令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月17日(日) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今朝の時点での天気予報は「雨のち曇り」で、最高気温17度、降水確率は50%、30%です。ホテルを出発する際は、すでに弱い雨が降っていましたが、回復傾向にある事から作業開始時刻辺りでは、雨が止む可能性がありますね。本日朝の慰霊巡拝は、「具志川城跡」「平和之塔」、そして調査・遺骨収骨作業を終えてから、「沖縄工業健児之塔」「沖縄平和祈念堂」「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」を訪ねました。

「具志川城跡」

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糸満市喜屋武にある「具志川城跡」を見学しようとやって参りました。同城跡は喜屋武岬と言う断崖絶壁の突端に築城されたものです。現地に来てみると工事中で中に入れません。因みに平成22年(2010年)に来た時も工事中でした。10年以上工事が続いているのですね。とは言っても当時は中に入れましたし、最先端の崖まで行けて城内を問題なく見学できました。ですが今回はここから先は立ち入り禁止のようです。残念~。

所在地ご紹介

「駐車場はあります。トイレはありません」

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「具志川城跡」の説明板がありました。読みにくいので、テキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。

【具志川城跡】

史跡 具志川城跡 昭和47年5月15日 国指定
この城は、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下って二の丸、さらに一段下って本丸が海に突き出ています。石垣は珊瑚性石灰岩の野積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。城の規模は、長さが東西82~3路メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルです。

二の丸には穴(俗に「火吹き穴」)があって海に通じています。久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)鞍司が伊敷索(いしきなわ)鞍司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれています。その真偽は不明ですが双方の立地や規模、構造はよく似ています。

沖縄県教育委員会 昭和53年3月31日

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荒崎海岸にもあった糸満市のバス停がここにもありました。便利になりましたね。

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具志川城跡前にある駐車場です。多数駐車できますが、サーファー達や海水浴シーズンは、ちょっと厳しいでしょうか。

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無人販売所がありました。中を拝見させて頂きましょう。

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一個百円て書いてありますから、この7本入ったニンジン袋は百円ですよね。安い感じがします。

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下の段には、ダイコンとかサトウキビが置いてありました。

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具志川城跡入り口で立ち止まっていると、ゾロゾロとサーファーらしき人達が、立ち入り禁止の看板を掻い潜って中に入って行くではありませんか。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の例え通り、私も釣られて中に入ってみました。サーファー達は写真左の所から下に降りて行きます。

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サーファー達が降りていく場所を良く見ると、工事用の足場階段がありました。ここから海岸まで一気に降りられるのでしょう。

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足場階段が設けられている場所は、比較的緩斜面になっていますね。具志頭城跡前の海岸線は、海水浴客の人気スポットらしいので、足場階段が無い時も、ここから海岸へ行き来していた可能性がありますね。

動画ご紹介

「【糸満の史跡】修復工事が終わったのか?具志川城跡も入れて絶景だった!」

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「具志川城跡」に続いて、同じ喜屋武岬に隣接するようにある「平和之塔」を慰霊巡拝しましょう。距離は凡そ500mです。と言いつつ同塔を探すのは結構大変なのです。前回の訪問は11年前ですから、道順はすっかり失念しています。「平和之塔」は写真の遠望される風景の中にあるのは間違いないのですが、何しろ農道が縦横に走っているので、どの道を進めば良いのか迷ってしまいます。

因みに私はカーナビは意図的に使っていません。沖縄遺骨収集を始めた頃は、カーナビそのものが発明されていなかったのですが、その後カーナビが普及するにつれて私も使うようになりました。しかしながら、ある時に気づいたのです。「カーナビに依存していると、何時になっても道を覚えない」と言う事に。これをデメリットと感じた私はカーナビをキッパリ止めました。

頭を使わないようにする便利な機器に依存すると、一方でまた失われる物もあると言う事ですね。今では止めて良かったと感じています。勿論今回のように、あちこち余計に走ってしまいますから、時間を浪費してしまう場合もありますが、カーナビに頼らずに、地図と自分の頭を頼りに車を走らせると、少なくとも目的地への距離感と方向感は確実に脳裏に残像として蓄積されていきます。そうです。メリットとして頭の中に広大な地図が形成されていくのです。このメリットは計り知れない程有意なものです。ぜひ皆様も試してみて下さいませ。(^o^)

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多少行きつ戻りつしましたが、あまり無駄な時間を費やすこと無く「平和之塔」駐車場に到着しました。以前訪れた時には広場に休憩所があったのですが、ご覧のように改築工事が進んでいるようです。

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接近して見てみましょう。工事が完成すると、写真右側のあるようなとても先進的なイメージの施設になるようです。期待したいですね。

「平和之塔」

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「平和之塔」は糸満市喜屋武集落及び周辺海岸で戦死した将兵や住民、一万余柱が合祀されています。沖縄県民や守備軍将兵は、米軍の侵攻に否応なく砲火の中を掻い潜り、島尻である喜屋武に追い込まれていきました。そして文字通りの殺戮戦が展開されたのでした。同塔は、昭和27年10月に糸満市字名城にある名城ビーチに建立されましたが、使用44年3月に同地に建立されたものです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはあります」

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碑文ですね。テキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。

【平和之塔 碑文】

第六二師団管下部隊は喜屋武複廓陣地において摩文仁の第三十二軍司令部向け進攻を続ける米軍に対し最後の迎撃を続けしが善戦空しく昭和二十年六月二十日玉砕せり

昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦斗に協力散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納し平和の塔と名つけしがこのたび南方同胞援護会の助成を得て新たに塔を建てその偉烈を伝う

昭和四十四年三月 
財団法人沖縄遺族連合会 

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「平和之塔」から東側を見ています。相変わらず20m前後はあると思われる断崖絶壁が遠くまで続いています。ここからの風景は、太平洋の開放的な大海原と共に青い空の雄大な絶景が楽しめる観光スポットと言えるでしょう。観光スポットとして見れば青い海原は息をのむような美しさで誰もが心を奪われるに違いありません。しかしながら、訪れた目的からして、観光を楽しむ気にもなれませんが、この辺りで亡くなられた戦没者の御霊安らかなれと祈るばかりです。

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喜屋武岬の説明板ですが読めますね。ここは喜屋武岬と呼ばれ灯台もあります。但し同岬は最南端ではないですね。またこの喜屋武岬を境として、太平洋と東シナ海に分かれていると言うのは知りませんでした。

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これは何か? と思った方も多いでしょうが、どう見ても自殺防止の掲示でしょう。広場の地面に埋め込まれていました。この喜屋武岬の崖から身を投げる方が居られるのですね‥‥。

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喜屋武岬にはご覧のような灯台も設置されています。ただ灯台は喜屋武岬園地からちょっと離れた場所にありますね。塔高は15mあるようです。戦後米国によって建設された「荒埼灯台」があったようですが、沖合いを航行する船舶から「光力が弱くて遠方から見えない」と苦情があり、海上保安庁が本土復帰後の昭和47年6月に県内初の大型灯台を設置したとの話です。また潮風により施設の傷みも速いのでしょう。昭和50年に一度改築していると記されています。

「平和之塔」に到着したのは午前九時頃でしたが、当地は弱い雨が降っていました。比較的朝が早い段階なのに、駐車場には結構な車が駐車されていました。しかし人影はありません。そうした中で、一台の車では釣り人でしょうか、三人の若い男性が出発準備をしていたのです。そして出発準備が完了したようで、私の目の前を通り過ぎようとしていました。サーファーでないのは明らかでした。背中に大きな荷物を全員が背負っていました。そこで聞いてみたのです。「どちらへ行かれるのですか?」、そしたら「今日は釣りです」と明快に答えてくれました。そして彼らの後ろ姿を追っていましたら、忽然と藪の中に消えたように見えたのです。

消えた! と思った私は、消えた場所まで行ってみたのです。そしたら、な~んだ。通路があるではないか。そうなんです。茅などが覆い茂る場所にしっかりと一本の小道があるではないですか。ここから歩いて海岸に降りるのだろうと感じた私は、その小道を歩いて見ました。そしたらやはり崖上に到達しました。この小道は釣り人やサーファー達の通り道だったのですね。実際に彼らがその崖を下に降りていくのが見えました。私は普通の靴しか履いていないので、崖上の段階で追尾を止めましたが、その風景をご覧下さいませ。

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小道を少し入った所で撮影しました。ご覧のように完全に道が出来ていますね。

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フィッシャー(岩の割れ目)です。こうしたフィッシャーが三カ所ぐらいありました。こうした場所は滑落の危険性があるので、ご覧のように自作と思われる板が敷かれていました。

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小道から海が見える場所がありました。崖に沿うように小道があるのが解ります。

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この辺りはアダンが植生している場所ですね。土が少なく崖上なので強風が襲いかかる場所柄、アダンしか生きられないような所です。小道が出来て日当たりが良くなって、ご覧のように、ツワブキが数多く小道に沿うように繁茂していました。

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ついに海が見えて来ました。ここまで凡そ50m弱と言った所でしょうか。

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ここから崖下に一気に降りていくようです。若者三人に気づかれないように、そ~~と前進します。

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最後尾の人がまだ居ますね。少し待ちましょう。海水面との標高差は、どうでしょう。35m前後でしょうか?

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ここから一気に崖下に降りていくようです。急勾配であるのを感じて貰う為に、靴も併せて写しました。崖であるのは間違いないですが、それほど難ルートでは無いと言う印象です。彼ら三人も荷物は背中に背負い、両手はフリーにしていました。ですから両手を使えるようにして、且つ靴をしっかり選択すれば、問題なく上り下り出来そうだと感じました。実際岩が雨で滑りやすいはずなのに彼らは降りていきました。勿論私はここで止めておきます。

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崖の下の方を撮影しました。岩などが階段状になっていたりして、しっかり道が出来ているのが見えますね。

因みに金光教の遺骨収集でも、運営委員会時代の23回・24回・25回と三年続けて延べ554人の参加者が、この喜屋武岬全般と荒崎海岸までを範囲に遺骨収集をしていると言う記録が残っています。この崖下に降りるルートを金光教の人達が利用したかどうか‥‥。どちらでしょうかね。

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平和祈念公園に到着しました。お土産屋さんが並ぶ一角にやって参りました。まだ朝早いですからシャッターは開いていませんが、残念ながら昼間になっても全戸シャッターが開く事は無くなりました。平和祈念公園を訪れる観光客が激減してしまったからです。昔の賑わいを知っている一人として、実に寂寥の思いに駆られるのが常です。

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こちらの長屋形式のお土産屋さんは、何軒か営業を続けていると言う状況ですが、前途は厳しいものがありますね。コロナが余計に追い打ちを掛けていると言う印象です。ですから私達も可能な限り、これらお店で飲食をするように努めています。

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この施設は最近出来ました。観光バスの乗り降りに、雨などの影響を受けないようにする施設でょう。しかしながら、今年の摩文仁で作業中に、遂に一度も観光バスが停車しているのを見る事がありませんでした。(^^;)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.32

平和祈念公園内駐車場にある巨木のガジュマルですね。気根も沢山垂れています。名護市の入り口で国道の真ん中にある樹齢三百年とされ、高さ約19m、枝の広がる直径約30mの、沖縄県の天然記念物であり、且つ国の天然記念物でもある「ひんぷんガジュマル」と比べたら見劣りしますが、それでもこうして見上げると、勝るとも劣らぬ堂々としたものですよね。(^o^)

調査・遺骨収集作業開始です

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昨夜から降り続いた雨も今朝の段階で止んでいて天候は回復傾向にあり、今日も天気は問題ないようです。有り難いです。本日は右から福岡さん、NPO法人沖縄鍾乳洞教会理事長の山内さん、そして原田さん、松永さん、そして三浦さんです。前にもご紹介した事がありますが、NPO法人沖縄鍾乳洞教会理事長の山内さんは、南城市にある巨大な洞窟である「玉泉洞」を発見された方です。そして昨年も古代の人骨を発見されたそうで適宜調査を進められているそうですよ。それでは今日も頑張って参りましょう。(^o^)

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入壕の準備開始です。これから入る壕は縦穴壕で、狭い空間での垂直移動となります。安全ロープ無しでも昇降は可能ですが、速やかな移動と安全確保の観点から現況に合わせてワイヤーラダーかロープを設置する事としました。沖縄では随一の洞窟探検の実績を持つ、NPO法人沖縄鍾乳洞教会理事長の山内さんが、日ごろ使用されているケイビング資機材を沢山持参して下さいました。(^o^)

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ロープでも何とか降りられるのですが、縦穴壕は滑落と言う一定のリスクを伴いますから、今回は安全確保と三人が入るので迅速な昇降を実現する為に、ロープとワイヤーラダーを併用する事となりまして、その設置作業をしているところです。山内さんが手にしているのが10m巻きのワイヤーラダーです。携帯に便利なように非常にコンパクトに出来ていますね。(^o^)

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ご覧のように壕口に堅固な木が生えていたのでラッキーでした。これなら200kgとか300kgとかの引張り力が働いても耐えてくれるでしょう。山内さんが命を預けるとも言えるその木にロープを固縛している所です。写真に写っているのが、NPO法人沖縄鍾乳洞教会理事長の山内さんですが、山内さんから話をお伺いすると、昨年本島北部で山内さんご自身が古代人の新たな化石を発見されたそうで、現在詳細な調査が行われているそうですよ。このウエブサイトでも、了解が得られ次第ご紹介しますので楽しみにしていて下さい。(^o^)

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山内さんがワイヤーラダーを抱えて先頭で入られました。そして女性の原田さんが壕に入ろうとしています。やっと一人が入れるぐらいの狭さです。

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壕入り口はご覧の様にかなり狭いです。ただ壕口の地形を俯瞰する限り、沖縄戦当時の壕口の高さについては、少なくとも膝立ちで容易に出入り出来る高さが確保されていたと推測されます。と言いますのも、地形状況から見ますと大きな岩が見当たらない事と、壕口上部には10m以上の緩斜面があり、戦後70余年間その斜面から大量の土砂が落ちて、壕口に堆積したと推測されます。写真手前には二本のロープが見えますね。

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原田さんがロープに捉まりながら、狭い横穴部を抜け縦穴部入り口に到達しました。ここまでは狭い空間ながら移動は比較的容易でした。原田さんの眼前には、ほぼ垂直の坑道が見えているはずです。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.40

原田さんがワイヤーラダーに足を掛け順調に降りて行きます。縦穴部はほぼ垂直なので落石による事故を防ぐ為に、原田さんが壕底に到達したら最後の私が降りていく事になります。因みに最初に降りた山内さんは、すでに壕底に達して調査を開始しているはずです。

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山内さん、原田さん共に壕底部に到達して作業を開始しています。最後に降りる私がワイヤーラダー展開の様子も含めて、お二方の様子を写しています。ご覧の様に10mあるワイヤーラダーを全て使い切っているので、この壕の縦穴部はほぼ10mという事になりますね。また写真でも解るように、この壕の縦穴部は賢固な石灰岩に挟まれた空間であり、フィッシャー(岩の割れ目)である事が見て取れます。という事で、この壕は大規模な落盤の危険性はありません。安心して作業出来る壕と言えます。

写真を良くご覧くださいませ。縦穴なのにワイヤーラダーが宙ぶらりんとなっていません。そうなんです。縦穴は極わずか斜めになっているのです。また縦穴の反対側壁面にも手が届きます。と言う事で、私は昨年この縦穴部をワイヤーラダー無しで昇降しました。滑落をしないように慎重に足場を確保していけば昇降は容易だと感じました。その時の感覚としては、摩文仁の第32軍司令部壕にほど近いこの壕を日本軍将兵は活用したであろうと思えました。

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私も無事に壕底に立ちました。壕底の広さは畳二畳分ぐらいでしょうか。壕底には大きな岩が壁面周囲にある程度で、上から落ちてきたと思われる細かい土砂が堆積しているという印象です。第32軍司令部壕にほど近いこの小さな壕には、金光教の遺骨収集も含めて何度か調査が入った事でしょう。いや金光教なら私達が居るこの壕底に必ず入っているはずです。ですからその作業過程で大きな岩は周辺部に移動したと言う事も考えられます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.43

壕底の様子を観察してみましょう。フィッシャー(岩の割れ目)が見えますね。人が入れるようなスペースではありませんが、かなり奥深く続いています。奥に行くほど狭くなっていますし、ライトで照らしてみると、空間は完全に終わっているのが見えます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.44

2m程左側に移動すると同じようにフィッシャーと呼べるような割れ目が見えます。奥まった所にライトを当ててみると、奥の方は何もなく空間はすぐに終わっています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.45

壕底部に三カ所ある岩の割れ目であるフィッシャーなどを一通りを観察した山内さんが、一番関心を示したのが写真に写されている穴です。洞穴からかなり強い風が、私達が居る側に吹いて来る事から、洞穴の先に別の広い空間があるのではないか? と感じられたようです。驚くほど強い風です。山内さん曰く「奥に大きな開口部があるはず」と‥‥。洞窟探検家らしい着眼ですよね。(^o^)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.46

原田さんが洞穴を撮影しています。私も洞穴に首を突っ込んで可能な限り奥を覘くと、なるほど広い空間が見えました。広い範囲は見えませんが、3mぐらい先にツルッとした壁面が見えました。この穴の奥にはかなり広い空間が存在する事は間違いないようです。

後日、或いは何時の日か、今私達が居る壕と穴の向こうの壕と思える空間が繋がっている事を確認する為に、私達が居る壕底に落ちていた戦後の空き缶一個と特徴的な四角い形をした石を一個、小さな穴から投げ入れました。こうしておけば向かい側の壕らしき空間に入った際、投げ入れた空き缶と四角い石が発見されるかもしれません。発見されれば、壕は繋がっていると断定できますからね。これは楽しみになってきました。(^o^)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.47

作業を急がねばなりません。早速地面を掘り返します。粗めの土砂が一定の厚みで堆積していますが、縦穴壕と言う性質上、この土は上から落ちてきたと考えられます。この壕の壕口で遺骨が見つかっている事から、一部のご遺骨が私達が居る壕底に落ちている可能性もありますから、土砂は全部掘り返します。幸い雨水も流れ込まない構造のようで、乾燥気味の土砂ですから作業は容易でした。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.48

どんどん掘り進めました。三人で視線を集中して作業しましたが、予想に反してご遺骨や遺品が無いです~。(T_T)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.49

三人のライトが集中しているので、作業場所はとても明るいです。ご遺骨や遺品を見逃す事は考えられません。結構な時間を掛けて戦後堆積した土砂部分を全部掘り返しましたが、残念ながらご遺骨や遺品はありませんでした。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.50

発見された遺留品は、この二点だけでした。鉄の塊ですね。右側は砲弾の破片だと推測されますが、左側はとても固くて少し成形したような雰囲気もありますが、何なのか不明でした。山内さんもなんであるか解らないと仰っていました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.51

壕底から見上げて撮影しました。設置したワイヤーラダーを写しています。私達は壕底を十分精査しましたが、ご遺骨や遺品が発見されなかった事から、作業を打ちきり撤収します。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.52

原田さんがワイヤーラダーを利用して縦穴壕を登っています。私はこの縦穴壕をワイヤーラダー無しで上り下りをしましたが、やはりワイヤーラダーがあると安全ですし超早いですね~。(^o^)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.53

続いて山内さんが登っていきました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.54

縦穴部を登り終えた辺りに横穴があるので、山内さんと私とで立ち寄りました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.55

挿弾子に装填されたままの小銃弾三発と、被甲(ガスマスク)の部品である金属プレス製のレンズ押さえ、そして防毒面の曇り止め板が入っている黒いセルロイド容器が見えます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.56

こちらは金属製の何かの部品みたいです。

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鉄製ですが空き缶では無さそうです。何かの容器かな?

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.58

横穴の最奥部を調べる山内さんです。山内さんが居る場所から更に奥は、徐々に狭くなっていきますが、狭い空間がずっと続いているように見えます。風も通っている印象です。横穴の長さは8mぐらいでしょうか。高さは全て立っては歩けないぐらいの空間です。印象として兵隊さん10人くらいは収容出来る広さがあるように感じます。壕の通路は岩だらけですが遺品も多数散乱しており、間違いなく日本軍将兵がこの横穴に滞在していたと推測されます。この横穴壕は地表から、推測4~5mぐらいの深さがあると推測されますが、ガチガチの一枚岩ではなく、かなり脆い石灰岩という事で、地面に散乱する小岩は、摩文仁への激しい空爆で落石し堆積したとみるのが順当だと思えます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.59

私達が居るこの横穴壕での一番の驚きは、とても狭い空間なのに、ご覧の様にロウソクなどの明かりを灯した際に出た黒い煤が付着した場所が何カ所もある事でした。岩肌の平らな部分にロウソク等を置いたのでしょう。煤が付着した黒い壁面の少し下の部分には、例外なく平らでロウソクが置けそうな形状になった岩肌になっていました。その煤で黒くなった岩肌部分を何カ所かご紹介しましょう。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.60

ここも煤で黒くなっています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.61

ここも煤で黒くなっています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.62

ここも煤で黒くなっています。煤で黒くなった岩肌のすぐ下を見るとロウソクが置けそうな岩肌がありますね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.63

ここも煤で黒くなっています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.64

ここも煤で黒くなっています。煤で黒くなった岩肌の下の方にロウソクが置けそうな場所があります。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.65

右側壁面をご覧くださいませ。ここも煤で黒くなっています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.66

ここも煤で黒くなっています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.67

ここも煤で黒くなっています。以上煤で黒くなっている場所をご紹介しました。狭い空間なのにその数の多さにビックリですよね。この場所は昼でも真っ暗ですから、照明が必要だったは十分理解出来ます。その上でロウソクなどの照明資材が沢山あったと言うのは、第三十二軍司令部壕に近いと言うのと無関係では無いと感じますね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.68

新たに小銃弾一発が見つかりました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.69

発見された二つの遺品です。上の遺品は、防毒面のレンズ部分が曇らないようにする為に不凍液を塗る事がありますが、その不凍液を塗る為の容器です。スポイトになっていて不凍液を吸い上げるのに使うみたいです。スポイトの蓋も残っていますね。下の遺品はガラス瓶ですね。薬瓶の可能性が高いです。金属製の蓋も腐食せずに残っています。中身はご覧のように空のようです。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.70

この壕は、場所が場所だけに遺骨収集は既に為されているとみるのが順当です。しかしながら、遺品が多く残置されている事から、後日ここも徹底して収骨作業をする事となりました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.71

壕から全員無事に出ました。(^o^)
福岡さんがツルハシの金属部分を見つけたと持ってきました。この壕口で発見したとの事です。ツルハシの両端のうち、片側が平たくなっているので戦後遺骨収集が行われた際に、誰か置き忘れたツルハシなのかなと思ったりしますが、同じ形状のツルハシが、沖縄陸軍病院南風原壕群20号壕の入り口近くに参考展示として置かれている事から、福岡さんが持つツルハシも戦前からあったと推測されます。またツルハシの錆び具合も沖縄戦当時の物と思われるぐらいガチガチに錆びていますね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.72

壕口から入ってすぐの場所から、ご遺骨も二個発見されました。脊髄と足骨に含まれる骨かも知れませんね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.73

今回私達三人が入った壕の付近には複数の壕口があるので、私が山内さんを近くにある壕口に案内しています。その新しい壕を山内さんが降りていくところです。ご覧のように、ここも完全にフィッシャーとなっています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.74

戦後の空き缶・空き瓶が多数流れ込んでいる壕ですが、山内さんが色々と興味深く探索しています。この壕も第三十二軍司令部壕を守る前線として、多くの将兵が滞在した事でしょう。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.75

そして又、別の壕に入ります。ここも賢固な壕に見えます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.76

壕内部を観察する山内さんです。この壕はあまり深くはありませんでした。山内さんは洞窟探検家ですから、同じ壕に入っても遺骨収集とは違う目線で見ているようです。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.77

今朝から山内さん、原田さん、そして私の三人が入った縦穴壕の底部に降りたら、強い風が吹き込んでくる小さな洞穴があると書きましたが、山内さんがその洞穴から見える空洞部分を探したいとのお話なので、その空間(壕)を探してみる事となり、全員でこの付近にあるであろう壕の入り口を探す事となりました。さあ手分けして探しましょう。(^o^)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.78

さあバラバラに散って壕口がないか探し始めました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.79

私達三人が入った縦穴壕は、深さはトータルで10m以上ありました。と言う事で、それをヒントに緩斜面の下側向かいます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.80

凄いV字谷です。バックリと割れています。体を隠すには十分ですから、この割れ目を交通壕の通路として利用した可能性が高いですね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.81

もしかしたら壕口か!

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.82

壕口かなと期待しましたが、近づいてみると壕口はありませんでした。行き止まりでした。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.83

松永さんが意外な場所からスッと出て来ました。この壕は違うと語っていました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.84

福岡さんも出て来ました。この壕は二カ所出入り口があるそうです。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.85

三浦さんです。壕口がないか探しています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.86

松永さんです。ここも穴らしき場所は無いようです。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.87

原田さんが、「見つけたよ~」と大きな声で知らせてくれました。そして私達を迎えに来てくれました。それにしても、原田さんによる発見の第一声は凄く遠くから聞こえましたが、今は私の目の前に居ます。移動がとても速いですね。後に知る事となりますが、原田さんは女性ながら、驚くほど身が軽いと解りました。山内さんや松永さん等と、繰り返しジャングル内に入られているとの事です。納得しました~。(^o^)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.88

「この壕です。奥は凄く深い縦穴があります」と、原田さんが教えて下さいました。確かにこの壕口は午前中入った壕との位置関係では、間違いなく繋がっていそうな位置関係です。原田さんが居られる壕口は横穴形状ですが、奥の方に行くと縦穴になっているとの事。早速私も見させて貰います。因みに壕口はご覧のように横穴形状ですし、大きな岩盤が屋根のように壕口に被さっていますから、上空を飛ぶトンボ等の米軍偵察機からは壕口は発見されにくいと感じました。稜線ギリギリに飛ばないと壕口は見えないはずです。また壕口の左側に岩が見えますが、積み上げたような印象もあり、岩を積み壕口を小さくした可能性もあると感じました。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.89

おーーーーーー!! 壕口から横穴を5m程奥に入ると、この撮影ポイントに至ります。カメラはほぼ下を向いています。ご覧くださいませ。この撮影ポイントまでは横穴ですが、ここからはご覧のように縦穴になっています。壁面は典型的なフィッシャーとなっていて賢固な岩の割れ目と言えるでしょう。ここからは壕底が全く見えません。可能な限り身を乗り出してライトを照らしみましたが、真下には向けられないので壕底は見えません。印象として縦穴部はかなり深そうですが、手に持てるぐらいの大きさの石を何個か落としてみると、僅かな時間で壕底に落ちるので、30mとか50mとかあるようには思えません。深くて十数メートルか? いずれにしても常識的に探査出来る深さであると感じました。私はぜひ降りてみたいという衝動を抑えきれません。(^o^)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.90

壕口のすぐ横には、擲弾筒弾が三発置いてありました。ご覧のように手榴弾よりも一回り大きくて長いですね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.91

同じく壕口に置いてありました。鉄製の部品ですね。厚みがあるので鎌ではないはず。何の部品でしょうかね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.92

福岡さんが見つけました。大きな鉄の塊ですね~。これも艦砲弾の破片でしょうか?

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.93

壕口から入った松永さん福岡さんが、縦穴が見える場所から下を覗き込んでいます。私は壕口から撮影しています。縦穴部は壕口から最大5mぐらいでしょうかね。私が撮影している壕の横穴部はこんな感じで、立っては歩けないぐらいの高さです。

私達が発見したこの壕と、午前中にワイヤーラダーを用いて降りた縦穴壕の壕底との位置関係ですが、その小さな穴から見えたのは、この壕の一部かも知れません。少なくとも方角は間違いなく関連していると思えます。この縦穴壕を降りてみないと深さに関しては何とも言い様がありません。もしもこの壕底に降りる事が叶えば、午前中に入った壕底から私達が投げ入れた空き缶と特徴的な四角い形状をした岩が発見されるかもしれません。そうした二つの壕の接点を求めつつ、メンバー全員で話し合った結果、降りてみたいという意見で一致しました。(^o^)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.94

早速、緯度と経度の確認と記録をしました。日も傾いてきましたので、本日の調査作業もこれで終わりとなりました。

今は遺骨収集をしていると言うよりも、探検家になった気分です。(笑)
どうしたら縦穴部を降りて壕底に立てるか‥‥。さあ検討開始です。

「沖縄工業健児之塔」

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.95

少し早い時間での散会となったので、「沖縄工業健児之塔」を慰霊巡拝しました。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。海岸沿いの崖上にあり、背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。

所在地ご紹介

「駐車場はありません。トイレは近くにあります」

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.96

近年改装工事が為されて、慰霊塔の中では比較的良好な状態を維持しています。7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。7本の柱にしっかりと守られていますね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.97

ギリギリ読めますね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.98

「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」説明文です。テキストに起こしてみました。因みにこちらの塔名は鎮魂と言う文言が加入してありますね。

【沖縄県立工業健児鎮魂之塔】

太平洋戦争の末期、昭和一九年三月、大本営は沖縄守備隊第三十二軍を新設し、政府は五月二二日戦時教育令を公布。米軍機動部隊の沖縄攻略に備えて、飛行場、港湾等各種陣地構築に一般市民、各中等学校生、さらに小学生までも動員した。同年十二月、軍命により第五砲兵司令部(球九七〇〇部隊)が工業学校生徒に無線・有線・暗号等の特訓し、昭和二十年二月各部隊に配属。学校では鉄血勤皇隊を組織、米軍機動部隊の上陸に備える。同年三月二三日、米軍機動部隊艦載機による空爆で沖縄戦の火蓋が切られ、遂に昭和二十年四月一日米軍沖縄本島中部西海岸に上陸。水平線まで埋め尽くす艦艇による艦砲射撃等で日米両軍による国内で唯一住民を巻き込み山野が変貌する熾烈な地上戦が六月下旬の戦闘終結までの三ヶ月間続く。日本軍は米軍の圧倒的優勢の前になすすべもなくこの最南端一帯に撤退。学徒通信兵も当該地に転戦するが、同年六月十九日米軍に包囲され、その夜、敵陣に突入を決行。奮戦空しく散華。沖縄戦で、教頭、教職員、学徒隊では各中等学校中最も多くの義税者を出す悲惨なものとなった。この実情を後世に語り継ぐため、工業学徒通信隊最期の地に慰霊塔を建立する。

尚、この塔造形の意義は、背面に建つ七本の柱(健児)が一本の大貫によって、貫(団結)かれ、がっちりとスクラムを組んで碑身(平和)を護り、碑身上部の雲間には平和のシンボルの鳩三羽を飛ばす。又、教職員や学徒隊、そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板には、それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている。

昭和三十七年十一月建立 
沖縄県立沖縄工業高等学校 
沖縄県立工業學校遺族会 
沖縄県立沖縄工業高等学校同窓会 

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.99

沖縄県立工業高等学校の戦没された学徒の名が刻まれています。そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板は、説明板に記述されていたように、「それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている」と言う意味が込められているのですね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.100

同塔は大東亜戦争中、沖縄、その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員、生徒167名が祀られています。同校は、沖縄戦では、生徒97名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織するなどして戦闘に参加し、88名が犠牲となりました。学徒隊の中では最も高い戦没率であったとされています。

軍の解散命令が出た後に、慰霊塔の背後にある壕内で学徒が自決したとされている事から、私も同塔背後を徹底的に調査したことがあります。その結果壕はありませんでした。あるのは亀裂です。深い所では10メートルぐいらはあるでしょうか。そんな亀裂が100メートルぐらい続いていました。亀裂の最終局面で一カ所壕がありましたが、その場所はこの「沖縄工業健児之塔」からかなり離れていますので、背後という事には当たらないと思います。調査の結果平成20年(2008年)ですが、頭骨も含めて一柱見つけることが出来ました。この「沖縄工業健児之塔」から40メートルぐらい離れた場所でした。遺品としてはかなりしっかりした鉄兜のみが見つかっています。学徒隊との関連を裏付ける遺品等は発見されませんでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.101

沖縄県立工業健児鎮魂之塔の左側に展開する芝地を写しています。樹林帯も見えていますが、幅は狭くて約30mぐらいの樹林帯が帯のように連なっていまして、樹林帯に先は崖になっています。晴れてのどかな公園風景ですが、この写真に写されている範囲内で頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見しました。

その場所は芝地と樹林帯の境目、概ね写真の左手ですが、柵が見えていますよね。そこは沖縄県立工業健児之塔から見ると約50mぐらい東に移動した場所辺りなのですが、芝地から3mぐらい入った所にある壕で、私は頭蓋骨を含む完全一体の御遺骨を発見したのです。平成20年(2008年)第35回沖縄遺骨収集奉仕活動での成果でした。過去の記録としてご覧下さいませ。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子11

岩の割れ目から壕に入りしばらく前進すると、日本軍将兵が被っていたヘルメットがありました。こんな大きな遺品がそのままという事は、まだこの壕は誰も調査していないと感じた私は胸が高鳴りました。急がず目を凝らして極めて慎重に奥に進んでいきました。

遺骨収集の様子12

壕はどんどん狭くなりましたが、ヘルメット発見場所から2mぐらい進むと、人間がやっと入れるような隙間でしたが、遂に御遺骨を発見しました。丸く崩れていない頭蓋骨や大腿骨が見えます。その他小さな骨も奥の方に掛けて散乱しています。また岩に隙間が見えますね。一部の御遺骨は下の空間にある壕に落ちていました。それら全て収骨してみると完全一体の御遺骨と宣言して良いボリュームとなりました。

遺骨収集の様子13

発見御遺骨のあった場所の手前側は下に穴があり、そこにも壕と呼べる空間がありました。写真は今にも下に落ちそうな脛骨です。足の細かい骨等は皆下に落ちていました。

遺骨収集の様子19

収骨する皆さんが全力で記名遺品を探しましてメガネ二個が出てきましたが、残念ながら身元を特定する遺品はありませんでした。メガネが二つ出てきました。べっ甲で作られています。べっ甲で作られたメガネは珍しいような気がします。箱のようなものは「マッチ」と思われますが、驚くことに箱の部分は金属でできていました。また本部に送った土砂からキセルの金属部分も発見されていましたが、氏名の特定は出来なかったようです。また近くではサーベルも発見されましたが、腐食が酷く記名があるとは思えませんでした。

この御遺骨のあった場所は公園芝地から3mジャングルに入った場所です。このように公園からジャングルに入って直ぐ。道路からジャングルに入って直ぐ‥。こうした「○○から入って直ぐ」の場所は、御遺骨発見に向けての極めて穴場的場所であると強調したいです。例えば道路からジャングルに団体で入る場合をイメージして頂くと解るのですが、こうした場合大概道路からジャングルに入るに際して、「入りやすい場所から一列縦隊で入る」事がとても多いのです。このように道路から入って一直ぐの場所は、とても見落としが多い場所と言えるでしょう。

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.102

良く見ると「沖縄工業健児之塔」の背後にあるジャングルが切り払われていました。到着した直後、背後がやけに明るいなと感じたものです。なぜ切り払われてしまったのか‥‥。考えてみましたが不明です。(^^;)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.103

切り払われてしまった所にフィッシャー(岩の割れ目)があります。このフィッシャーは、平成20年(2008年)に完全一体のご遺骨が発見されたフィッシャー部分に通じているのです。この長いフィッシャーは当時金光教の遺骨収集で徹底的に捜索も為されています。それでは写真でフィッシャーを追ってみましょう。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.104

「沖縄工業健児之塔」側から撮影しました。フィッシャーが続いているのが見えますね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.105

まだ続いています。鉄柵も見えて来ましたね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.106

写真の左側まで全部フィッシャーは続いています。この写真の左手辺り、公園の敷地から3mぐらいジャングルに入った場所からご遺骨は発見されたのです。

「沖縄平和祈念堂」

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.107

白い塔は「沖縄平和祈念堂」です。摩文仁近海を飛ぶ飛行機からも、すぐに視認出来る一際目立つ塔でもあります。久しぶりに訪れてみましょう。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.108

正面の階段から登って行きます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.109

「沖縄平和祈念堂」です。沖縄県(当時は琉球政府)が、戦没者の鎮魂と平和希求の象徴として、沖縄戦終焉の地である摩文仁之丘に建立したものです。昭和53年(1978年)10月に竣工しました。堂は高さ45mの荘厳な七面体白亜角錐ドームとなっているのが特徴です。また建物の中には 高さ約12m,幅が約8mもある、人間の祈りの姿を象徴した座像、沖縄平和祈念像(座像菩薩)が安置されているとの事です。同座像は、沖縄出身の芸術家山田真山画伯(1885~1977)が, 全戦没者の追悼と世界平和を希う沖縄県民の心を一身に担い、18年の歳月を掛けて精魂込めて製作されたと言われています。宗教や思想,政治や人種,あるいは国を超えて、すべての人が戦没者の慰霊と平和に力を合わせて行こうという事を、10本の指を合わせた合掌の形に表現されたそうですよ。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.110

前庭に見える鐘撞き堂は「平和の鐘」と呼ぶそうです。高さが9メートルもある鐘楼ですが、戦没者の鎮魂と世界平和の祈りを込めて、昭和53年の開堂時に平和祈念堂の理念に賛同されたライオンズクラブ国際協会337複合地区から寄贈された施設だそうです。

「戦いに散った魂を鎮め 人類の悠久平和を誓い この平和の鐘は とはに絶えることなく ここ摩文仁の丘より 四方に響きわたる 万人の祈りをこめて」の銘文が刻まれています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.111

「沖縄平和祈念堂」の主要施設を紹介している掲示板です。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.112

堂内部の様子です。沖縄平和祈念像が安置されているとの事ですが、奥まった場所にそれらしき像が見えますね。沖縄平和祈念像(座像菩薩)は、山田真山画伯が18年の歳月を掛け、精魂込めて製作した座像でもあるので、是非拝見したい思いはありますが、今日は時間が無いので中には入れません。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.113

階段を登り終えたところで撮影しました。広大な平和祈念公園の広さを実感していただけるのではないでしょうか。ご覧のように、摩文仁之丘が最奥部横長に展開しています。摩文仁之丘の右端あたりが一番標高が高く89メートルあるそうです。こうして平和祈念公園側の平地から見たら、どうでしょうか? 標高差は30メートルぐらいでしょうかね。平和祈念公園自体が標高50メートル以上あるという事ですね。摩文仁之丘最高地点は、沖縄戦当時においては89高地と呼ばれていました。当時守備軍司令部壕がありましたし、現在では突端部あたりに「黎明之塔」が建立されています。

遠望するこの摩文仁之丘ですが、現在の各県の慰霊塔が建ち並ぶ一帯は、沖縄戦当時は摩文仁集落の人達の段々畑であったそうで、米軍の摩文仁における掃討戦は、その摩文仁東側の段々畑から戦車を先頭にジリジリと守備軍司令部壕に迫ったといいます。

ちなみに各県の慰霊塔が並ぶ一番奥には、鹿児島県の慰霊塔「安らかに」がありますが、その辺りは琉球時代に摩文仁グスクがあったそうです。場所的には写真の摩文仁突端部よりも少し左側という事になりますね。現在でも往時を偲ばせる石垣がそのまま残されています。ですから琉球城時代は、この高台から見ても立派なお城が見えていたかもしれませんね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.114

沖縄県平和祈念資料館が見えています。平和の礎も同館の前に建立されています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.115

県営平和祈念公園内にある「式典広場」を遠くに見ています。その名の通り、沖縄戦の組織的戦闘が終結した6月23日には、この式典広場で政府主催の沖縄全戦没者追悼式が挙行されます。式典広場の端部にある建造物は、平和之丘モニュメントです。沖縄戦当時、住民達が逃げ込んだガマを再現したという話です。また更に摩文仁之丘が遠望されます。沖縄守備軍第三十二軍は89高地と呼んでいました。牛島満司令官と長勇参謀長が指揮を執った司令部壕も丘の先端部にあります。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.116

主要施設案内板ですね。ご覧のように、園内は電気自動車が走っています。「黎明之塔」や「勇魂之碑」など、摩文仁山上方面に行かれる場合は、断然早く到達出来ますよ。(^o^)

※おまけ

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.117

遺骨収集情報センター内に掲示されている案内図です。サイト管理人のメモ代わりに掲示しました。掲示したその目的はですって? それは秘密です。(笑)

「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.118

「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」です。国道331号線上の糸満市大度にある交差点「大渡」から市道に入って、50m程進むと左側に、ご覧のような正に道路に隣接するような状況で「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」が見えて来ます。

所在地ご紹介

「駐車場、トイレはありません」

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.119

おやおや、ステンレス製のしっかりした手摺なのに、こんなに潰れていますよ。折れた部分の形状からして、もしかしたらトラックなどが、道を間違えたと気づき、この場でユータンしようとしてバックでぶつけたかな。(^^;)

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.120

「野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑」です。野戦重砲第23連隊は昭和17年4月に満州国東満総省梨樹鎮において編成された部隊で、昭和19年10月22日に、十・十空襲の焼け跡が生々しい那覇港に到着した部隊です。軍司令部直轄の軍砲兵隊で連隊長は神崎清治大佐で、部隊の通称名は球3109部隊です。連隊は本部及び2個大隊から編成されています。また各中隊には九六式十五糎榴弾砲が4門が配備され、牽引する為の6トン牽引車が4両、ほか自動貨車34両などが主要装備であったようで、沖縄戦当時は最新鋭の機甲部隊と呼ばれていたそうです。

同部隊は、連隊本部を前田高地に置き、第一大隊は首里を基幹とする石嶺周辺に陣地を構築し布陣しましたが、第二大隊は予備として島尻地区に陣地を構築しました。第一大隊は、首里戦線では嘉数高地や前田高地などで、南下する米軍と真っ正面から激闘を演じた部隊です。第三十二軍司令部の首里撤退に伴い、第一大隊も八重瀬岳に転戦、この時に島尻を占領していた第二大隊も八重瀬岳の戦闘に参戦。6月中旬両大隊の残存兵は、当初の第二大隊の島尻陣地であった小渡(現在の大渡)に終結しました。使用可能な火砲は二門だったと言います。そして6月19日に部隊は解散になったとの事です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.121

慰霊碑に碑文が刻まれていますね。読みにくいので、テキストに起こしてみました。ご覧下さいませ。

【野戦重砲兵二三聨隊慰霊碑 碑文】

この碑は、太平洋戦争中最も激戦であったと謂われる沖縄戦において本土防衛のため、祖国日本の勝利と、家族の安泰を念じ、終始勇敢に戦って散華した野戦重砲兵第23聯隊(球3109) 戦没将兵の霊を祀ったものである。部隊は、旧満州国より転進、沖縄本島各地に展開し、友軍歩兵部隊の戦斗によく協力、再三に亘り米軍の進出を阻み、軍直轄砲兵としての任務を全うし、この地で玉砕したのである。その遺勲を永遠に称えるとともに、戦友よ、安らかにと願い、ここに関係者一同相協力して、これを建立した。

昭和53年 3月19日 野重二三戦友会・戦没者遺族一同

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.122

海岸線がすぐ近くに迫っています。写真は大渡米須海岸線を遠望しています。同慰霊碑は海岸まで600mぐらいの位置にありますが、遠望される一帯はほとんど隠れる場所が無いのが見てとれますね。野戦重砲兵二三聨隊の慰霊碑がこの場に設けられた経緯は不明ですが、近くには玉砕の舞台となった「独立高射砲27大隊本部壕」もある事から、また慰霊碑が壕でない平地に建立されていることからして、ひとつの推測として部隊の最後の痕跡を記した場所に設けられたのかもしれませんね。

因みに眼前にある畑は10年ぐらい前はありませんでした。採石場として採石された後として深さ10m以上の広大な穴があったのです。今はこうして畑となっていますが、埋め戻されたと言う事ですね。こう言う事もあるんですね。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.123

大渡集落方面を見ています。こちらの写真の中に「独立高射砲27大隊本部壕」があります。注目して頂きたいのは、地面をご覧下さいませ。広範囲に太陽光パネルが設置されているのが見えますね。これらもごく近年に設置されたものです。南部でも太陽光パネルは年々増設されていると感じます。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.124

畑をご覧下さいませ。解りにくいのですが、サトウキビが植えられています。昨年後半ぐらいに定植されたものでしょうかね。こんな若苗の段階を見たのは初めてです。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.125

こちらは大分成長した姿でサトウキビが植えられています。

令和3年(2021年)1月17日/沖縄遺骨収集の様子no.126

道路を挟んだ向かい側の敷地には、ご覧のような太陽光パネルが設置されていました。元々はジャングルだった場所なのですが、こうして住宅地などに活用出来ない現況ジャングル帯に太陽光パネルが設置されて行くのが解ります。

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