令和04年(2022年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月19日(水) 慰霊巡拝

今日の天気予報は「曇り」で、予想最高気温18度、降水確率は40%、20%です。本日も壕内での作業となる為、雨は降っても降らなくても大丈夫です。本日朝の慰霊巡拝は、南風原町にある「南風原陸軍病院壕群」と、八重瀬町にある「アブチラガマ」を訪ねました。

また本日の調査・遺骨収骨作業は非公開となっていますので、作業記録の開示はありません。ご了承下さいませ。m(_ _)m

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.1

南風原文化センター敷地内に掲示してある「黄金森公園周辺図」です。緑色の部分が黄金森公園で、沖縄戦における陸軍病院の病院壕が数多く掘られた場所で、現在もその病院壕の一つであった20号壕が公開されている場所でもあります。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.2

南風原町にある「南風原文化センター」です。南風原文化センターは、南風原と沖縄に関する歴史資料展示が為されています。また沖縄戦に関する資料や遺品の展示、そして沖縄で長く続いた移民に関する資料展示されています。意外に意外に思うかもしれませんが、沖縄はハワイ、北米、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアへの移民が盛んだった歴史があるのですね。そして沖縄の古来からの人々の暮らしぶりなどの展示なども行っています。

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「南風原国民学校 学童集団疎開記念碑」です。南風原文化センターの正面玄関前の広場に設置されていました。碑文をテキストに起こしてみましたのでご覧くださいませ。

【南風原国民学校 学童集団疎開記念碑碑文】

昭和十九年六月の閣議決定を受け、第一次一二四人が、八月二十一日和浦丸で熊本県日奈久、坂本へ、第二次一四六人は、九月九日に一進丸で宮崎県高鍋、三財、上穂北、美々津へ学童集団疎開しました。引率教師、その家族合わせて総勢二七0人でした。

幼い学童達は、親元を離れ異郷の地で、「やーさん ひーさん しからーさん」、そして幾多の艱難辛苦を乗り越え二年余勉学に励みながら逞しく生き、昭和二十一年一0月頃に帰郷を果たしました。

ややもすると忘れ去られがちな、この「学童集団疎開」の実態と、それが「沖縄戦の一環で国策として遂行された」という歴史的事実を後世に伝え、戦争を拒否し平和を創造していくという強い意志をもって、南風原国民学校学童集団疎開記念碑を建立します。

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駐車場横に、飯あげの道や悲風の丘、そして病院壕の一つである20号壕に行く方向が記された案内板がありますので、道に迷う事は無いと思われます。

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写真奥の右側に、黄金森の山肌を登って行く道が見えてきましたね。

沖縄戦に関心がある方なら、「飯あげの道」と言う言葉を聞いた事があると思います。沖縄戦当時ひめゆり学徒看護隊員や衛生兵らが烹炊場から南風原の陸軍病院壕群までおにぎりなどのご飯を樽に入れて、竿を二人一組で担いで行き来した道のりを指す言葉ですよね。

南風原の病院壕群に食事を提供する為の烹炊場は、南風原文化センター前の県道241号線の道路を挟んで反対側の、現在の喜屋武農村公園がある場所付近だと言われています。井戸があった為にそこに決まったようです。烹炊場から陸軍病院壕群までは直線距離で500~600メートルですが、全行程の途中に黄金森丘陵がある事から上り坂下り坂とがあり、竿を担いでの道中はかなりハードであったはずです。隠れる場所もなく砲撃に晒される道中となった事でしょう。ですから朝と晩の艦砲砲撃が静まったタイミングで一気に運搬作業が進められたかもしれません。いずれにしても、丘陵の木々もなぎ倒され丸裸の状態では、艦砲弾や敵戦闘機のターゲットななりやすかったのは間違いなく、多くの犠牲者も出した事でしょう。本日はその「飯あげの道」を一緒に歩いてみましょう。

「飯あげの道」

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「写真に写されている樹林帯を黄金森と呼びます。そして眼前にあるのが飯あげの道」ですね。現在上り坂は石畳の道になっていますが、沖縄戦当時はあぜ道のような狭い土の道でした。山頂から降る部分には、そうした沖縄戦当時そのままの飯あげの道が残されていますので、往事の急傾斜であるが故に往来が困難な山道を体感する事が可能となっています。

それはともかく、雨が降ってきましたね~。(^_^;)

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「沖縄陸軍病院南風原壕群周辺案内図」です。図の下の方に、「陸軍病院の炊事に使用された井戸」と書かれている箇所があります。その付近が烹炊上場壕があった場所と思われますから、そこから黄金森の反対側に無数に掘られた病院壕まで、ご飯や味噌汁などを看護婦や従軍学徒が運んだのでした。

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「飯あげの道」の説明です。具体的でリアルなので理解しやすいですね。

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「飯あげの道」を50メートル程登ると、右側にご覧のような「悲風の丘」碑が見えてきます。

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複数の慰霊塔が並んでいますので見落とす事は無いですね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.11

「沖縄陸軍病院(球18803部隊」と題する説明板です。読みにくいのでテキストに起こしましたのでご覧下さいませ。

沖縄陸軍病院(球18803部隊)

第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立二中に兵舎を置いていました。病院長は廣池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300人余の体制でした。

ところが、1944(昭和19)年10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945(昭和20)年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒および引率教員237人が、看護補助のために動員されました。彼女たちは戦後、「ひめにり学徒隊」と呼ばれます。

米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余の壕(通称:南風原陸軍病院壕)へと移動しました。外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められたのです。

5月22日、首里城地下におかれた第32群司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へと移動することになりました。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕趾」碑には、「重症患者二千名余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだに明らかではありません。

1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。第二次大戦の戦争遺跡としては全国で初めてのことでした。

現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。その他の壕は入り口が落盤しているため、琉球大学考古学研究室の協力で、壕の位置を調査しています。

詳しくは、「南風原文化センター(電話098-889-7399)」「ひめゆり平和祈念資料館(098-997-2100)」にお問い合わせ下さい。

南風原文化センター 2002年 

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「天つ日も おたしき光をそそげかし 傷負い眠る丘のみたまに」と詠まれています。

「悲風の丘碑」

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「悲風の丘碑」です。南風原にあった沖縄陸軍病院で戦死した二千名余名が祀られています。初代の「悲風の丘」は、昭和28年に建立されました。写真のは昭和41年3月となっていますので、改装後の塔だと思われます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

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「悲風の丘碑」の説明書きですね。

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「悲風の丘」碑から少し奥に進むと、ご覧のような「南風原陸軍病院壕趾」があります。

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この説明板も古いのですが、清掃され綺麗になったので文字が読めるようになりましたね。

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「南風原陸軍病院壕趾」の背後に病院壕があったのだと思います。30年ぐらい前は壕口だけ樹木が無くて、むき出しの斜面に土砂を詰めて埋めた‥。みたいな雰囲気があったのですが、戦後75年を経た現在は斜面にある草木もほぼ同一となり、嘗てここに壕があったという雰囲気はほとんど無いという印象です。

因みに「悲風の丘」は、「埋没壕上の建碑運動」の流れで建立された慰霊塔の一つです。1972年(昭和47年)5月に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されましたが、それまでは日本政府が琉球政府に直接、遺骨収集や納骨堂整備に関わる資金を直接交付出来なかったので、日本側は南方同胞援護会や沖縄遺族連合会が窓口となって推進されていました。

そうした南方同胞援護会や沖縄遺族連合会による遺骨収集や納骨堂整備、そして建碑運動の中で、沖縄遺族連合会による事前調査で、埋没壕について崩落等の危険があり、壕内での遺骨収集の実施が不可能だと判定された壕については、慰霊碑の建立をもって遺骨収集の代わりとするとされました。この様な埋没壕上の建碑運動により生まれた慰霊碑は、「悲風の丘」(南風原町)の他に、「真和の塔」「不抜の塔」「眞山之塔」(以上糸満市)の四カ所が挙げられます。

という事で、南風原陸軍病院壕趾の塔が立つ所の病院壕は、沖縄戦終結時もしくは戦後入り口や内部が落盤していたと考えられますね。即ち遺骨収集は為されていない状態のまま、壕内に入るのは危険とされたのだと思います。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.18

壕口は完全に塞がれ、痕跡すら見当たりませんね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.19

「悲風の丘」と「南風原陸軍病院壕趾」の慰霊巡拝を終えたので、ここからは「飯あげの道」を辿りながら、ひめゆり学徒看護隊や衛生兵の人達の体験した苦難を、可能な限り再体験してみましょう。

と言いつつ、ご覧くださいませ。「飯あげの道」は完全に遊歩道として舗装されたり階段まで設置されていますので再体験というにはちょっと無理がありますね。但し山上と言える稜線から降りて行くルートでは、まだ往事の「飯あげの道」がそのまま残存していますので、少なからず当時のご飯運搬の困難さは再体験できるはずです。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.20

まだまだ登っていきます。現在はコンクリート舗装となっていますが、土の道だと傾斜がキツいので雨の日なんかは滑りそうですね~。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.21

最後の階段の先は明るい事から、稜線に到達するようです。あと一息ですね。最後の階段辺りは、ご覧のように、かなりの急勾配であるのが解ります。沖縄戦当時は土の道でしたから、梅雨時などは極めて滑りやすい状態だったでしょう。そして沖縄戦当時は、樹林は全て砲撃で吹き飛ばされていたはずで、隠れながら前進するなどは不可能であったと思われます。艦砲弾が付近で炸裂すれば被弾は免れないという印象ですね。「飯あげ道」は、自分自身が丸裸であると認識せざるを得ない、極めて危険な場所に感じられます。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.22

山頂部分に到達しました。まだ標高の高い場所があるので、山の峠越えみたいな場所ですね。ここからは下り坂となりますね。写真は木造階段を写しています。この木造階段は雨の日などは、本来の飯あげの道が滑りやすくなるので、その場合は滑って転ばないように、この木造階段を使って下さいとの趣旨で設けられているようです。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.23

この小道が本来の飯あげの道です。沖縄戦当時も今も土の道であるのが解ります。稜線であるこの場所からは下り坂になりますが、ご覧のように結構な下り勾配ですから、雨で滑りやすい状態の場合は、上の写真で紹介した木造階段を利用した方が、安全に降りて行けるでしょう。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.24

飯あげの道分岐点の右側を見ています。「喜屋武シジ入口」と書かれています。シジとは、地元の方言で高い場所を意味するようですね。と言う事で、黄金森で最も標高の高い場所がこの先にあるみたいですから行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.25

結構な登り勾配ですね。土が乾いていて歩きやすいのがラッキーでした。大勢が見学に訪れるのでしょうか。雑草が無く道が出来ていますよ~。(^o^)

昔日の話ですが、南風原文化センターが現在地に移転する前に、飯あげの道を歩いてみようと、この地に訪ねて来た事がありました。当時は駐車場は勿論、案内板が無くて飯あげの道や「悲風の丘碑」の所在も容易に解りませんでした。地下道手前に車を停めて何とか到達した次第です。且つこの喜屋武シジへ至る山道も雑草が生い茂り、山道があるとは思えないような雰囲気でしたから、近年は沖縄戦戦跡と言う視点から整備が進み、黄金森公園は正に様変わりしましたね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.26

黄金森の一番高い場所に出ました。四方雑木が高く伸びているので、周囲の景観を見る事は叶いませんでした。その昔に訪れた際は、山上は放置され荒れた状態でしたから、鬱蒼として暗い雰囲気で直ぐに帰りたい気分になりましたが、今はこうして切り開かれ明るい雰囲気となっています。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「日本軍兵士埋葬地点」と書かれています。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.28

飯あげの道分岐点に戻り、今度は左側を見ています。「仏ぬ前(フトゥチヌメー)」と言う拝所がこの先にあるようです。行ってみましょう。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.29

遊歩道を50m程進むと右側に何やら見えてきましたよ。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.30

「仏ぬ前(フトゥチヌメー)」です。香炉も置かれ、歴史のある近隣集落の拝所のようですよ。「仏ぬ前」にまつわる言い伝えがあり、「その昔、地域には税金を徴収する係が悪者で、賄賂を渡さない人達には、勝手に税を増加するという酷い行いをしていたが、困り果てた人達が仏の前で手を合わせ拝むと、翌年真面目な人が税金徴収係に変わり、地域の人々は安心して暮らせた‥‥」との事ですよ。(^o^)

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遊歩道は更に奥まであるので、この先何があるのか興味が沸き先に進んでみました。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.32

更に先に進みましたが道が続くだけなので引き返しました。(^_^;)

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.33

飯あげの道分岐点に戻りました。今日は雨は降っていないので、本来の飯あげの道を降りて行ってもよいのですか、どのみち往復する訳ですし、土の道での下り坂は滑りやすいので、まずは木造階段を降りて、帰りは登り坂となる本来の飯あげの道を通りたいと思います。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.34

それでは木造階段を降りて行きましょう。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.35

結構複雑な構造をしています。勾配を緩くする為でしょうか、階段は横にも伸びています。この辺りは床面の木材が濡れていますね。木材が劣化しているので吸水量が多く、雨が降った後も長く乾かないのだと感じました。と言う事で、この木造階段は思いのほか滑りやすい印象を持ちました。滑り止めとしてのノンスリップ部も無いので注意を要します。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.36

下の舗装路面が見えてきました。木造階段もあと少しです。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.37

オッ床に穴が空いていますね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.38

ご覧のように、木材もかなり劣化していますね。樹林帯の中の木造階段は寿命が短いですね。話は飛びますが、摩文仁之丘の黎明之塔付近の北斜面にある木造階段も、直ぐに歩行が危険となり短命に終わりました。現在はアルミ製と人工木材で作り替えられましたね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.39

無事に山裾の舗装路面に出ました。木造階段を降りきると、ご覧のように、案内板がありますので、道に迷う事はありませんね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.40

木造階段から見て左方向を見ています。沖縄戦当時はこの辺りも樹木はなぎ倒され裸同然だった事でしょう。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.41

道すがら、案内板がありました。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「陸軍病院の仮埋葬地」と書かれていますね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.43

「沖縄陸軍病院南風原壕群周辺案内図」です。ギリギリ読めますかね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.44

山裾にご覧のような建物があります。建物は20号壕の受付・管理事務所ですね。ここは裏口と言える場所ですから、道なりにそのまま前進しましょう。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.45

こちらが20号壕の入り口となっています。車で来られる場合は、こちら側に到着する事となります。それでは階段を上がって行きましょう。

「沖縄陸軍病院20号壕」

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.46

平成19年(2007年)に公開された20号壕です。左側の建物が受付・管理事務所で、右側のドーム型の建物が、20号壕入り口で、壕口はご覧のように、アルミ製の開閉扉が設けられています。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.47

ご覧のように、壕口はアルミ製のドアが設けられています。扉を開けるとすぐに壕の坑道になっているのが解ります。アルミ製の開閉扉は、壕内の湿度や温度を可能な限り一定に保つ為に設けられています。もしも開閉扉が無かったら、壕内はあっという間に乾燥化が進み、壁面は剥落してしまうでしょう。将来的には落盤の可能性も高まってしまいます。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.48

壕内の展示物等を紹介している掲示板です。ギリギリ読めますね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.49

受付・管理事務所の寂れた様子からして、武漢コロナが蔓延してからは、受付を取りやめている雰囲気ですね。

振り返りますと、南風原(はえばる)は戦前から今日に至るまで、首里・那覇と島尻を結ぶ交通の要でした。現在の沖縄にはモノレール以外の鉄道はありませんが、戦前は南風原に沖縄県鉄道(軽便鉄道)の与那原線と糸満線が乗り入れていたのですね。

南風原の地理的な有用性を第三十二軍も注目し、昭和19年(1944年)3月に編成された沖縄守備軍である第三十二軍の司令部も、南風原の西側に位置する津嘉山に構築されたのです。突貫工事で進められた地下壕は総延長2キロメートルにも及び、天井や床には板がはめ込まれ、発電機による電灯設備も整い、まるで地下要塞であったといいます。

津嘉山を軍の拠点として一帯に各部隊を配置し整備を進めていた第三十二軍ですが、南部に布陣していた第九師団が同年12月に台湾に転進した為、第三十二軍は補充無しの主要部隊の転進に衝撃を受け、「戦略持久の方針」に切り替えざるを得なくなり、首里の地下に司令部壕を移すという決定が為されたようです。

また昭和19年「十・十空襲」と呼ばれる、米軍軍機延べ1,396機による激しい空爆により、旧那覇市街の90%が焼失し、飛行場や港湾施設などが壊滅的に破壊され、また県民の一ヶ月分の食糧30万の米俵を失ったりもしました。(米軍によるこの無差別爆撃は、完全に国際法に違反しており激しく非難されるべきものです)

この十・十空襲大空襲により、米軍の砲爆撃の破壊力の凄さを知り、津嘉山の様な土をくり抜いた壕では、爆撃に耐えられないと判断した事も、司令部を首里に移転する決定を下した要因ともなったようなのです。第32軍司令部は首里に移転しましたが、予想される米軍の上陸地点が中部か港川のどちらであっても、南風原の兵站基地としての利便性は変わらないので、南風原の各地に糧秣・兵器敞部隊や陸軍病院の各部隊が駐屯しました。

沖縄陸軍病院は第三十二軍の直属の病院部隊として、昭和19年6月に那覇にて編成されまして、十・十空襲により那覇市内が壊滅的な被害を受けたことから、その日の夜南風原の国民学校に移動してきました。

昭和20年3月には沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒ら222名が教師18名に引率されて、看護補助要因として沖縄陸軍病院に動員されました。4月1日沖縄本島に米軍が上陸し、地上戦が開始されると、負傷者が急増し次々と運び込まれ、外科を第一外科・第二外科・第三外科など組織替えして対応しました。

戦況の悪化と共に南風原も激しい空爆を受けるようになり、国民学校なども次第に危険になったので、黄金森一帯に掘られたおよそ30本の構築壕へ移動し、看護活動が継続されました。そして5月下旬第三十二軍司令部の首里撤退の決定に伴い、陸軍病院にも同月23日までに、南部へ撤退するようにと命令が届いたといいます。

撤退に伴い重症患者を搬送する余力もないことから、自力で動けない患者には青酸カリ入りのミルクを飲ませたりした壕もあったようですが、衛生兵の判断で青酸カリを廃棄したところもあったようです。この日の南風原からの撤退により、沖縄陸軍病院としての機能は尽きてしまったと言えるかも知れません。

南風原町では平成2年に、陸軍病院壕が「沖縄戦の生き証人であり、町民のかけがえのない共有財産である」との理由で戦跡文化財に指定しました。現存する第一外科壕群と第二外科壕群がその対象となったようです。平成8年には「南風原陸軍病院壕の保存・活用」の答申が発表され、第20号壕の考古学的手法による、発掘調査および一般公開に向けての整備が進められたのでした。

平成19年(2007年)に公開された20号壕ですが、その翌年に見学した記録がありますので、皆様にご紹介致します。当時は予約制となっていましたが、ダメ元で訪ねてみました。

黄金森公園に到着したのは午後の4時半過ぎでしたでしょうか。他の見学者は誰もいないようでした。二人の年輩のご婦人が、寒いのかコートを羽織り(私はちっとも寒くないのですが)待機所のような建物で本を読んだりして休憩していました。私は恐縮しながら挨拶をして、「予約無しでは見学できないのですか~」と訪ねてみました。

そしたらご婦人が「大丈夫ですよ予約が無くとも」と答えてくれたのです。そしてすぐに案内してくれるというのです。「あそこで入場券を買って下さい」と促され、チケットを購入したら、懐中電灯を手にしたりヘルメットを被ったりと、あれよあれよという間に見学の準備が整ってしまいました~。

と言う事で、十分に経験を積んだガイドさんによる案内で、20号壕内部の様子や沖縄戦当時の南風原の置かれた戦況など、詳しく解説していただきました。見学料は個人で300円、壕見学の所要時間は20分ぐらいだったと記憶しています。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子26

【平成20年(2008年)2月14日撮影】
平成19年(2007年)に公開された沖縄陸軍病院 南風原壕群20号壕の壕口や受付事務所の様子です。公開後まだ一年経過していないので、建物などの施設はピカピカです。

遺骨収集の様子27

20号壕の入り口です。壕口は二カ所ありますが、こちら側からの一方通行のようです。ご覧のように、壕内の乾燥を防ぐために開閉ドアが設置されていました。

※拡大表示出来ます

南風原20号

南風原壕群20号壕の解説板です。拡大して読んでみて下さいませ。

遺骨収集の様子28

南風原にある壕群は「構築壕」といいまして、人間が山の斜面を掘って作った壕なのです。沖縄戦当時は機械力もないので、このようなツルハシで一生懸命掘ったわけですね。

遺骨収集の様子29

5月下旬首里の第三十二軍司令部の南部撤退に伴い、沖縄陸軍病院も順次南部に後退しました。東側壕入り口に埋められてしたこれら医薬品は、撤退に際し持てない分を埋めたと見られます。

遺骨収集の様子30

壕内部の様子です。米軍の火炎放射攻撃により天井などがかなり黒ずんでいます。この20号壕の地盤は乾いていますが、水浸しの壕もあったようです。ひめゆり学徒の証言によれば、「壕内は絶えず地下水が滲み出て、まるで泥田のようだったが、その上に丸太が敷き並べてあって、生徒達はその丸太の上に、持って来た布団や毛布を置いて生活した」と述べています。

遺骨収集の様子31

米軍の火炎放射攻撃により焼けたとみられる坑木です。木材がこれだけ燃焼してしまうのは、相当長時間火炎放射を浴びたものと推測されます。

遺骨収集の様子32

坑木は半間(90cm)間隔で設置され、壕内空間は幅・高さ共に1間(1.8m)で、軍の標準的な構築寸法で掘られました。

遺骨収集の様子33

各壕は他の壕と連接していたりします。この先は19号・21号壕に繋がっているようです。ここから先は、現在落盤もあり危険なので立ち入り禁止となっています。

遺骨収集の様子34

壕の外に出ました。20号壕の東側出口付近ですね。この解説板の下に冒頭で紹介した医薬品が、写真のように埋められていたといいます。

遺骨収集の様子35

ガイドのお二人ですよ。20号壕を解説する登録ガイドは、南風原町だけで50人以上居られて、予約状況により交代で案内所に詰めているという話です。今回は右側の方に案内していただきましたよ。丁寧な解説ありがとうございました。(ホームページに掲載する旨の了解を得ています)

過去写真掲載はここまでです。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.50

「沖縄陸軍病院24号壕」があった場所です。完全に埋没し壕があった雰囲気さえもありませんね。ここは20号壕から50mも離れていない場所にありますから訪ねてみて下さいませ。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.51

「沖縄陸軍病院24号壕」の解説文です。ギリギリ読めますかね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.52

それでは帰りましょう。(^o^)
帰路は本来の飯あげの道を通りますよ。ひめゆり学徒達は看護活動だけでなく、食料運搬もやりました。百人分の食料約14キログラムを、南風原村にある炊事班の壕から、この南風原の壕群まで運んだのです。食料運搬中にひめゆり学徒の二人が、至近弾を浴びて負傷したそうです。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.53

序盤から結構な登り勾配ですね。黄金森公園の樹林帯には、太い木があまりありませんね。激しい砲爆撃を受けて、ほとんどの樹木がなぎ倒されてしまい、今ある樹木は戦後育ちなのかも知れませんね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.54

急勾配がずっと続いています。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.55

勾配が少し緩くなり歩きやすくなりました。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.56

稜線が見えてきましたよ。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.57

稜線に出ました。十字路でもありますね。直進すると車を停めてある南風原文化センターへ至ります。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.58

稜線からの石造階段です。上から見ると、かなりの勾配であるのが解ります。沖縄戦当時は、ここが土だった訳ですから、かなりの急勾配であるが故に、飯あげも本当に大変だったと思いますね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.59

また階段がありますね。急勾配である証ですね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.60

南風原文化センターと共に市街地が見えてきました。南風原陸軍病院の将兵や女子学徒、そして入院患者の食事は、写真の範囲内で、且つそう遠くない場所にあった炊事班の壕で烹炊されたものが運ばれていました。沖縄戦当時の南風原村喜屋武部落にその壕はありました。

次は南城市にある糸数壕(アブチラガマ)を目指します。南風原からだと、県道86号線経由が一番解りやすいかも知れませんね。私はカーナビを使わないので、地図を見ながら道路を走る場合ですが‥‥。カーナビの場合は「南部観光総合案内センター」で検索すると出てくるかもですね。同施設でアブチラガマの入場券を購入して入壕すると言う流れになります。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.61

次は南城市にある糸数壕(アブチラガマ)の案内板が見えました。「南部観光総合案内センター」も奥の方に写されています。実は久しぶりの訪問だったので、一度同センターを通り過ぎてしまい戻って来て撮影しました。(^_^;)

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.62

「南部観光総合案内センター」です。この「券売所」と書かれた看板はとても目立つので、遠くからでも発見しやすいと思います。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.63

「南部観光総合案内センター」です。ここで入壕券を買い求めます。またガイドを依頼する場合は、ここで申し込みをする事になります。事前に予約しておけば安心ですね。ただ私は平成22年(2010年)に訪ねた際は、予約をしていませんでしたが、ガイドの依頼をしたら、他の見学者の方と一緒でしたが、ガイドを付けて頂きました。係員の説明では、団体予約が入っていると、飛び入りの個別ガイド依頼は無理みたいです。当時は、ガイドの説明を聞きながら入壕出来て本当に良かったと強く感じた経験があります。ですから突然の訪問であっても、ダメ元でガイドの依頼をしてみたら良いと思います。(^o^)

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.64

今回は入壕しないので入壕券は買いませんでした。「南部観光総合案内センター」から見ると西側になるのですが、アブチラガマの壕口は、この写真の奥まった所にあります。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.65

「八九式十五糎加農砲」です。沖縄戦が始まる前に、旧大里村に布陣した独立重砲兵第百大隊の砲が保存されている模様です。現在の南城市は、沖縄戦当時の玉城村、知念村、佐敷村、大里村の四村が合併して誕生しました。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.66

道すがら、「糸数アブチラガマ」の案内板が見えてきました。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.67

「糸数アブチラガマ」 の沖縄戦当時の配置と概要が書き記された案内板です。同壕は全長270メートル余りの自然洞穴ですが、現在壕内には照明設備がありません。懐中電灯を消すと、黒よりも濃い闇の空間となりますが、あえて照明設備を設けないのは、入壕者に戦時下の洞窟内の暗黒の闇を追体験して頂く為のようですよ。

「洞窟内が暗かったからこそ、生きながらえた…」と生存者は語ります。あちこちに山のように散乱する死体、ウジが湧き耐え難い腐臭を放つ死体…。暗い闇はこれらの全てを隠してくれたのです。腐臭を放つ死体がすぐ横にあったとしても、見えなかったから耐えられたという話のようです。想像だにしない凄惨な地獄絵が「糸数アブチラガマ」の中で展開していたのですね。

【糸数アブチラガマ】

このガマは、全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まった。20年3月23日南部が艦砲射撃を受け、翌24日から、糸数の住民約200名がこのガマに避難した。その当時は、日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の避難壕とて使用されていた。

地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃、南風原陸軍病院の分室として糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されてきた。このガマも危険になってきた5月下旬の撤退まで陸軍病院として使用された。病院の撤退後は、重症患者は置き去りにされ、米軍からの攻撃もたびたび受け悲惨を極めた地獄絵が展開された。しかし、このガマのおかげで生き延びた人達がいることも忘れてはならない事実である。

このガマで亡くなられた方々の御遺骨は戦後、糸数住民と関係者等によって収集され、「魂魄塔」に合祀された。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.68

道路を歩いてきて右側に、「糸数アブチラガマ」の入り口があります。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.69

通路はテントですが屋根が設けられていますね。団体で雨の日に見学する場合には助かる施設だと思われます。この先に管理人が常駐する場所がありますので、そこで入壕券を提示する事になります。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.70

ここが壕口です。壕は一方通行ですから、ここが入り口となりますね。入場券を受領する管理人が居ますから、券無しではこの場所での撮影が限界です。壕内は撮影禁止となっていますのでご注意下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

糸数アブチラガマ1

【平成22年(2010年)2月16日撮影】
「糸数アブチラガマ」は一方通行ですから、ここが順路としての壕入り口にあたります。壕は全長270メートル余りで、ガイド同伴の場合所要時間は40分以上必要だとの話です。米軍の馬乗り攻撃を受け、地獄絵と化した凄惨な壕内で、悲しくも非業の死を遂げられた戦没者の為に、これから心を込めての慰霊の旅に出発してりまいります。

※壕内は撮影禁止のため、写真はありません。ご了承くださいませ。

糸数アブチラガマ2

こちらは順路としての出口となるようです。米軍の馬乗り攻撃により、この出入り口から半月以上にわたって毎日爆雷攻撃やガソリンを流し込まれるなど激しい攻撃を受け、壕内に居た多くの人達が苦しみ悶えながら死んでいきました。何とこの出入り口は、最終的にブルドーザーで埋められてしまったようなのです。

糸数アブチラガマ3

壕から出てすぐの所に慰霊碑があり、私達はそちらに誘導されました。真新しい千羽鶴が目を引きました。「糸数軍民慰霊之塔」です。碑には「大東亜戦争沖縄戦線戦没者の墓」と書き記されていました。

糸数アブチラガマ4

右側の女性がとても解りやすく説明し案内して下さった地元のガイドYさんです。 ありがとうございました。左側の男性は、偶然に一緒に壕に入る事となった方で、何度も沖縄に足を運び、沖縄戦の戦跡を訪ねている方だそうですよ。頭が下がりますね。(ホームページに掲載する旨の了解を得ています)

「糸数アブチラガマ」に関わる沖縄戦前後の経過をざっとおさらいしますと、このガマは全長が約270メートルに及ぶ自然洞穴で、昭和19年7月頃から日本軍の第9師団第19連隊が、陣地としての整備を開始しました。その後独立混成第44旅団の工兵隊が、米軍の港川方面からの上陸に備えて内部空間を更に整備し、地下陣地壕として軍装品を備蓄し長期戦闘に関わる応戦態勢を構築したのです。

昭和20年2月になりますと、独立混成44旅団歩兵第15連隊、通称美田連隊が戦闘指揮所として入りましたが、同時に第32野戦貨物廠部隊が食料や衣類などを搬入し、備蓄倉庫にもなったようです。同年4月1日、本島での戦闘が始まり、4月下旬になると美田連隊は首里戦線防衛の為に前線に出動して行きましたが、再び戻ることはありませんでした。

下旬本島での戦闘は益々激しさを増し、美田連隊が出動していったのと時を同じくして、アブチラガマは沖縄陸軍病院の糸数分室として、病院壕として使用されるようになり、連日運び込まれる傷病兵の看護・治療にあたる場となりました。壕内には水が流れており、その点では恵まれた環境だったといいます。

守備軍の首里撤退以降は南部での掃討戦が激しくなり、5月25日頃ついにアブチラガマの陸軍病院糸数分室に撤退命令が出るに至り、病院は解散しました。撤退の際に歩けない重傷兵などは置き去りにされるという悲劇が発生してしまいました。

陸軍病院が撤退後は、敗残兵や避難民混在の壕となり、米軍に壕を発見されてからは、半月以上にわたって毎日爆雷攻撃やガソリンを流し込まれるという、激しい馬乗り攻撃を受け、また最後には出入り口を塞がれるなどして、累積数百名が殺されたと言われています。

特にガソリン入りドラム缶を投げ込まれたケースでは、ガソリンが土に染みこみ、長期にわたって燻った結果、壕内に居た重症患者の肺を痛めるなど生存を危うくし、次々に亡くなっていったという証言があります。米軍の馬乗り攻撃に耐え、入り口を塞がれても、命をつなぎ生き延びた敗残兵と避難民とが、投降に応じたのは8月と9月に入ってからでした。

この参加記を読んで下さっている皆さまに、読んでみる事をお勧めしたいのが、「糸数アブチラガマ」から奇跡的に生還した数少ない負傷兵が書き記した著書、 「今なお、屍とともに生きる」 です。

「今なお、屍とともに生きる」 沖縄戦嘉数高地から糸数アブチラガマへ

日比野勝廣著 夢企画 平成20年(2008年)初版

著者の日比野勝廣さんは、平成21年の7月29日にお亡くなりになったようです。

日比野さんは、「糸数アブチラガマ」から奇跡的に救出された八名のうちの一人です。救出された八名の方もご高齢になり、日比野勝廣さんが亡くなられた当時、すでに日比野さんがただ一人の生存者だったと言いますから、これで「糸数アブチラガマ」から救出された生存者は、八名全員がお亡くなりになってしまったという事になりますね。

日比野勝廣さんは享年87歳でしたが、戦後沖縄戦で亡くなった戦友の慰霊にと沖縄に110回も出かけたそうです。生前「自分が死んだら、皆の所に戻りたいので、骨をガマの井戸あたりに散骨してほしい」と娘さんに語っていたと言います。

日比野勝廣さんは、第62師団(石部隊)の中核大隊のひとつ、独立歩兵第23大隊の兵員として、昭和19年8月輸送船対馬丸で那覇港に上陸したそうです。

昭和20年3月26日米軍は慶良間列島に上陸を開始し、4月1日本島へも進撃を開始しました。そうしたなか、日比野勝廣さんが所属する第23大隊に出撃命令が下り、4月9日からあの「嘉数高地」での戦闘に参加したと語ります。

4月19日未明から始まった米軍の総攻撃の、戦車30両のうち22両を破壊・擱座するという、あの有名な太平洋戦域における米軍戦車隊最大の損害をもって撃退した、「嘉数の対戦車戦」にも関わっていたといいます。

前線での筆舌に尽くせない火炎の海、炸裂する砲弾の恐ろしいほどの破壊力、昼と欺く照明弾、流星のごとく流れる曳光弾…。戦場を戦い抜いたものしか知り得ない、凄まじい光景が著書には書き記されています。

前線で戦い抜いた日比野さんも、5月2日現在の浦添市安波茶での戦闘(101高地)で遂に負傷し、前線を離脱、戦場をさまよいながらも小禄部隊医務室にたどり着き、南風原陸軍病院そして「糸数アブチラガマ」へと後送されていきましたが、途中傷口が腐りウジが湧き、九分九理死ぬと言われる破傷風になってしまうなどして、生死の境をさまよいましたが奇跡的に回復した経緯も詳細に書き記されています。

この本は、「戦争で亡くなった人たちの無念さを伝えたいと思うようになった」と語る、日比野勝廣さんの娘さん4人が企画し自費出版したものです。日比野勝廣さんが書き留めていた戦場の手記を主体に、戦後の家族との関わりや復員後の日比野勝廣さんの娘さんたちから見た姿を描き出しています。

日中の作業は、非公開での調査・遺骨収集を実施しました。ご了解下さいませ。m(_ _)m

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