらった場合、返す便箋枚数が1枚というのは失礼に当たると考えてしまいますよね。(^_^;

そこで文章量をかさ上げしなければなりません。10枚もらった場合は、最低でも3枚は書かねばなりません。そこで七転八倒の苦難を味わうのです。(笑)

今となっては懐かしい思い出ですが、石原正一郎氏、高岡敏郎氏が沖縄に向ける熱情は、人の心を揺り動かさずにはいない程の強さがありました。同時に私が金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けた事も強く影響し、子供が親の背中を見て育つように、この私もまた沖縄へと沖縄へと心が向かったのでした。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子36

「砲兵山吹之塔」です。野戦重砲兵第一連隊(球第4401部隊)、山根部隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。野戦重砲兵第一連隊の中隊長だった石原正一郎さんが同塔前で手を合わせているところです。学生と共に遺骨収集している際に訪れたと語っていました。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.12

「砲兵山吹之塔」前に立つ石原正一郎さんです。昭和63年に撮影された、この写真は上掲の十字架の架かる萬華之塔の写真と共に、石原正一郎氏から頂いたものです。

沖縄戦も終局に近づいた昭和20年(1945年)6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死しましたが、石原正一郎さんは日本側の当時の野戦重砲兵第一連隊の中隊長として指揮をとっていました。そうした経緯で「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」建立に尽力されました。そして石原さんは毎年6月22日に催されるこの地での慰霊祭には毎年必ず参列されるそうです。

沖縄遺骨収集奉仕活動で多大な貢献をされた石原正一郎さんは、金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。また私も東京の千駄ヶ谷にあるご自宅にお訪ねしたり、携帯電話やメールなども無い時代でしたから、手紙で頻繁にやりとりするなど親しく交流させて頂きました。

過去の写真掲載はここまでです。

南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事群の中からから見つけましたので、ここに転載させて頂きます。

【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】

「琉球新報」平成14年6月18日

【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。 使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。

体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。

「琉球新報」から転載させて頂きました

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.80

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:B0400
アルバム名:米海兵隊写真資料53
撮影地:
撮影日:1945年 6月
写真解説:
【原文】 LAST PHOTOGRAPH OF GEN BUCKNER: This is the last pix taken of LtGen Simon Bolivar Buckner, extreme right, commanding general, 10th Army, who was killed on Okinawa June 18 when hit by an enemy shell. The general is shown at a forward observation post of the USMC 6thDiv during an attack. A few minutes later, he was killed.
【和訳】バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。

第10陸軍司令官バックナー中将戦死について、詳細に記述されている本を二冊ご紹介します。

《書籍ご紹介》

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下)

ジョージ・ファイファー著/小城正訳 早川書房 平成7年(1995年)初版

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下) では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(332-334頁)
しかし、その地区に散在していた日本軍の砲兵部隊は、まだ散発的にに激しい射撃を行っていた。活動的で頑健なバックナー司令官は、戦闘の第一線にきわめて近い地点への訪問を延期するようにという要請に耳を傾けなかった。彼はあらたに戦場に投入された連隊の連隊長やその他の高級将校を伴って、島の南西端の断崖や岩の多い海岸がよく見える前進観測所へやってきた。…自信に満ち、非常な努力家で、戦いに勝利を得つつあった彼は、第10軍司令官という地位がはまり役であると思われたが、数週間後には、アメリカ陸軍の指導的な地位にあるごく少数の将軍の一人として本国へ帰還し、日本本土に対する進攻においてもっと大きな作戦を指揮する準備をすることになると思われていた。

真栄里…には、アメリカ軍の射弾観測用の眼鏡にほかにもうひとつ、日本軍からの捕獲品の砲隊鏡が設置されていた。それらの眼鏡は、約1ヤードはなれた大きな2つの丸石の間に設置してあった。それは、さらに南寄りの高地にいた、日本軍の野戦重砲兵第1聯隊の最後の砲に対して掩護するためのものであった。

その野戦重砲中隊は、最後の高地へ後退する際に典型的といえるような大きな損害をこうむっていた。…アメリカ軍の連日の集中射撃によって砲手は脅威を受け、軍の誇りであった砲は破壊され、中には1発も射撃しないうちに破壊されたものもあった。今は、中隊の火砲12門のうち1門だけが残っていた…。

ちょうど午後1時を過ぎた頃、かろうじて生き残っていたこの隊の1人が北方の高地に目を向けて、双眼鏡の焦点を合わせてみると、驚くべきことに、明らかに高い地位にあると思われる敵の将校数名が立っているのが見えた。この将校たちは眼鏡で、今いる位置とは反対側、つまり東側の海岸にある牛島将軍の司令部の方向を見ているようだった。バックナー中将は、見晴らしの良い観測所に1時間ほどいて立ち去ろうとしているところだった。…射撃指揮に熟達した日本軍の指揮官が、最後まで残った砲に、重要な将校の一群という魅力的な目標に対して射撃を命じた。戦砲中隊の残りの者は、急いで洞窟の中に入った。「われわれが1発撃つと、向こうから、1千発の『お返し』を受けることがよくわかっていた」からである。

その砲からは5発発射された。…砲弾の1発が、防護用の大きな丸石にひとつにあたり、飛び散った石の破片が砲弾の破片とともにバックナーの胸部と腹部に食い込んだ。(※)出血がひどかったので、彼を救護所に後送することはできなかった。一行に随行していた衛生兵が必死になって止血に努めたが、バックナーは10分後に落命した。

※ 大方の記事には、珊瑚礁の破片となっているが、砲隊鏡の位置に配置されていた砲兵隊員は、岩石の破片が最大の打撃となったといっている。

作戦の終わる時期が近くなったからといって、決して戦死するおそれがなくなるわけではないことを最初から知っていた歩兵部隊の将兵にとって、この事件はそうした考えが正しかったことを証明する物であった。新たに戦場に投入された海兵第八師団のある人物は、「私にいわせれば、全軍の司令官ともあろう人物が、あんな前線に出てくるべきではなかったんだ」といった。(※)

※ アメリカ軍の間に、沖縄の民間人に対して残虐な行為を犯した者が生じたのは、この事件に対して復讐したいという気持ちがあったからかもしれない。六月十八、十九、二十日の三日間に計六十名を殺害した事件は、十八日におけるバックナーの戦死直後に起きており、そのすべてが同じ地区で発生している。その中の数件は、観測所のあった稜線のすぐ下の真栄里で起きたのである。

「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「日米最後の戦闘」

米国陸軍省編/外間正四郎訳 サイマル出版会 昭和43年(1968年)初版

「日米最後の戦闘」は、翻訳に難があるという指摘もありますが、基本的に米国陸軍省の公式見解であるとも言えるでしょう。同著では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(255-256頁)
米軍にくらべれば、日本軍の損害率は、しだいに高くなっていったとはいえ、米軍のほうもまた、狙撃兵を求めて南部で掃討戦にはいったり、あるいは真栄平、真壁の部落での戦闘で、かなり多数の戦死傷者をだしていた。日本軍の組織がくずれさったことで、米軍は攻撃の手をゆるめたわけではなく、これまでと同じようにはげしい攻撃を展開、日本軍のほうでは、首里戦線のときよりも、多くの損害を出していた。首里陥落後の日本軍の前線が、崩落するまでに蒙った第十軍の損害は、千五百五十五人の戦死、六千六百二人の負傷であった。

この戦死者のなかに、バックナー中将がいた。中將は、6月18日の昼過ぎ、ちょうど、島の南西端近くにある、第二海兵師団第八海兵連隊の前戦観測所に立ち寄ったところだった。この師団は、4月1日と19日に陽動作戦を行っただけで、どの部隊もまだ実際には上陸せず、6月に入ってから、最後の戦闘に参加するための第八連隊が、はじめて上陸したのである。バックナー中將は、この海兵隊の進撃状況を、視察しているところだった。そこへ午後1時15分、日本軍の一発の砲弾が観測所真上で炸裂。こなごなに吹き飛ばされた岩石の一つが、バックナー中將の胸にあたった。中將はその場にくずれるようにして倒れ、10分後には絶命したのである。バックナー中将にかわって、沖縄作戦の上級司令官ロイ・S・ガイガー海兵隊少将が、第十軍の指揮をとった。そして六月二十三日には、ジョセフ・W・スチルウェル将軍にかわった。

バックナー中将が戦死した翌日、第九六師団の副師団長クロウデュス・M・イーズリー准将も戦死した。イーズリー准将は、前線の勇士として、全軍将兵から尊敬されていた。ちょうど、日本軍機関銃陣地のある地点を指揮していたところを、飛んできた二発の機関銃弾に、前頭部を撃たれて即死したのだ。この両将軍のいのちも、沖縄戦勝利のかげに眠る、第十軍七千以上の、尊い犠牲のなかに加えられた。

「日米最後の戦闘」から転載させて頂きました

動画ご紹介

「20150622 萬華之塔・砲兵山吹之塔慰霊祭」

「馬魂碑」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.68

「馬魂碑」です。碑名と共に「愛馬よ安らかに眠れ」と書き記されていました。沖縄戦では沢山の軍馬が動員され、その頭数は二千頭を超えるとも言われています。そうした悲しくも戦場に果てた軍馬の慰霊碑なのですね。因みに、沖縄戦では本土から沢山の軍馬が搬送されましたが、一方で沖縄の在来馬もその多くが軍馬として動員されたそうです。ちなみに真壁にはもう一カ所「馬魂碑」がありますね。

戦野に果てた軍馬のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬と
攻めて進んだ山や河 とった手綱に血が通う」

愛馬行進曲の一番の歌詞をご紹介しました。曲は六番までありますが割愛させて頂きます。因みにこの軍歌の作詞者は誰だと思いますか。?

意外や意外、私も知らなかったので偉そうに書けませんが、大東亜戦争中に只一カ所だけ攻める米軍側の死傷者が多かった戦場。そうです硫黄島での硫黄島守備隊(小笠原兵団)を指揮した栗林忠道陸軍中将です。硫黄島の戦いは沖縄戦の二ヶ月ほど前の2月19日から陸上戦闘が始まりました。因みに栗林中将は軍歌「暁に祈る」も作詞されています。硫黄島の戦いと言えば、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を思い出しますが、見られた方も多いのではないでしょうか。この映画は日本軍側の視点で描かれていますが、米軍側の視点を描いた「父親たちの星条旗」という映画もありましたね。

沖縄第三十二軍司令部には、参謀部や副官部のいわゆる幕僚部のほかに、経理部や法務部など色々ある中に獣医部というのがあり、軍馬はその獣医部が管理していました。沖縄戦が開戦するまでは、獣医部は那覇市内第一高女の運動場の隅に馬繋場や水飲み場、厩舎等が設けられていたようです。沖縄戦に動員された軍馬の総数は二千頭は超えていたと言われます。大変な数ですが、弾薬、糧秣、陣地構築資材などは、その殆どが輓馬隊が行っていましたから、第三十二軍総数が十一万人余りである事を勘案すると、もしかしたら少ないと言える頭数なのかもしれません。軍隊では食料を「糧秣」と言いますが、「糧」は兵士用の食料を指し、「秣」は「まぐさ」つまり馬の飼料を指すようです。愛馬行進曲の歌詞を読むと納得できますが、正にこの時代の軍隊とは軍馬一体なのですね。

「牛飲馬食」という四時熟語があります。牛は水を大飲みし、馬は大食いだという意味だそうですから、二千頭を超える馬の飼料を確保するのも大変だったと推測されますし、馬は繊細な動物で戦場など悪環境では神経質になり病気に掛かりやすかったと言います。こうした軍馬を管理する部隊は、世話に追いまくられ筆舌に尽くしがたい苦労をされたようです。沖縄戦では軍民併せて二十余万人が亡くなられましたが、ここにご紹介したように二千頭を超える軍馬もまた、開戦二ヶ月ほどでほとんどが戦死したと言われています。こうした事を肝に銘じ改めて軍馬に対しても慰霊の念を深めていきたいですね。

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.69

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」です。部隊名をご覧下さい。山3480部隊(野砲兵第42聯隊)と通称号が先で正式な部隊名は後回しとなっています。防諜上の理由から通称号が用いられている訳ですが、沖縄戦ではほとんど通称号が使われたみたいで、こちらが一般的な呼称となっていたようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.70

山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑碑文です。テキストに起こしてみました。

【山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑 碑文】

山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。

翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。

やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。

また、輓馬部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃れる数を増し、戦火の消えたときついに一頭の姿もみることはなかった。

沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。

これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。

昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.71

山3480部隊戦没者氏名が書き記されている墓誌碑です。

「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.72

「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」です。台座部に「沖縄連隊区司令官陸軍少将井口駿三閣下 祭霊外88柱」と記されていました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)鎮魂碑」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.73

「独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)鎮魂碑」です。鎮魂碑は平成5年(1993年)5月に建立され、134柱が合祀されています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)鎮魂碑 碑文

昭和十九年 六月中旬マリアナ戦線の変化に伴い、突如陸軍重砲兵学校に八九式十五糧加農砲一個大隊の動員が下令された。教導連隊は大隊長河村秀人中佐以下 三百五十有余名を第三中隊第四中隊を主幹として、富士分教所の教官及び職員を加え横須賀重砲兵連隊に転属した。当隊は独立重砲兵第百大隊として同年 七月二十一日沖縄那覇港に上陸第三十二軍に編入、主力は第五砲兵司令官和田孝助中将の隷下に入り、北中飛行場制圧の任に就き、一部は国頭支隊に配属された。

翌二十年四月一日米軍は古今未曾有の艦砲射撃及び爆撃に援護され上陸を開始した。棚原陣地の当隊は沈着冷静に対処し両飛行場制圧に偉大な戦果を収めた。総攻撃に際しては機動的集中射撃を実施し砲兵の本領を如何なく発揮したが、間断なき砲爆撃により死傷者続出、火砲車両の損壊も甚だしく司令部命令により、喜屋武陣地に後退真壁付近に集結し、戦闘続行敵の進出阻止に当たった。

六月二十日の最後の軍命令により桟を失せず果敢な斬り込みを決行、全員悠久の大儀に生き靖国の華と散った。本決戦に於ける当隊の戦没者は河村大隊長以下七百三十四名であるが、当隊に配属された防衛隊員学徒隊員はじめ看炊事等に献身的に尽くし、当隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることは出来ない。祖国に今日の平和と繁栄をもたらすため、礎石となられたこれ等の方々の御霊の安らかならんことを祈願し、当隊終焉のこの地に碑を建立する。

平成五年五月 
全国重砲会 重砲校友好会 
独立重砲兵第百大隊遺族会 

「山三四七四部隊(元満洲第八八部隊)慰霊之碑」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.74

「山三四七四部隊(元満洲第八八部隊)慰霊之碑」です。満州から派遣された第二十四師団の主力部隊で、吉田勝中佐率いる歩兵第二十二連隊です。北海道出身者が多かったようです。

霊域の入り口に表示してあった部隊名ですよね。字真壁のタヂリガマに慰霊碑が建立されましたが、そこは個人所有地だったのですね。地盤損傷と永代供養などを考慮し、この地に慰霊碑が移設されたと言う事のようです。碑文はギリギリ読めますが、下に掲示しましたのでご覧下さいませ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

山三四七四部隊(元満洲第八八部隊)慰霊之碑 碑誌

山三四七四部隊の慰霊碑は、1981年(昭和56.11.5)に字真壁の個人所有地タヂリガマに建立し22年間慰霊祭を開催。ところが地盤損傷と永代供養も考慮し、地元字真壁区長金城一男様外役員の格別のご高配を賜り、2003年(平成15.11.3)に萬華之塔敷地内に移設しました。

慰霊碑を守る会 奥田武志・新垣純子・小林良男・小西正二 

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.75

萬華之塔霊地内には、ご覧のように、個人の慰霊碑も沢山建立されています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.76

長く地面に立っていましたが、遂に倒れてしまいました‥‥。鉄厚が薄いので砲弾ではないと思いますが、遂に倒壊してしまいました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.77

「萬華之塔」の右側には、ご覧のような舗装された歩道があります。この歩道を60メートル程進むと「アンディラガマ/真壁千人洞」と呼ばれる、大きく口を開けた壕があるので中に入ってみましょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.78

壕口が見えてきましたね。鬱蒼とした雰囲気ですが、この道は昔と比べると明るくなりました。左側が農地として開墾され大きな樹木が切られたからだと思われます。ですから、昔と比べて先に進むのが怖い‥‥ような雰囲気は和らいでいますよ~。(^^;)

近年はご覧のように樹林の外側が見通せますから安心して歩けますすね。昔は全く周囲の風景は見えなかったんですよ。とは言っても、曇りの日や雨の日は、相変わらず暗くて怖い雰囲気になりますので、見学する場合は曇りや雨の日は避けたほうが無難です。(^^;)

ちなみにこのアンディラガマから南南東方向に150メートルぐらい行った場所に、第二十四師団野戦病院分院だった「アンガーガマ」があり、私も松永さん、吉井さんと共に、一度最奥部まで調査したことがあります。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.79

壕口が大きくなってきました。

「アンディラガマ(真壁千人洞)」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.80

「アンディラガマ(真壁千人洞)」です。大きな開口部ですよね。沖縄戦当時は壕口の擬装もままならなかったと思われます。ご覧のように、天井面は一枚岩と言う雰囲気です。これから壕内部に入りますが、内部もまた賢固な琉球石灰岩で構成されており、相対的に落盤の不安のない安心して入れる壕となっています。壕内には立ち入り禁止の看板が掲示されていますが、少なくともその地点までは合法的に入れますので、見学に訪れた方々も立ち入り禁止の場所まで入って、ぜひ火炎放射攻撃で真っ黒になった壁面を、沖縄戦の残像としてご覧になってみて下さいませ。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.81

それでは中に入ってみましょう。最初は下って行きますよ。壕内での注意点としては、この壕内には絶滅危惧種のコウモリが生息しているとの事ですから、コウモリの巣であるコロニーに強い照明を当てるなどは避けなければなりません。ただこれまで壕の奥深く入っていないせいでしょうか、一度もコウモリを見た事はありません。因みにアンディラガマ(真壁千人洞)の全長は250メートルぐらいあるそうです。最奥部には水源もあるとの事です。いつの日か、最奥部まで行ってみたいですよね~。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.82

結構急坂となっていますが、地盤は常に乾いているので滑ると言うような事もありません。ゆっくり降りれば大丈夫です。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.83

壕内の地面を見ています。この辺りは土が多い印象です。その土の中には、ご覧のように戦争遺品、特に瀬戸物やガラス瓶の破片が目立ちますね。この壕は大勢の人が入るのでしょうか、地面は踏みつけられて固くなっています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.84

ここもそうですね。細かい破片が沢山埋もれているのが解ります。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.85

何となく道なりに降りて行くと、この場所を進む事になるはずです。この先は行き止まりになっています。壁面天井面が真っ黒になっているのが解りますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.86

壕口を見返すと、こんな感じです。壕口は大きいので偽装は困難であったと思われます。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.87

この辺りの地面にも、ご覧のように、瀬戸物の破片や遺品が散見されますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.88

壕内中央部には、ご覧のように、小山があり上れるようになっているのが解ります。こちら側に奥に行く坑道がありますので、この小山を登ってみましょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.89

ご覧のように、急坂であり滑りやすいので注意しなければなりません。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.90

こちら側の壁面も煤で真っ黒です。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.91

同じく壁面を写しています。本来なら壁面の全てが真っ黒であるはずですが、ご覧のように、真っ黒い部分とあまり黒くない部分とがあるのが見えますよね。戦後七十余年の歳月の中で、鍾乳石の表面部のうち水が流れた部分は、煤が水で流され、黒い色が薄まっていった‥‥。と言う理由で、黒色が濃い部分と薄い部分とがあるのだと思います。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.92

写真中央部から、より狭い坑道になっているのが解ります。その坑道入り口といえる部分に、コンクリートブロックと共に破損していますが、立ち入り禁止の看板がありますね~。令和2年(2020年)から立ち入り禁止となりました。坑道は落盤の可能性ゼロと言えるぐらい安全なのですが‥‥。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.93

ここから立ち入り禁止になっていますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.94

立ち入り禁止の位置から坑道を撮影しました。奥の様子がよく解りません。もう少し前に行きたいですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.95

立ち入り禁止の位置に片足置いて、片足を大きく前に出して撮影しました。片足のみ前に出したのだから、これなら合法のはず。(笑) ご覧のように、写真中央部、やや左寄りに坑道が奥へと続いているのが解りますね。この位置よりも、もう少し奥へ入った事がありますので、過去の写真でご紹介致します。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.110

【令和元年(2019年)1月撮影】
鍾乳石の間を潜るようなイメージで不思議と空間が続いています。左側に坑道が伸びていますね。行ってみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.111

立って歩くことは出来ませんが、屈んで歩ける程度の高さはありますね。もう少し前進してみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.112

少し狭くなってきましたが、まだ前進できます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.113

狭い坑道になってから20mぐらい前進しました。もっと奥まで行きたいという思いは募るのですが、ここで引き返しましょう。このガマはご覧のようにガチガチの鍾乳石から成る石灰岩の空洞です。大昔この空洞に水が流れていたと言う事になります。この空洞は見ての通り落盤の危険性も無く、また最奥部に水源があるとの事ですから酸欠の恐れもありません。という事で、まだ先に行きたい思いは強いですが、万が一事故を起こしたら社会に大変な迷惑を掛けてしまいます。

またこのアンディラガマ(真壁千人洞)には絶滅危惧種のコウモリが生息しているようなのですが、少なくとも私が前進した位置20mぐらいまでの範囲では、飛翔や威嚇がなかったので巣は無さそうです。いずれにしても、この壕の全長は250mぐらいあると言われています。見て解る通り、壕内は恐ろしい程の火炎放射攻撃を浴びて真っ黒けです。この黒さ加減は、「独立高射砲27大隊本部壕」と双璧を為すものです。更に奥はどの様になっているのか‥。慰霊行脚という意味で、いつの日か状況が許せば、松永さんにガイドして頂きながら、南部戦跡遺骨収集会の全メンバーで見学したいと念じています。

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.96

ここからは、壕口に戻るまでに撮影した写真です。天井に近い部分の方が、黒い色が残っているのが解りますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.97

この辺りは地盤が平らなので、大勢の人が居られた事でしょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.98

この辺りも地盤が比較的平らですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.99

この辺りも壁面が真っ黒です。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.100

間もなく壕口です。明るい光を見るとホッとしますね。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.101

「萬華之塔」横の畑の様子です。見事な春キャベツですね~。この畑では昨年もキャベツが育てられていました。この辺りの土壌は、関東地方などとはまるで違う土壌の様相です。太古からの珊瑚礁などから出来た琉球石灰岩の風化や、堆積した島尻層群の泥灰岩からできた土壌なので、本土に比べミネラル分たっぷりの土壌になります。土壌の種類として、「ジャーガル」と呼ばれ、ご覧のように灰色から灰褐色をしているのが特徴です。南部戦跡一帯は、この色の土壌が多いですね。この土壌は、雨が降るとグチャグチャの粘着性の泥になるので大変です。またアルカリ性が強く、酸性を好む果樹(パイナップル等)には不向きとされているようです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.102

結球も始まっている雰囲気ですね。二月中には出荷と言う事になるのでしょう。沖縄は早いですね。(^o^)

次は「真和の塔」を慰霊巡拝しましょう。
「萬華之塔」前の道路を東に100メートル程行くと、小高い樹林帯となっている丘がありまして現在真壁公園となっています。その丘の頂上には昔日の古城である「真壁グスク」があったそうです。

真壁グスクの発掘調査を実施した市教育委員会によると、出土したグスク土器、外国産陶磁器、鉄器、古銭等を調査した結果、14~16世紀の三山分立時代に南山城の出城として築かれたグスクである事が判明したそうです。地元では「寺山」と呼ばれ、南側のグスク入り口近くには真壁神宮寺が建っています。

その真壁公園の一角に「真和の塔」がありまして、この塔は平成21年ですから、今から10年前に慰霊巡拝で初訪問しています。同塔が地図に掲載されていない事から、探し当てるのにかなりの時間を要したのを覚えていますが、二度目である今回は久しぶりの再訪という事になります。

「真和の塔」は第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の各砲兵隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は首里戦線でも比較的残存率が高く、島尻の新陣地即ち具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里に至る最後の防衛ラインの、主に真壁と真栄里に布陣した砲兵部隊は、島尻の戦いでも正確な砲撃で米軍を圧倒する場面もありましたが、戦車や火炎放射攻撃で迫る米軍に圧倒されるなど、6月中旬には砲門などの兵器も全て破壊され尽くした為、他の部隊と同様、砲兵部隊もまた斬り込みを敢行し玉砕して散華されました。同隊の生存者が居なかった為に、慰霊碑建立等は遅れたと言います。

「真壁公園、真壁グスク」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.103

真壁公園は「萬華之塔」から100mぐらいの距離にありますので、ぜひ訪ねて見て下さい。

所在地ご紹介

「真壁公園内に駐車場・トイレあります」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.104

「真壁グスク」の解説です。問題なく読めますね。

上掲のGoogleマップでもお解りのように、真壁グスクがあった場所は、標高83.6mの小山となっています。この小山全体に、壕出入り口5カ所、総延長200m程の地下壕を構築し、第二十四師団第二野戦病院(山3487部隊)の分院としての病院壕がありました。壕の名称は、「真壁陣地壕(寺山壕)」と呼ばれていたようです。現在は、全ての壕口は閉ざされ痕跡も残っていないとの事です。

《サイトご紹介》

「真和の塔」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.105

「真和之塔」です。公園に入ってすぐ右側に見えてきますから、見落とす事はないと思われます。

所在地ご紹介

「真壁公園内に駐車場・トイレあります」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.106

「真和之塔」です。昭和41年(1966年)3月に建立されました。同塔は第24師団の第5砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は真壁と真栄里に布陣しましたが、その布陣のゆかりの地である真壁に慰霊碑を建立したという事でしょうね。塔名の文字は、元総理府総務長官の臼井荘一氏の揮毫です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.107

慰霊碑碑文です。テキストにしましたのでご覧下さいませ。

【真和の塔 碑文】

昭和20年5月下旬新垣・与座岳・真壁の線に放列陣地を敷いた第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の将兵は優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲を全部破壊されるも怯まず全員白兵斬り込みを敢行して壮烈なる最期を遂げたり。 ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う

昭和41年3月 財団法人沖縄遺族連合会

「真和之塔」を慰霊巡拝するようになったのは、数年前に具志頭での調査・遺骨収集作業中にメンバーが、野戦高射砲第81大隊将兵が身につけていたと思われる認識票を発見した事によります。日本軍の認識票は単なる識別番号みたいなものですから、個人が名前を彫り込むなどしない限り、身につけていた将兵の氏名を追跡する事は叶いません。但し所属部隊は判明するケースが多いです。

その認識票に書かれている記号・番号を、参加メンバーが沖縄から帰ってから精力的な調査を行った事により、所属部隊名が判明したのです。発見された認識票の持ち主は、この慰霊塔に祀られている野戦高射砲第81大隊の兵士だったのです。福岡さんは、この部隊の編成地である福井県鯖江市嶺北忠霊場に「福井県平和祈念館」があると聞いて、何か情報が得られるかも知れないと車で出かけて行ったりもしました。結果として新たな情報は得られませんでしたが、それにしても驚くべき行動力です。

こうした経緯もあり、今こうして認識票の兵隊さんが所属していたであろう部隊の慰霊碑に向かってご冥福をお祈りした次第です。長く遺骨収集をしてる立場の責務として、こうしたきめの細かい慰霊活動はとても大切だと感じています。

《書籍ご紹介》

「沖縄の最後」

古川成美著 河出書房 昭和42年(1967年)初版

著者の古川成美氏ですが、大東亜戦争が始まった昭和16年に大学を繰り上げ卒業し、その二ヶ月後学徒兵として中部第24部隊に入営するも教育要員として学校勤めに戻され、今の高校生にあたる青少年の教育に打ち込んでいましたが、昭和19年(1944年)当時28歳で、「七月二十日午前九時、福井県鯖江ノ聯隊二入隊セヨ」と召集令状が来たとの事。そして配属先が独立高射砲第八一大隊、球一二四二五部隊と決まった‥。

「沖縄の最後」冒頭の記述を一部抜粋しましたが、この本は出版後一年で8刷に達するベストセラーとなったようです。また再販を重ねる内に、内容文の一部更新しているとの事です。私が購入した書籍は第一刷となっていました。またその後高級参謀であった八原博通氏より、1000枚に及ぶ沖縄戦手記の提供を受け、昭和24年(1949年)に「死生の門─沖縄戦秘録」を出版しましたが、こちらも重版を重ねたようです。因みに「死生の門─沖縄戦秘録」は読めば一目瞭然、八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」とほぼ同じ内容なのだそうです。登場人物を架空の名前にしてストーリーに加えたようです。

著者の所属する部隊である独立高射砲第81大隊は、中頭郡読谷村にある北飛行場で防空任務に就きました。初戦は昭和19年10月10日の対空戦闘の参戦でした。そして沖縄戦開戦、以降北飛行場、前田、翁長、小波津、与那原、そして慰霊塔「真和之塔」のある真栄平までの転戦の様子が筆致鋭くリアルに描かれています。著者は真壁部落の東側の小高い丘の斜面にあったトーチカで負傷し、傷病兵の悲惨さをなめ尽くして沖縄戦を生き抜かれた方でもあります。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.108

「真和之塔」の横に、ご覧のように、コンクリート製の踏み板らしき構築物がありました。奥に何かあるようです。行ってみましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.109

コンクリート製の踏み板は、坂道の上まで続いているようです。行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.110

コンクリート製の踏み板は、階段を構成していますね。坂道も急になってきました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.111

お墓がありました。拝所と言うよりもお墓の雰囲気です。ただお墓が小さいです。もしかしたら、童墓(わらびばか)とかですかね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.112

お墓の背後には、ご覧のように、壕らしき岩陰がありますね。この小山全体に岩場があり、ご覧のような壕らしき穴があちこち散見されます。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.113

「真和之塔」の左隣の山裾に井戸がありました。山に降った雨がここから流れ出るのでしょう。現在は四角い石組みの中に少し水が貯まっているという風情です。井戸は使わないと涸れる‥‥。と言われます。グスクの近くには井戸が必ずあると言うのは、その通りですね。ただこの井戸のある場所は城の外と言う印象を受けますが、飲料水を守るとの観点では、この井戸の外側に城郭を設けるべきと思いますが‥‥。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.114

井戸の全景ですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.115

接近して撮影しました。例年この部分には井戸水が貯まっていましたが、今年は涸れ井戸のような状況です。ここにも沖縄における今年の小雨傾向が現れていますね。手前側のコンクリート製の仕切りは昭和のコンクリートと言った雰囲気ですが、奥側の石積みは往時に積まれたのがそのまま生きている印象ですね。構築病院壕である寺山壕で戦った将兵も、水だけは事欠かなかった可能性がありますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.116

井戸の前方はご覧の様に擁壁もあります。こちらは平成のコンクリート製擁壁でしょう。底地は水が流れていないものの、小川という雰囲気ですよね。梅雨時などには川になるのかも知れませんし、その昔は井戸からこんこんと水が湧いていたのかもです。この小さな丘に降った雨が、琉球石灰岩に染み込んで、井戸から湧出したのでしょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.117

この遊歩道を登って行くと山頂に行くことが出来ます。今回は山頂には行かないので、過去記事から山頂の様子をご紹介します。

《過去の写真ご紹介》

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.125

【令和3年(2021年)1月撮影】
「真壁グスク」を見学したいと思います。「真壁グスク」は築城者は不明で、連郭式と言う築城形式で曲輪が配置されているとの事です。連郭式とは、本丸とその他の曲輪を、連続的に連なるように並べて配置したものを差すようです。ですから、ここ真壁グスクも低いところから一ノ郭、二ノ郭、そして三の郭と曲輪が整えられていたようです。また遺構が少ない為か、史跡指定はされていないようです。

グスクの遺構などは山の上部にあるでしょうから、それらしき道があったので登りましたら、この写真の所に出ました。ご覧のように、眼前には道を挟んで大きな岩が覆い被さるようにありますね。大きな岩の向こう側も含めて、この辺りの平らな場所に二ノ郭があったようです。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.126

遊歩道の左側にあった、バックリと割れている岩があったので撮影しました。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.127

遊歩道はご覧のように階段となり、一気に高い部分まで登ります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.128

長い階段を登り終えると、一気に視界が開けました。この小さな丘の山上に出たようです。この広場に一ノ郭があったようですから、お城もこの辺りに建てられていたのでしょう。ご覧のように、写真の一番奥に展望台があるみたいですから、行ってみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.129

ここが「真壁グスク」の一の郭があったとされる場所のようです。結局「真壁グスク」の痕跡のような遺跡は見つける事が出来ませんでした。グスクの遺構が少ないから史跡指定になってないのかも知れませんね。気持を切り替え、展望台に登ってみましょう。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.130

写真中央部に注目して下さい。与座にある陸上自衛隊レーダードームが見えています。距離は約2kmあります。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.131

展望台から降りていますが、高台から糸満市喜屋武方面を見ています。解りにくいですが、海も少し見えていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.132

真壁公園はあちこちで樹木が切り倒され、草が刈られています。大規模な改修工事の前段階なのでしょうか? ご覧のように、この丘は大きな岩がゴロゴロしていますね。

令和3年(2021年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.133

ついつい壕はないかと探してしまいます。

過去写真掲載はここまでです。

「真壁宮」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.118

次は「真壁宮」を訪ねてみたいと思います。と言いつつ、すでに見えてきました。真壁公園内駐車場からほど近い場所にありますので、問題なく到達出来ると思います。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.119

霊石を祀っている「真壁宮」ですね。但し公園入り口右側に、糸満市教育委員会の案内掲示では、「真壁神宮寺」と表記されていたので戸惑いましたが、本殿宮内にはしっかりと「真壁宮」と掲示されていました。旧暦の9月9日が宮祭りだそうで、南部各地から大勢が訪れるとの事です。

ご覧のように、本殿はコンクリート製のようです。本殿の周りは広い回廊となっていて、コンクリート製の柵で囲まれています。敷地面積全体はかなり広い印象を受けます。同宮のご利益は、海上安全、災難除けなどで、特に漁業に従事する人々の信仰を集めているようです。

所在地ご紹介

「真壁公園内に駐車場・トイレあります」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.120

「真壁宮」の由緒が書き記されていますね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.121

「真壁宮」は、「真壁のティラ」と呼ばれているようです。ティラとは、神が鎮座する場所や洞穴の事を指すと言われるのはご承知の通りです。今から490年前の1531年以前に創建されたとされており、糸満市教育委員会の案内掲示によると、「真壁按司の子孫である首里大屋子が、海から飛んできたといわれる霊石を祀るために祠を建てました。また、17世紀後半ごろに、那覇にある臨海寺の頼久和尚が、阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩を勧請しており、社殿が壊れた時には村人によって再興されています。現在は航海安全などの神として、県内各地からの礼拝者があり、祭祀は新垣家(屋号兼元)が行います。祭日は旧暦9月9日です」と記されています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.122

ただ残念な事に同宮は盗難被害にあったようです。ご覧のように、アルミ製の格子は外され、扉の窓としてのアクリル板が壊されています。その為でしょうか、昨年は扉が開いていて内部の閲覧が自由だったのですが、今年は扉が閉ざされていました。

扉が開いていた昨年は、祭壇には丸い御神鏡が置かれ、天照皇と書かれたお札も見えましたし、木造の神殿を模した母屋もありました。また天井面には真壁宮の扁額が掲げられていたりしていましたが、アクリル板を通して見る室内は暗くて解りずらく、昨年同様の配置なのか今ひとつ認識出来ませんでした。再び扉が開けられるように祈っています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.123

「真壁宮」の隣接地に立派な拝所があったので写してみました。地元の方々の拝所と思われますが、昔は小さな祠が二基あった場所に建てられていたので、古い拝所の更新が為されたと思われます。これだけ立派だと、地元の方々の拝所への熱意が感ぜられますね。下に立て替えられる前の拝所の写真を掲載してみました。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子15

【平成21年(2009年)1月撮影】
真壁神宮寺の左隣の広場にある拝所です。小さな祠と大きな祠が並んでいますが、もしかしたら、地域の拝所なのかも知れません。どちらも戦後建立されたと思われますが、基礎工事に難があるのか傾きの度合いが急ですね。(^_^;)

過去写真掲載はここまでです。

「山雨の塔」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.124

「山雨の塔」に到着してビックリです。樹木が大きく剪定されています。病気になったか枯れたのか‥‥。理由は解りませんが、参道左側のモクマオウはかなり枝が落とされています。また参道右側のクワデーサー(モモタマナ)も一本枝が無い状態に切られています。通常の剪定作業では、ここまで枝を払う事は無いので、病気か何かで枯れたのでしょうかね。いずれにしても、これでは春になっても芽吹かないでしょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.125

この写真で解るように、モクマオウやクワデーサーの枝が、敷地外に伸びたから剪定したと言うのでは無いのは明白ですね。「山雨の塔」は昭和37年(1962年)10月に建立されましたから、すでに60年が経過している事になります。同塔建立時にモクマオウやクワデーサーを植樹したとすれば、そろそろ寿命を迎える樹木も出てくるのかも知れませんね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.126

霊地の特にモクマオウの生育状況は深刻だと言えるでしょう。来年の慰霊巡拝でどのような姿になっているか‥‥。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.127

糸満市の宇江城という集落の一角にある「山雨(やまあめ)の塔」です。道路脇にあるので見落とす事はないと思われます。「山雨の塔」は、昭和37年(1962年)10月に建立され五百柱が合祀されています。歩兵第22連隊と歩兵第89連隊の軍旗捧焼の地でもあります。山雨の塔(やまあめのとう)とは、第24師団の通称である山部隊の「山」、そして師団長である雨宮巽中将の「雨」を併せて命名されました。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.128

「山雨の塔」です。第24師団(山部隊)を率いた雨宮中将と幕僚や兵士500柱がここに合祀されています。中央の塔が雨宮中将、両脇の塔が部下の幕僚を表し、部下幕僚が雨宮中将を助けている形を象徴しているそうです。

この師団は満州に駐屯していましたが、昭和19年8月に第32軍に編入され沖縄に転進してきました。第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にあるクラガーガマ壕内で自決し、同師団は壊滅したのでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.129

書かれている碑文が年々読みにくくなっていますでテキストに起こしました。

【山雨の塔 碑文】

大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和十九年八月遙か北満より雨宮巽中将の銃ぶる山兵団長躯沖縄の布陣に参加す翌二十年四月一日上陸せる米軍を迎撃血戦三ヶ月に及んで刃折れ弾尽き六月三十日兵以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大義に生く茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を傳う

昭和三十七年十月 財団法人沖縄遺族連合会 

「沖縄戦 二十四歳の大隊長」 陸軍大尉伊藤孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研パブリッシング 平成27年(2015年)初版

伊東元陸軍大尉ご自身の著書をぜひ読ませて頂きたいと念じていますが非売品という事で断念。また笹 幸恵氏の著書という事で迷わず購入。「二十四歳の大隊長」というタイトルにも惹かれました。大隊長と言えば平時は少佐ですが、大東亜戦争末期は将校の任官が追いつかずこうした事態になったのでしょうか。いずれにしても、この若さで800名の将兵の命を預かる‥。その重圧たるや想像するのも難しいですね。

歩兵第三十二聯隊第一大隊は、沖縄戦関連では必ず同隊の戦いぶりが出てきますが、更に驚くのは伊東孝一陸軍大尉は、実戦は沖縄戦が初めてと言うのにも驚きました。世に机上の空論という言葉がありますが、伊藤大尉は予科士官学校を卒業して歩兵第三十二聯隊に入隊して以降、研究熱心という性格も手伝って、徹底して戦略や戦術を研究したという経緯があります。世界史を紐解き有名な戦争を分析し続けたのです。そうした机上ではありますが、実地を想定する真剣な学びが、沖縄戦と言う実戦の場で当意即妙に生きたと言う事でしょう。

この「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉伊藤孝一の戦い」笹 幸恵著/(株)学研パブリッシングに、第24師団長 雨宮巽陸軍中将が、山雨の塔の左手にある「クラガーガマ」の中で自決した時の様子が記述されていますので転載させて頂きます。

(251-253頁)
6月23日、師団司令部のあった真栄平の壕は、米軍の完全な包囲下にあった。すでに軍司令部との連絡は途絶え、わずかに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決めていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。そこへ、それまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、「歩兵第89聯隊長と工兵第24聯隊が、今から10分後、新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。

師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま、箸をとり続けていた。

苦難の連続に、恰幅の良かった彼も顔は青白く肉は落ちていた。こけた頬をローソクの灯がゆらゆらとなで回している。

しばらくして杉森参謀が報告した。

「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します」

「うむ」

雨宮は短く答えた。

壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなあ」

その夜、動ける者は全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。

仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代の答えは決まっていた。

「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」

わずかに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。

仁位は説得をあきらめた。

夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮は事もなげに側近に言った。

「ここにとっておきの上等なウイスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」

周囲もまた、何の屈託もなく、また未練もなさそうに何やら世間話をしていた。

仁位は出撃に際し、師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。そして2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった‥。

この手記から、雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。

「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹 幸恵/(株)学研パブリッシング) 第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記よりから転載させて頂きました

上掲の笹幸恵氏の著作である「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」の中に描かれている雨宮師団長が自決せんとする最期の様子は、第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐の手記より一部転載したと書かれていました。

その陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐が書かれた著作である「珊瑚礁を朱にそめて」が令和4年(2022年)に購入が叶い読みましたので、ここで改めて転載させて頂きます。笹幸恵氏の著作では抜粋された転載でしたが、ここでは仁位顯少佐が書かれた著作なので全文ご紹介出来ます。お読みになると判りますが、沖縄戦末期と言える段階でのクラガーガマ内部の様子や、雨宮師団長を始め幕僚の自決せんとする最期の泰然とした姿など、断末魔の壕内の様子が子細に描かれ臨場感溢れる記述となっています。こうした軍隊内の人間模様を踏まえ精緻に活写されているのに驚きを隠せません。

陸海混成砲兵大隊長の仁位顯少佐は、6月21日に第24師団(山部隊)司令部があったクラガーガマ付近で被弾負傷し、帯同していた部下により同壕に運び込まれた際の記述から、23日の夜、壕内に残存する将兵で動ける者は全員斬込みの命令が下され、仁位顯少佐も例外ではなく壕から出撃していきました。この出撃した所まで転載させて頂きます。少し長いのですが、自身が壕内に存ずるような錯覚を覚える程に読み応えがあります。是非最後までお読み下さいませ。

「珊瑚礁を朱にそめて」 沖縄戦 一砲兵大隊長の手記

仁井 顕著・発 昭和48年(1973年)9月初版

(212頁)
洞窟を出て 与座岳に向かう途中、四方八方から曳光機銃弾が飛んできた。

まだ山麓までになお間がある地点で、私は急に左大腿部を丸太ん棒で力一杯なぐりつけられたような衝撃を覚え、思わず、

「やられたッ!」と口走って、足をとられたようにのめった。

上杉伍長と宇良上等兵が、すぐに起こしてくれたので、進もうとすると、藤井中尉と坂谷大尉が「一旦引き返しましょう、司令部壕はすぐ近くです」

といいながら強引に司令部壕まで引きずられた。

若し、この負傷で骨折があったならば恐らく私も此処でで有無をいわず自決にふみきったに違いない。

僥倖にも、何とか足が立てるのをみると骨折は免れたらしい。

現在「山雨の塔」のある所の山部隊司令部の壕に何とか辿りついた。

出血はひどく、短袴という将校ズポンを脱いだ時にガボッという音がして血があふれ出たのを覚えている。急いで軍医が治療してくれた。貫通銃創というやつで、倖い骨折は免れているという。

壕内に入ると、同期の苗代参謀がまだ健在で何くれとなく世話をしてくれる。

同期生の有り難さをこの地獄のような壕内で沁みじみと感じた。

この壕は平地よりも一段と低くなった天然の地下壕で、多少人手を加えたものである。

師団長、参謀長、各参謀、各部長の外、どこからこれだけの人数が集まったのか? と思われる程多数の者がいた。

大抵は負傷者であり、その他部隊を離れて行先のない者も多数いて、真暗の壕の中に、ぎっしり詰まって息苦しい程である。

苗代君に聞くと約六百人はいるという。

所々にローソクの火が、かすかに心細くまたたいている。

重症者の呻き声もね押し殺したような声であるが、もう誰れも見向いてやる者もいない。

そこで息をひきとる者がいても誰れ一人かまってやる者もいない。

ここまで事態が切迫してくると、生きようという意欲そのものが、段々とうすれていくようである。

重症者としてはいっそのこと、ひと思いに死にたい、何とか早く楽になりたいと考えるのが当然であろう。

第百大隊から私と同じく野砲兵第四十二連隊に転じた例のコマねずみのあだ名のある笠原大尉にここでバッたり会った。

彼は同連隊の作間大隊の中隊長として首里戦線で奮戦したという。

然し、与座の彼の大隊の観測所では見かけなかったし、彼の大隊長は私と別れて、真壁北側の本部壕にいたのだが、彼は行を共にしなくて、ここ司令部壕にいた。

「どうしてここに紛れ込んだのか?」

「これからどうするのか?」

というような、行末、こし方を彼に尋ねるような気分に不思議となれなかった。

何のことはない、皆が皆「今」という瞬間の刻をお互いにようやく生きているのだ。

一時間後、否、十分後の我が命、或いは一分後の自己の運命を予期している者もいない。

唯、師団長雨宮中将以下彼の参謀や司令部直属の各部長クラスは、既に運命を達観したというのか淡々とした口調でさりげなく、世間話しでもしているのが、極めて印象的であった。

 

「落城」

司令部壕で一夜明けた二十二日、倖い昨夜から傷の痛みもそれ程ひどくはない。

朝から洞窟の上の方では、敵戦車が右往左往しているらしくキャタピラの音が騒々しい。

暫らく壕の上でタンタンタンという特徴のある戦車砲の射撃音が聞こえていたが、それが止むとすぐ思いもかけない放送が我々の耳に入った。

「山部隊雨宮師団長閣下及び部下将兵の方々に申し上げます。私は元、山部隊(第二十四師団)の○○上等兵であります。
戦いはすでに終わったのであります。無駄な命を捨てないで下さい。又、無駄に命を捨てさせないで下さい!!」

我々は放送を聞いて、愕然とした。捕虜は日本軍として最大の恥辱と心得て教えられてきたのに、○○上等兵は嘗ての自分の所属部隊の前に堂々と名前も発表し、その上に師団長以下に投降をすすめに来るとは!!

この放送は我々の思惑に関係なく、繰り返し繰り返し続けられたけれ共、壕内はシーンと静まり返って咳一つ聞こえない。

暗闇の中にローソクの灯が二、三本またたき、重症者の呻き声だけが、押し殺したようにあちこちから聞え、何ともやり切れない切ない気持ちである。

誰れもが戦いの結末は判りすぎる程判っている。

絶望感だけが、壕内を支配している。

これでも尚日本軍には降伏ということばはタブーですらある。

この壕内の大部分の将兵の心の奥底には、タブーを破った山口上等兵の恥知らずを憎いと思う心の反面、タブーに反してでも生きていたいという心と彼をねたむような気持ちも、心のどこかにないではないという、矛盾した心の葛とうにやり切れなさを感じたのかも知れない。

何回となく繰り返された投降勧告に全然反応がないと判ると、しびれを切らした敵は壕内に発煙弾を射ちこんできた。

丁度運悪く壕内に残っていた弾薬に引火爆発したから堪らない。

敵の発煙弾と我弾薬の爆発のため、その付近に多数の死傷者と窒息者が出た。

私は虫の知らせとでも言おうか、敵は必ず壕内の攻道具には煙か毒ガスを使うであろうという予感がしていた。

誰が棄てたのか、負傷して余り身動きも出来ない私の目の前に、地面にほったらかして、そのままになっている防毒面を見付けたので、私は早速拾って後生大事に身につけていた。

而も偶然にも私がいた所は、洞窟の壁面沿いに新鮮な空気が泌み出していた。

煙が充満してきたので「ソレッ」とばかり防毒面をつけた。

宇良上等兵の方を見ると、彼も濡れタオルで、鼻と口を覆い壁に顔を押しつけて頑張っている。

何と長い、そして苦しい煙との戦いであろう!

二時間はタップリ煙の責苦を受けた後、師団の副官と軍医が壕内を廻って調査の結果、死者は二百を越えるというが、もはや、対応のための手も足も出ないとはこのことで、無念千万である。

翌二十三日も、朝から何度も例の放送を繰り返したが、誰れも応ずる気配がないと判ると、今度は壕内に入口からガソリンを流し込み、その上に爆薬を投げ込んだ。

すると一時に壕が崩れるかと思う程の爆発と振動が起ると、悲鳴や呻き声があちこち聞こえた。

その内手ぬるしとみたか、今度は土工車を使ってすべての入口の封鎖を始めた。

「俺達はもぐらにされるゾ」

と誰かが言った。なる程、この中に閉じ込められて永久に外に出られぬとすればなんと情けない事になり果てたか!

そうなれば一昨日の白昼、抜刀して突撃し、散華した福森大尉や須田中尉が羨ましい。

今日も亦色々な敵の責め苦に会って、敵の一方的攻撃のうちに、壕外は夕陽が東支那海に沈むらしい気配が感ぜられたのは、どこかにまだ壕が外界と微かながらも通じ合う点が残されているのかも知れない。万更死ぬまで陽の目が見られる望みがない訳でもあるまい。

師団長はいよいよ本夜壕の中で側近と一緒に自決するということである。

さき程から師団長の当番兵が何かゴソゴソと動いていると思ったら師団長に夕食を差し出した。

師団長は一人で最後の晩さんをしたためていたが、それまで壕外とはまだ連絡を無線でとっていた杉森参謀が、

「歩兵第八十九連隊長と工兵第二十四連隊長は唯今から十分後に新垣の壕で刺し違えて自決されます」と報告した。

報告を受けた師団長は唯、黙ってうなずいたまま、箸をとり続けていた。

この報告を聞いた時の師団長の胸中はどんなであったろうか?

それとも、我が事すでに畢(おわ)りぬとして、すべてを大悟徹底して、淡々とした心境であろうか?

私はすべてを大悟している心境と確かにみてとった。彼は表情を動かさなかった。

ローソクの灯がゆらゆらとして彼の蒼白く肉の落ちた頬をなめ廻している。

暫くして杉森参謀は

「これでいよいよ各方面との連絡を打切り、通信器材を破壊します」

と報告した。

これに対しても師団長は唯「うむ」と頷いただけで何の反応も示さなかった。が暫くして「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、屹度すばらしいものになるだろうなあ」

と誰れに言うとはなく独り言を言った。

私は彼からすぐ近くの場所にいてこの独り言を聞き、正にその通りと同感した。

悲壮美という美が、確かにあるように思われるが、具体的には何なのか?

私のような無骨者にそれが何であるか判り兼ねるが、あることだけは確かなようだ。

私はふと、今日の状況とはまるで違うのに、大阪落城の日、総大将秀頼以下の主だった武将の面々が、紅蓮の炎に包まれかけた天守閣の広間に居並んで、今正に切腹しようとしている情景を心に浮べた。

それが史実を確かめた上で、確たる事実として、思い浮べた訳では決してない。

私の脳裏をかすめた、落城の際の情景が悲壮美といえるのではないかと、考えたまでであった。

人間の価値は死に際のあり方によって決まるとさえ云われている。

古来幾多敗軍の将が辿った道であるが、その最後が潔ければよい程、後世に対する影響も又大きい。

今、雨宮師団長は敗戦の責を負い、ここで自決を決意された。

そして後世の人々に、その是非の判断を委ね、日本の武将としての誇りと伝統を守り抜こうと決意されている。

唯、彼の後世に対する願望の現われが、彼の先程の独り言となったに違いない。

私がもし万一劇作の能力でもあるならば、何十年否一生かかっても彼の期待に沿うべく努力したであろうに‥‥。

その夜、動ける者は全員斬込みの命令が下されたが、師団長と幕僚と動けない重傷者は壕内で自決するという。

この命令が、伝達されると忽ち、あちこちで重傷者が勝手に拳銃や手榴弾で自決を始めた。

そんな勝手なことでは、まだまだ五体健全でいよいよ斬込みに出る者までがそば杖を喰らうので「壕内での勝手な自決は厳禁する」という奇妙な自決禁止命令が発せられる始末である。

私自身は、師団長から直接受けた命令は

「笠原大尉と一組になり、与座部落を根拠として、ゲリラ戦を展開せよ」

ということであり、経理部長に命じて、若干の軍資金まで与えられた。

私は師団長に殉じて自決を覚悟している苗代参謀に対して、

「苗代君! 愈々我々も同じ運命で死ぬことになったが、どうせ同じ死ぬなら、もう一度太陽のもとに出て、思う存分いい空気も吸ってから死んだらどうか? 一緒に斬込みにゆかないか」と何度か彼を口説いてみた。

私としてはこの親愛な同期生の彼を、同じ死ぬとは言え、絶体絶命死の道程につながる洞窟内の自決よりも、万に一つの生存も期待出来ないではない斬込みの方を是非選ばせたかったのだ。

だが彼の答えは決まっていた。僅かに笑みを浮かべながら

「貴公の気持ちはよく判る。感謝はするが、どこに行っても同じだ、俺は師団長と運命を倶にするよ」

というばかりである。

信念というのは恐ろしい。

彼は極めて優しく、他人の言もよく容れる反面、譲れぬという一線だけは断乎として、信念をまげぬ性格の男であった。

彼は自らの生命をかけて立案した作戦計画に従い、師団の将兵幾千が戦い、今又残り全員が断末魔の苦しみを味わされている。

この現状に対して、作戦参謀の自分としては参謀長と連帯して責任をとる立場にあるという信念のため、潔く師団長に殉ずる決意を、かえぬのであろう。

私も流石に説得を諦めざるを得ない。

その夜半近く、全員出撃の時刻も迫った頃、苗代参謀が、師団長に対して

「爆薬の準備は完全に終わりました」と報告した。

聞けば全員で円座を作り真中に置いた爆薬で全員同時に自決するという。

師団長は

「ここに、とっておきの上等のウヰスキーもあるし一杯機嫌になったところでドカンとやるか」

と事もなげに外の人と話している。

各部長クラスの人々も何の屈託もなさそうに何か世間話をしているようだ。

この人達の様子はまるで

「死を賭ること帰するが如し」

という古い言葉そのまま地でゆくとでもいいたい心境のようである。

死を覚悟してしまった人と、まだ生への執着を絶ち切れぬ人達との差は、その場で実にはっきりと態度に夫々現れていた。

死を賭ること帰するが如くという人々の姿をみたことは、私の一生を通じて、この時が最初であるそして亦最後であった。

出撃する壕の出口が、いざ堀かけてみると意外な程の厚さで封鎖されていることが判った。

もぐらにされた我々は外に出るために、下の方から上を向いて掘ってゆかねばならぬ。

兵隊たちも汗みどろになって作業を始めた。

十字鍬もない者は銃剣の先とか、鉄かぶとで土を掘っているが、案外に手間どっている。

その間、時間があるので私は、部下の藤井中尉に話しかけた。

彼は保土ケ谷付近のさる寺の住職さんであるという。

「藤井君、人間には死んだ後のあの世というものがほんとにあるもんだろうか?」

と問いかける私に対し彼は

「もう暫くすれば私が先に立って御案内しましょう」

と言って淋しく笑った。

人間、誰れでも、いざ死に直面するとなると、何か不滅のものを希求したくなるという証拠であろうか。

彼をみたのはこの出撃の時機が最後で、再び会うことはなかった。

恐らくあの世に案内すべき私が行かなかったのを知って、彼はあの世で苦笑している事であろうか。

いよいよ壕外との通路は何とか開通し、出撃の刻がきた。

師団長と苗代君に最後の挨拶をする。

苗代君とみつめ合った目と目、お互いに握り合った手と手の暖かいぬくもりに、無限の思いが通じ合った。

彼とは士官学校時代に特別親しくつき合っていた訳ではない。

予科も本科も中隊の所属なり、兵科も違っていた。

彼は歩兵科であり、私は砲兵科の士官候補生であったし、卒業以来初めて再会した程度でもあった。

併し、同期生という絆に結ばれた彼と今、此処、洞窟の暗やみの中で、今生の別れをすることは洵に千万無量の思いであった。

いずれ死に遭遇する事は間違いないとしても、彼が先で我は幾何か後れるであろうが、その前後の差は私にとって何となくうしろめたさを感じさせずにはおかなかった。

併し、今はその思いをふり切って、決められた順序のとおり、笠原大尉に続いて私も真っ暗闇の中にとび出した。時刻は二時すぎであった。

私のすぐうしろには宇良上等兵が続いた。

「珊瑚礁を朱にそめて」(仁井 顕著)から転載させて頂きました

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.130

ほとんど毎年のように慰霊塔巡りをしていますと、時折ですが慰霊塔や関連施設に変更が加えられているのを発見したりします。石灰岩を加工して作られた真新しく見える左側の石碑も一昨年にはありませんでした。令和3年(2021年)の慰霊巡拝の時に碑としてキチンと石碑として整備されていました。石板の碑文として長く放置されていた時の写真を二枚下に掲載しておきましたので見て下さい。現況は版面も真っ白になっています。石屋さんがしっかり表面を磨いて下さったものと思われます。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.145

まず右側の古そうな石碑です。この供養碑は昔からありました。ギリギリ読めるのですが、「歩兵第二十二連隊 故陸軍准尉 合田輝明供養碑」と彫られています。歩兵第二十二連隊は第二十四師団(山部隊)の隷下部隊の一つで、歩兵第二十二連隊の慰霊塔は糸満市真栄里にありますよね。「第三十二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す‥‥」と記された碑文はよく知られているところです。合田輝明准尉は、この付近か壕内で亡くなられた事が判明しているのかも知れませんね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.131

読めますね。母親が29才で沖縄戦の戦場に果てたご子息に思いを馳せ詩を読んでいます。

この歌碑は上掲の戦没者、合田輝明陸軍准尉のお母様である会田あささんが設置されたものである事を本年知りました。お母様は昭和40年晩秋に石碑をこの地に置いて行かれた訳ですが、昭和40年と言えば、まだ沖縄が米国の施政権下にあった時代でもありました。慰霊巡拝に際して、この碑文が彫られた石板を、この霊域に置いて行かれたのでした。お母様である会田あささんは、出征した息子四人中三人が戦死されたとの事で、胸中は如何ばかりであったかと察するばかりです。

碑文に昭和四十年晩秋と書き記されていますので、驚く事に56年の歳月を霊域のあちこちにたらい回しされるかのように移動していました。昨年はフェンスに斜めに立て掛けられていましたが、現在はやっと安住の地を得られたかのように、割れた部分は接着剤で固定され、またしっかりと構築物に収められたので、この碑自身にとっても安息の地を得られたと言えますから、長く気に掛けていた私自身も安堵の気持ちが湧いて参ります。糸満市のご配慮に感謝感謝です。(^o^)

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子4

【平成27年(2015年)1月撮影】
地面に置かれた碑石です。同部隊に所属して戦没された兵隊さんの御遺族(お母さん)がこの石に刻んだ碑文をこの境内に置かれたものと思われます。碑文はほぼ読めますね。

令和年(2020年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.144

【令和2年(2020年)1月撮影】
隣地との境界塀に立てかけられていますが、小さな石板に詩が書き記されています。この霊域に置かれていると言う事は、第二十四師団隷下の部隊に所属していて戦死されたと思われますが、戦死された兵士のお母さんが、参拝の折りにこの地に置いていった小さな石碑です。昔から土に固定されたり埋められてはいませんでした。私が最初にこの「山雨の塔」に最初に慰霊巡拝で訪れた際には、邪魔者扱いされるかのように、霊域の片隅にすでに置いてありました。ある年からは石板が割れていました。心が痛むので、同塔に訪れた際は必ず手を合わせています。

過去の写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.146

因みに、この参道も令和3年(2021年)に改修されていました。

「クラガーガマ」

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.147

「クラガーガマ」です。昔はこの鉄柵は無かったのですが、近年設置され鍵まで掛けられている年もあります。今年も鍵は掛けられていませんね。また今年は壕口までもしっかり草刈りが為されています。また斜面の草木も、刈り払ったと言うよりも枯れた‥‥。というような雰囲気ですね。これまでとは風景が違っていますよ。入ってみたい思いは募りますが、一応立ち入り禁止となっているのは明白ですから、立ち入らないことにしました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.148

金属柵の中に腕を入れて撮影しました。今年は草が刈られたのか枯れたのか解りませんが、先まで見えるようになっていましたから、「クラガーガマ」の壕口の様子がよく解りますね。ここ数年ガマに入った事は無いですが、金光教では何度かこの壕で遺骨収集が実施され、ご遺骨が収集されました。この壕は「クラガーガマ」と地元では呼ばれ、「暗井戸」という意味なのだそうです。沖縄戦では、地元民の避難壕として利用され、島尻の戦闘では軍民同居の壕となりました。歩兵第22連隊と歩兵第89連隊の聯隊旗を焼いた壕としても知られていますし、雨宮師団長はじめ幕僚や多くの兵士が自決した壕でもあります。壕内は川が流れている事から、沖縄戦では貴重な避難民の水くみ場として利用されたと言います。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.149

金属柵の中に腕を入れて撮影しました。壕口にあった大きな木も二本切られていますね。壕口が余りに鬱蒼としてきたので、樹木を切り倒したのかも知れませんね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子6

平成19年(2007年)に「クラガーガマ」から発見された御遺骨です。
金光教の遺骨収集で「クラガーガマ」から発見された、頭蓋骨が焼かれ真っ黒になっているご遺骨です。

御霊様に申し上げます。
戦争の悲惨さを指し示す為に、御遺骨を頭骨と共にサイトに掲載させて頂きました。なにとぞ御了承下さいませ。御霊様におかれましては、安住の地に安らかに御鎮まり下さいますようお願い申し上げます。私達は目をそらす事なく御遺骨を見つめなければなりません。また 私達は戦争により起こりうる悲惨さを、この目でしっかり見届けておかなければなりません。
【平成19年(2007年)2月18日金光教遺骨収集にて発見・収骨】

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

第24師団(山部隊)は沖縄戦が始まる前は、那覇から港川ラインの主に本島南部島尻方面の守備に当たっていましたが、沖縄戦が始まって首里に迫る米軍の進軍を阻むために、急遽運玉森から前田高地に至る前線で戦闘に加わり、米軍と激しい戦いを展開した末に、精鋭部隊の兵員を激しく消耗していったのです。

5月下旬、第32軍司令部の首里撤退に伴い、第24師団の残存兵力も順次南部島尻へと退却し、司令部を糸満市の真栄平に置き最後の抗戦に臨んだのです。米軍の圧倒的な火力による激しい掃討戦により、将兵は次々と倒れていき組織的戦闘も不能となった事から、6月30日雨宮師団長は幕僚と共に、「山雨の塔」の横にある壕内で自決し、同師団は壊滅したのです。

雨宮師団長や幕僚が自決したこの壕は「クラガーガマ」と地元民は呼び、「暗井戸」という意味だそうです。地元民の避難洞窟として利用され、また水くみ場を兼ねていたといいます。現在の壕の入り口は大きく開放されていますが、沖縄戦当時は米軍にこの壕の存在を把握してからは、米軍により出入り口をブルトーザーで塞がれてしまったという話です。

米軍の馬乗り攻撃においては、どこか穴を開けられてガソリンを流し込まれたり、爆雷を投げ込んだりの徹底的した「馬乗り攻撃」が為され、壕内で亡くなった日本軍将兵が、一説には千人とか二千人に上るとも言われているそうです。壕内空間の広さを知る私としては、即座にその人数は入れないとは感じますが‥。

私も以前にこの壕内の奥深く進めるところまで行ってみた事があるのです。壕は少なくとも100mは容易に前進できます。そこから先は急に狭くなっており、人間も屈んで真っ直ぐにならないと前進出来ないほど狭いのです。その時は、普通の装備だったので、その穴を通ることは出来ず断念し、そこからは引き返したのです。

壕内調査を終えた後、地上に出て反対側に出入り口があるかどうかの調査も行いました。反対側にも入り口があるという地元の方の情報があったからです。私達も300m先のジャングルの中を丹念に探索しましたが、残念ながら反対側の出入り口は発見できませんでしたね。

不思議だったのは、そのジャングルの中に川が流れているのですが、道路の路肩付近で地面の中に吸い込まれていくのです。私たちが入った「クラガーガマ」の水の流れも奥へ奥へと流れていますから、位置的に見てジャングル内の川と壕内を流れる川が合流している可能性もなきにしもあらずと感じられました。

地元では「クラガーの中は二股に分かれており、米須を通って最後は大渡の海岸まで地下水のトンネルになっている」という話もあり、壕の奥の方がどのようになっているのかは、これからの課題として順次調査を進めたいと思いますよ。

この壕内には多くのご遺骨や遺品が散在していると思われますが、ご遺骨を捜すのは極めて困難な現況なのですね~。それといいますのも、この壕内には驚くほどの汚泥が堆積しているのです。恐らく沖縄戦当時はそのような状況には無く、汚泥の堆積は戦後になってからだと思われます。

戦後の壕入り口付近での貯水池などの設置工事などにより、水がこの壕に集中するようになったと思われ、台風など大雨の時には壕内に大量の水が流れ込むようになっていますが、その水が200m先の狭くなっている部分から先に、容易に流れ去っていかないので、壕内が貯水槽のような働きをして、水に混じった土砂が沈殿してしまうのだと思われます。実際に発見されるご遺骨や遺品は、戦後堆積した汚泥の中ではなく、汚泥底部の固い地面部分付近から発見されるのです。

いずれにしても、水も確保できるし相当数の人たちを収容できる素晴らしい壕だったのでしょうが、現在は歩くのも困難なほど膨大な汚泥が堆積し、収集作業を極めて困難な状況にしています…。この汚泥の中から、平成19年(2007年)金光教の遺骨収集で、アメリカグループのロンさん達が、上掲の黒く焼けこげた頭骨などの完全一体のご遺骨を発見したのでした。

翌年には発見された場所の周辺部を探索してみる必要があるというロンさんの提案で、アメリカグループと4班の皆さんが、この壕内で汚泥と戦う事となったのです。私も壕内に入ってアメリカグループと4班の皆さんの悪戦苦闘ぶりを見て、本当に心から、その悪戦苦闘ぶりに驚きを隠せませんでし。これから汚泥と戦う写真を見て頂きます。どうぞ彼ら彼女らの奮闘ぶりを、賞賛してやって下さいませ~。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子31

【平成20年(2008年)2月16日/一日目の様子ご紹介】
「山雨の塔」横にある「クラガーガマ」壕口の様子です。壕の洞窟空間はこのまま奥の住宅地方面に伸びています。この壕口は米軍の馬乗り攻撃により、ブルドーザーで埋められてしまったという話です。壕口は戦後復活したという事の様です。

遺骨収集の様子32

壕入り口付近の様子です。女性が進もうとしている方向が壕内となります。作業の効率性を高めるために発電機を利用して投光器を壕内に設置しました。

遺骨収集の様子33

ご覧のように壕内は小川のように常時水が流れています。沖縄戦当時はこれ程水量は無かったのではないかと推測しています。

遺骨収集の様子34

金光教の皆さんが無心に作業しています。各自持ち場にへばりつくように頑張っていました。

遺骨収集の様子35

班長の吉永さんをはじめ皆さんが泥んこになりながら、一生懸命作業を進めていました~。嘗てこれ程困難極まる作業風景は見たことがありません。皆さん本当にお疲れ様です。水が流れている位置が沖縄戦当時の路面と思われます。汚泥の厚みが本当に凄いですよね。

遺骨収集の様子36

黒く焦げた頭蓋骨を含む一体分のご遺骨を発見したアメリカグループのロンさんです。この方も金光教の遺骨収集に長年参加されているお一人です。因みに金光教の遺骨収集の内、運営委員会時代は、アメリカの軍人・軍属の方々が常時100人から200人参加されていた時代もありました。「ロンさん、お疲れ様で~す」

遺骨収集の様子37

ロンさんが銃剣が見つかったと見せてくれました。水に浸かっている為かなり錆びているようですね。

遺骨収集の様子38

アメリカグループのメンバーです。「お疲れ様で~す」

遺骨収集の様子39

ヒョエ~~~~~。(^^;)
健太郎君! 僕は少なくとも、君のその笑顔に救われたよ。

遺骨収集の様子40

少量のご遺骨と共に、万年筆・信号発信器・石けん箱なども発見されましたね。

遺骨収集の様子28

【平成20年(2008年)2月17日/二日目の様子ご紹介】
壕内はこのように立って歩ける空間が少なくとも100m以上続いています。因みに写真には丸く光る玉「オーブ」が写されています。「霊に違いない」とか「霊魂が写されている」とかの話も耳にしますが、オーブが写された写真を何十年間も撮影している体験からして、霊の現象ではなく科学的な現象であり、「水滴面に照射したストロボ光が、レンズとしての水滴面からそのまま、投射光の一部が反射してカメラの露光面に写し込まれたもの。露光面の円形の大きさは水滴の直径の大きさ、そして結露面からカメラまでの距離により決まる」と言うのが、一番適切であり正しい様に感じます。(^o^)

遺骨収集の様子29

投光器に照らされながら、班長の吉永さんや山根さんをはじめ、皆さんが昨日と同じように泥んこになりながら、汚泥を掻き出してご遺骨の有無を確認する作業を続けていましたよ。
本当に本当に、本当にお疲れ様でございます。m(_ _)m

遺骨収集の様子30

4班の女性陣も頑張って汚泥と格闘していました。

遺骨収集の様子31

奥の方を見ると高さ2メートル以上の場所まで汚泥が堆積していることが解ります。つまり台風などによる増水時は、2メートル以上も水位が上がることを意味していると思われます。

遺骨収集の様子32

ただひたすら前を向いて作業していたアメリカグループの一人ですよ。本当にお疲れ様です。

遺骨収集の様子33

彼が発見した小物をみせてくれました。小さな瓶や靴底、そして針のように尖った部分のある何かの「道具」でしょうか?。 道具の名前や使い方などをご存じの方は教えて下さいませ。

遺骨収集の様子34

ヒョェ~~~~~。 初参加の健太郎君は今日も頑張っていま~す。これが遺骨収集の全てではないからね。(^^;)
来年も必ず来るんだよ! いや来て下さいね~。(^^;)

遺骨収集の様子35

吉永さんが黒く焼けこげた脊髄の骨を見せてくれました。細かいご遺骨は散見されるとの事ですが、昨年のようにまとまったご遺骨の発見はまだ無いそうです。吉永さんが居る場所は、壕入り口から40m程の距離です。この場所で焼死したのかも…。

遺骨収集の様子36

軍靴の靴底がありました。私は何時もの事なのですが、靴底を見ると一人の兵士が亡くなった事を意味し心が辛くなります。

遺骨収集の様子37

小さなご遺骨が結構見つかっていますね。銃弾や電信を打つ機械なども見つかっています。他にも万年筆が見つかっていますが名前は確認されませんでした。

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.150

「山雨の塔」近くにある畑です。広い畑一面に見事な野菜が育っています。結球レタスですね。この畑は毎年結球レタスが栽培されていますので、連作障害が心配です。(笑)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.151

同じく「山雨の塔」近くの、マンゴーの木を育てているビニールハウスです。昨年はご主人が農作業をしていたので、声を掛けさせて頂いたところ、ビニールハウスの中に招き入れて下さり、色々とマンゴー栽培の話をして下さいましたが、今年はご主人は不在でした。残念~。(^_^;)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.152

車でしばらく進むと、刈り取ったサトウキビの茎を堆積してある場所がありましたので撮影しました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.153

このサトウキビの茎は、全部手作業で刈り取る訳ですから大変です。ただ近年は、稲刈りに用いるコンバインと同じような機能を持つ、サトウキビを自動で刈取り収穫する機械で、大型ハーベスタと呼ぶ機械も運用されているようです。この近くで一度見た事があります。サトウキビの茎をチップ状にしてしまうので、体積はかなり小さくなりますし、何よりも機械に乗って運転しているだけで収穫が完結するのですから、体力的に凄く楽になるのは明らかです。時代の変化ですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.154

こちらは、まだ若いサトウキビです。来年に収穫する事になるのでしょう。

調査・遺骨収集作業開始です

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.155

これまでに収集された一部のお金や記章を福岡さんが持参されました。清掃された一銭とか五銭の文字が見えますね。また記章も綺麗に清掃されました。色合いが少し落ちてしまいましたが、形状はより明確になりましたね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.156

天候は下り坂ですが、今日の日中は雨にはならない予感。さていきなりジャングルに入りました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.157

最初にクワズイモがお出迎えです。切り倒すと返り血を浴びる可能性があるので、なるたけ関わらないように前進します。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.158

ジャングルに入り、足下が安定したところでご記念です。戦没者のご冥福を祈り手を合わせました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.159

そして集合写真ですが、今日も福岡さんとサイト管理人の二人だけです。無事故で下山出来るように祈りつつも、ご遺骨発見に向けて頑張りましょう。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.160

これまで三日間ご遺骨発見を目指してジャングル奥深く探索作業を続けて参りましたが、そのいずれでも金光教の遺骨収集による青テープ赤テープに肩を落とす事態が続きました。そこで今日こそは金光教の遺骨収集が入ってない場所をと言う事で地域を選びました。ここなら絶対に金光教の遺骨収集は入っていないのでは‥‥。と思えるほど地形が困難な地域を選んだのでした。さてどうなりますか‥‥。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.161

最初の壕に入りました。カメラは真下を向いていて、地底にかなり大きな空間があるのが見えますね。地底に降りたいのですが、徳利状の地形でして、下に降りるのは無理なような‥‥。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.162

壕底まで3m程度です。しかしながら、降りられそうで降りられない‥‥。結局降りるルートが見いだせず、下に降りるのは断念です。壕底には瓶とかゴミが散見されますが、複数個あるのでどこからか流れてきたという印象ですね。

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壕の下には行けませんでしたが、ご覧のように、横穴があるので、こちらを探索してみましょう。

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壕の横に進んでいます。

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ご覧のように、かなり広い空間がありました。しばらく探索作業を続けましたが、特に何もありませんでした。

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壕から出ました。ちょっとした穴ですが、ライトで照らすとビックリです。結構広い空間が中にありました。付近を丹念に見渡すも、入れそうな壕口はありませんでした。

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ここも一人は入れるぐらいの横穴がありました。大きな壕はすでに遺骨収集作業が済んでいる場合がほとんどですが、こうした小さな横穴などは、見落とされた穴場としてしっかりチェックしたい場所ですよね。

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凄いジャングル帯です。前進する事さえままなりません。雲が薄くジャングルが明るいのが救いですね。(^o^)

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フィッシャーがありました。丹念に見ていきます。

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この付近は壕はありませんが、岩陰などに隠れる場所は数多くありますね。

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ここにも横穴がありますね。

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巨大な崖が目の前に現れました。本日一番の作業予定地域です。

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アップダウンが激しくなかなか崖に近づけません。

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かなり崖が近づいて参りました。崖下の探索が一番の目的ですから、崖下に降りなければなりませんが、なかなかルートが定まりません。

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ここも前に進めませんね。

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ご覧のように、私達の居る側も急な崖になっています。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.177

崖上から、本日の探索作業の場所を写しています。しかしながら、ここから降りるルートがどうしても見つかりません。即ち崖下に降りるルートが簡単に見つからないからこそ、この崖下は穴場だと昔から感じていた場所なのです。(^o^)

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福岡さんが機転を利かし、崖を降りるのではなく横穴が無いだろうかと提案しました。

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福岡さんが試しに穴の中に入っていきました。

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「何とか降りられそうだよ」との声。急に元気が出てきました。(^o^)

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お~。降りられそうです。

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福岡さんは、すでに崖下レベルに降りました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.183

崖下で、早速探索作業開始です。ご遺骨発見なるか‥‥。楽しみです。(^o^)

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慎重に床面を探索していきます。

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福岡さんが上半身を入れていますが、凄く良い横穴があるみたいです。

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その空間を撮影しました。人一人が入れるぐらいの空間ですね。直ぐに外に出られるし、至近弾の直撃も避けられる最高の場所ですね~。(^o^)

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壕を移動し別の壕に入りました。

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ガ~~ン! クマデ発見。金光教の皆さんの置き土産か~。(^_^;)

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クマデの金属部分はかなり錆びていますね。取っ手の部分は木製だったのかも? 完全に無くなっていますね。この場所こそ、金光教の遺骨収集は入っていないと確信していたのに‥‥。恐るべし金光教の遺骨収集と言ったところですね~。(^_^;)

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鉄の塊が見えますね。

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岩の上に乗せてみました。艦砲弾などの弾体に飛翔軸を中心とする回転を与える事を目的とした弾帯部分でしょうか?

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鉄の塊のすぐ横に芽吹いたばかりの種があり、それを一緒に抜いてしまいました~。可哀想なので、土の部分のなるたけ湿っている場所に植え直しました。苗君ごめんなさい。(^o^)

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地面を慎重に掘り進めます。

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作業している場所の北側上面を撮影しています。

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作業している場所の南側を撮影しています。この場所での探索作業を終えると、この南側に進んでみる予定です。前進できればそのまま前進し谷底から出るような形で前に進む予定です。

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隠れるには良い場所が多いです。あちこちにあります。

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鉄製の容器です。缶詰の缶ほど大きくは無いですね。

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ここも地面は土砂なので居心地の良いでしょう。

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缶詰の缶ですね。

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大きな一枚岩の麓は極めて安全な場所ですね。

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これも缶詰の缶ですね。

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この辺りもしっかり探索しましたが、遺品は出てきませんね。

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ご覧のように、人が通れるぐらいの開口部がありました。金光教の遺骨収集は、もしかしたら、ここから降りてきたのかも知れないです。ここから覗いた限りでは、行き来しやすい岩場だと感じました。

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鉄の大きな塊と缶詰の缶がありました。

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福岡さんの先は行き止まりのようです。

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福岡さんは狭い所を探索しています。

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横穴がありました。

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一番奥深い場所に行ってみましょう。

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最奥部です。結構な広さがありますね。写真奥から雨水が流れ出ているような感じです。地面に大雨の時に雨水が流れたような痕跡がありますね。

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ガ~~ン! 懐中電灯がありました。クマデがあったので、もう驚きはしませんが、この懐中電灯も金光教の皆さんの忘れ物でしょうね~。摩文仁海岸線を調査していると、時折ですが懐中電灯、クマデ、そしてノコギリなどが残されています。こうした忘れ物を見ると、私は羨ましくなるのです。何故かというと、忘れ物はご遺骨がその場にあった証だと思えるからです。と言うのも、ご遺骨を探している段階では、懐中電灯やクマデを忘れると言うのはまず起こり得ません。ご遺骨が発見され、複数人で遺骨収集作業をしている時に、懐中電灯などを地面に置くので、こうした忘れ物が発生する可能性が高まると思えるのです。忘れ物の全てに当てはまらないとは思いますが、その可能性が高いので、羨ましいと思えるのですね。(^o^)

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ここにも壕がありますね。

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奥から光が差し込んでいますね。先を見てみましょう。

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この先は崖になっていました。

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「ご遺骨だ」と福岡さんが声を出します。

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お~。人骨ですね。金光教の遺骨収集の取りこぼしと言う事になりますね。缶詰の缶も多い事から、この場所一帯で、多くのご遺骨が収骨されたかもしれません。

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金属探知機の反応があります。

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遺品がありました。革製品ですね。

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ここにも遺品がありました。同じく革製品ですね。

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金属探知機の反応がありますね。

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フルイで調べてみましょう。

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何度かフルイを使いましたが、特に何もありませんでした。

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この場所での探索作業終了しました。当初の予定通り南側に前進します。

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谷も少しずつ狭くなっています。

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ヒェ~。狭すぎる。と言いつつ二人共に何とか通れました。(^o^)

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狭小部分を脱出。次は降りていくようです。巨大な蛸壺と言う感じの場所に入りました。

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大きく口を開けた壕がありました。

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福岡さんが遺品を見つけたようです。

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割れた茶碗でしょうかね。

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ハトメですね。将兵の物でしょう。

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よく見る鉄の破片ですよね。何度も見ます。これは何でしょうか?

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ここにも割れた茶碗がありました。

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壕を出て南下を続けます。

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視界が開けました。右側は一枚岩の崖となっています。眼前にはトウツルモドキが繁茂していて容易には進めそうにありません。このトウツルモドキは、葉の先は巻きひげとなってからみつき、ジャングルで前に進むのを極めて困難にさせるやっかいな植物です。

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トウツルモドキせいで、前進にかなりの時間を要してしまいます。何とかしなければ!

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岩の割れ目に壕がありました。入ってみましょう。

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遺品がありました。割れた皿か茶碗ですね。それ以外はありませんでした。

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リュックサックを降ろし、しばし周囲を調査しました。

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岩の割れ目ですね。

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ここは一寸した横穴と言う感じですね。特に何もありませんでした。大きい壕は目立ちますから、こうした目立つ壕は金光教の遺骨収集で粗方調査・収集済みになっています。ですから、目の前にあるこうした「草木に隠れた一寸した横穴」というのが穴場だと思うのですよ。いつの日か、こうした目立たない場所でご遺骨発見に至る事を願っています。(^o^)

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さあここからは本日二つ目の目標地点です。もう少し絶壁に沿って進みましょうか。

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予想通り、この付近も複雑な地形をしていて壕がありそうですね。

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アダンの林に遭遇しました。アダンが繁茂しているのは、日当たりが良くて、土が少なく樹木が育たない岩場であると言う証ですね。

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岩場の壁面が煤で真っ黒ですね。砲弾が炸裂し何か燃えたのでしょうかね。

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この辺りも黒く焦げていますね。

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ここも焦げています。戦後七十余年経過して、黒の色合いは薄くなっていますが、戦後しばらくは真っ黒だったでしょうね。

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相変わらずアダン林が続きます。

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アダン林をやっと抜けました。

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ここは良い隠れ場所では? と思い入ろうとしたら。ガ~ン! 金光教の青テープが右上に巻いてありました~。青テープはご遺骨の収骨済みを表しています。この岩の割れ目の中にご遺骨があったのですね。(^_^;)

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比較的平坦な場所に出ましたね。

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人がギリギリ通れるフィッシャーがありました。入ってみましょう。

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「海が見える」と福岡さんが声を上げます。

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海が見えました。海は引き潮状態ですね。そして思いのほか海岸までの距離が近いです。

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壕がありました。入ってみましょう

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ガ~ン! 赤テープ発見。(^_^;)

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ここにも赤テープ。(^_^;)

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駄目だ。退散だ~。(^_^;)

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ここにも赤テープが巻き付けられていますね。劣化具合から相当古いテープと思われます。

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また壕がありました。入ってみましょう。

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福岡さんがビックリしたように声を上げました。

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赤テープでした~。赤テープを巻き付けておいた木が枯れてしまったようです。

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壕そのものは良い感じの壕ですね。

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ガ~ン! 今度は青テープがありました。青テープは収骨済みの印ですから、ご遺骨がこの付近にあったのですね。

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割れた水瓶ですね。

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壕を抜けました。周りは絶壁になっています。前進を続けましょう。

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次の壕に入りました。一寸狭いのですが、問題なく奥へ行けそうです。

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坑道が二つに分岐しているようです。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.267

選んだ坑道を進むと福岡さんが「海岸が近いかも」と語ります。

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本当だ、海岸に出たようです。あっという間に降りてきましたね。

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「何だこれは~」と福岡さん。

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錆びた鉄の塊がありました。沖縄戦当時の物と思われますが、長い年月の間で、岩と癒着していますね。これは海岸沿いではよく見られる現象で、これまで沢山見てきました。この現象は、錆びた鉄の塊が周りの岩石の中に沈んでいくと言う風に見えたりします。

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ビックリしました。何だと思ったら浮きの表面が壊れて内部の発泡スチロールが見えている状態だと思います。

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鉄の塊が沢山ありますね。艦砲弾の破片でしょうか?

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漁業に使う網ですよね。台風などで打ち上げられたのでしょう。海岸が近い事を感じさせてくれます。

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海岸に出ました。(^o^)

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.275

引き潮状態ですね。行けるところまで行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.276

潮が満ちるとこの辺りまで海水に浸かるのでしょうかね。写真の右側は石灰岩の岩場が削られているように見えますが、繰り返し打ち付ける波の力で石灰岩が削られている状態で、海食現象と言えるでしょう。海食が更に進むと海食洞と言われる洞窟が掘られるまでになりますね。その昔、神奈川県の江ノ島でその海食洞を見た事があります。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.277

岩場は穴だらけですが、所々白い色の物がたい積していますが、塩ですね。手に取ってなめてみましたから、強烈に塩っぱいです。(^_^;)

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太平洋の海原を前に、福岡さんは何を思う‥‥。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.279

海岸から、東側寄りの陸地を写しています。

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今度は、西側寄りの陸地を写しています。こちらの方が見通しはききますね。

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海水も澄み切っていますね。

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海水面を見ると、ご覧のように、熱帯魚が優雅に泳いでいました。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.283

本日の探索作業は終了です。帰路につきましょう。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.284

海岸まで降りたので、帰路はかなり登らねばなりませんね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.285

周囲が絶壁となっているので、ここも比較的良い感じの場所ですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.286

福岡さんと、この場所は良い感じですねなんて話し合っていたら、やはり青テープがありましたよ。この近くにご遺骨があったのですね。

令和4年(2022年)1月16日/沖縄遺骨収集の様子no.287

もう少し登るとジャングルから出られるでしょう。本日はこれで終了です。お疲れ様でした。(^o^)

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