令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月24日(日) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今朝の時点での天気予報は「曇りのち晴れ」で、最高気温20度、降水確率は10%、0%です。最終日の雨の心配は無くなりました。本日朝の慰霊巡拝は、「八重瀬の塔」「白梅学徒看護隊之壕」「富盛の石彫大獅子」「島守の塔」を訪ねました。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.1

写真は農家の畑を撮影したものです。これら農家の畑で育つ木本の植物について質問です。名前はなんでしょうか~???

答えは「桑」ですね。因みに桑の葉は、絹糸を採取する養蚕のカイコが食べる葉なのですが、沖縄で養蚕が為されているというのは聞いた事がないですね。ネットで検索すると、やはり養蚕の為ではなく、桑茶生産の為に育てられているようです。また桑の実は食べられるのをご存じでしたか。ラズベリー・ブラックベリーなどと同じような果実です。

島言葉で「クヮーギ」「ナンデンシー」と呼ばれる沖縄在来の品種である「島桑」は、健康に良い植物として親しまれて来たようです。特に島桑は、血糖値の上昇を抑える成分が豊富に含まれているそうですよ。(^o^)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.2

サトウキビが植えられていました。まだ若苗ですね。昨年定植されたと言うような印象です。写真奥の方には、穂が出たサトウキビが写っています。そちらは収穫時期となっているようです。

第32軍は5月末に首里戦線から喜屋武半島に後退し、玻名城、八重瀬岳、与座岳、真栄里を前線とする東西8キロ、縦深4キロの主陣地帯を構成した事もあり、島尻一帯は首里に次いで激戦が展開された場所である事はご承知の通りです。特に八重瀬岳の東側は平坦地となっており、戦車機動が為されやすい事から、ここからの米軍進入を許すと、極めて短期に摩文仁が攻略されてしまう恐れがある事から、守備の最も重要拠点として独立混成44旅団が布陣し防御の任についていました。米軍の反撃が6月6日始まって以降6月中旬ぐらいまで、ここ八重瀬岳周辺は米軍の激しい砲爆撃に曝されて、日本軍将兵の多大な犠牲者が出ました。それではご一緒に八重瀬岳の麓にある「八重瀬の塔」を慰霊巡拝しましょう。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「八重瀬の塔」は駐車場がありません。写真右端に黒い車が見えますが私の乗ってきた車です。県道52号線から八重瀬公園に分岐する道路の一角に車を駐車した事になります。ここだと道路の前後が良く見える事から、朝が早い事もあり比較的迷惑も掛けないと思われたからです。当然慰霊巡拝は手短に済ませました。ただ気持ちが急かされてしまうので、次回からは八重瀬公園に駐車する事にします。因みに写真に写る小高い丘の上には、勢理城跡と「富盛の石彫大獅子」が鎮座する場所となっています。

「八重瀬の塔」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.4

県道52号線沿いに「八重瀬の塔」はあります。そこは八重瀬公園の入り口付近でもあり、慰霊塔も見えない事から、思いのほか見落としやすい場所かも知れません。参道である階段を登ると、ご覧のように「八重瀬の塔」が見えて来ます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、八重瀬公園の施設を利用します」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.5

参道は途中で踊り場がありました。霊域が広く草地も多いですが、手入れがしっかり為されているという印象です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「八重瀬の塔」(東風平町字富盛/昭和24年(1949年)6月建立・昭和43年5月改築)です。昭和43年5月に改築となっていますが、近年にも大規模なリニューアル工事が施されました。ですからご覧のように、比較的塗装も白さを維持しています。同塔は、戦後富盛集落の方々が付近に散乱するご遺骨1500余柱を集めて祀ったものです。特筆すべきは、現在でも富盛集落の方々が主体となって、諸費用も地区負担で慰霊祭を斎行されているとの事です。ありがたい話ですよね。

下掲の碑文をお読み頂くと解りますが、「八重瀬の塔」は元々終戦後東風平村(八重瀬町に合併する前の村名)の方々が、この地付近より遺骨を収集し同塔に納めた経緯があり、守備軍の慰霊塔ではありません。ただ八重瀬岳から具志頭グスク跡までを独立混成第44旅団が布陣していた為に、同旅団将兵のご遺骨も多数含まれている可能性は高いです。

南部地域には集落毎に納骨堂と慰霊碑があるのが一般的ですよね。そうしたなか、碑文には、「東風平村民が遺骨を収集した」と刻まれていますが、主に富盛集落の住民が収骨作業に携わったとされています。富盛集落の方々の収容所からの帰村は、昭和23年(1948年)6月でした。帰村後、富盛集落の各戸より一名が参加して遺骨収集して、カマスで収骨所に運ぶ「骨拾い作業」をされて納骨した経緯があるようです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.7

碑文です。汚れて読めないのでテキストに起こしてみました。 ※碑文では、1,500柱と記載されていますが、その後2,050柱と確認されたようです。

八重瀬の塔 碑文

首里戦線より撤退せる残存部隊とともにこの地に結集せる第二四師団隷下各部隊は南進を続ける優勢なる米軍に対し,勇戦奮斗傷病兵に至るまで善戦よくその任を全うせるも昭和二十年六月上旬この地に玉砕し悠久の大義に生く

終戦後東風平村民はこの地付近より一,五〇〇柱の遺骨を収集し慰霊塔を建立せしも,このたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し,八重瀬之塔と名づけて永くその功を伝え英魂を弔う

昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会 

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.8

八重瀬公園に至る道路脇には、ご覧のように、緋寒桜が開花していました。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.9

緋寒桜を近くで撮影しました。ピンク色が鮮やかで綺麗ですね。この緋寒桜は、カンヒザクラ(寒緋桜)が正式名称のようです。因みに本州の桜は当然のように、南の九州から北海道へと開花前線が進んでいきますが、ここ沖縄は本島の北から南へと開花前線が南下してくるそうですよ。不思議な現象ですよね。私も一番最初に聞いた時は信じられませんでした。(^o^)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.10

「白梅学徒看護隊之壕」の左手に、これまで私も気づきませんでしたが、ジャングルに入る道があるのですね。初めて入る場所ですから、ワクワクしながら50m程進んでみましたら、ご覧のように、急斜面となっていて陣地がある地形だと一目で解りました。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.11

ジャングルをそのまま進みましたら、ご覧のようにやはり壕口がありました。中を覗くまではしませんでした。他にも複数のそれらしき壕がある印象です。ここは八重瀬岳の麓と言える場所ですから、この先を進むと陣地壕が沢山あるかも知れません。すぐ近くに「白梅学徒看護隊之壕」の壕がある事から、石質は同等と考えれば、坑道の構築は意外と簡単だという印象です。場所柄、古墓もあるかもです。また写真で解るように、裾部分は道みたいになっていますね。この裾を人が行き来している証だと思われます。来年はもう少し前進してみようと思います。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.12

八重瀬町にある「八重瀬公園」に到着しました。写真は八重瀬公園の案内板です。

「白梅学徒看護隊之壕」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.13

「白梅学徒看護隊之壕」に向かいます。八重瀬公園駐車場に車を止めて山側を見るとご覧のような風景が目に入ってきます。「白梅学徒看護隊之壕碑」も写し込まれていますね。「白梅学徒看護隊之壕」に纏わる説明板もありますので、ぜひ一読してみてください。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、八重瀬公園の施設を利用します」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.14

「白梅学徒隊の軌跡」です。ギリギリ読めますでしょうかね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「第24師団第一野戦病院と白梅学徒隊」のタイトルで解説が為されています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.16

「白梅学徒隊足跡図」です。テキストに起こしてみました。白梅学徒看護隊の軌跡が理解できると思います。

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。

1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二四師団第一野戦病院に配置されることになりました。生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。

その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒達はそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。

6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。

平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課 

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.17

写真中央部の階段を登、少し歩くと「白梅学徒看護隊之壕」が見えて来ます。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.18

この長い階段を登っていくと八重瀬グスク跡や桜並木通り、そして多目的広場に行けます。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.19

「白梅学徒看護隊之壕碑」です。右側の階段を登りましょう。奥まったところに「白梅学徒看護隊之壕」があります。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.20

階段を上り終えますとご覧のような狭い通路になります。この先にあるのは手術壕ですから、この通路部分にも手術を待つ重症患者が寝ながらに並んでいたと言う事になります。ここは単なる壕口への通路ではなく、血と涙と苦悩が染みこんだ通路だと言えるでしょう。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.21

大きな岩が真っ黒に焦げていますよね。艦砲砲弾などが着弾した跡かもしれませんね。黒色の度合いが、昔と比べてずいぶんと薄くなりましたね。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.22

壕口が見えてきましたが、「立ち入り禁止」の看板も見えて来ました。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.23

「白梅学徒看護隊之壕」です。残念ですが、立ち入り禁止看板があります。因みに一時期ですが、立ち入り禁止が解除された年もありました。ですから再度の立ち入り禁止となります。崩落の危険があると言うのが理由なんですが、そんな崩落なんて100年以上先の話に思えますが‥。最近の沖縄では、このように崩落の危険があるからと、あちこちの壕で立ち入り禁止の措置がとられるようになってきました!! 南部戦跡の壕で平和学習に利用されない壕は、順次閉鎖の可能性があると感じます。

ここが「陸軍第24師団(山部隊)第一野戦病院手術壕」入口です。壕の呼称は沖縄戦当時「上の壕」とも呼ばれていました。壕は構築壕ですが、出入り口については地域の霊場として風葬墓であったかもしれません。そこから拡張構築された壕かもです。本手術壕は出入り口が二カ所あります。ここは駐車場側の出入り口ですね。入ってすぐ右側が手術室です。前線で負傷した将兵は手術を受けるために、入り口付近は長い患者の行列が出来たと言います。順番を待つ間に亡くなった方も多かったそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.24

ここは第24師団(山部隊)第一野戦病院手術壕です。立ち入り禁止ラインギリギリに撮影しました。右側が手術室です。左側は坑道になっていて、病棟と言うのでしょうか、坑道に沿うように二段ベッドが設けられ、負傷兵が収容されていた場所です。負傷した将兵のうち手術を必要とする方々が、今私が上がってきた場所でもある、40m程の手術壕前の切り通し部に並んで、手術の順番を待ったと言われています。

「白梅の塔」でも紹介しました、県立第二高等女学校の白梅学徒隊が看護活動を続けた場所でもあります。第一野戦病院には、軍医・衛生兵・看護婦など200人以上が配置され、白梅学徒隊46名も加わり手術の手伝いや看護、汚物の処理、死体埋葬などの作業に当たりました。そして米軍の急速な南部侵攻に伴い、6月4日第一野戦病院の解散命令が下されたのです。

《サイトご紹介》

壕口に立ち入り禁止看板がある以上、中に入るわけには参りません。立ち入り禁止看板がまだ無かった時の、平成30年(2018年)1月17日の参加記で壕内を撮影した写真がありましたので、再掲載します。手術壕内部の様子ご覧くださいませ。

《過去の写真ご紹介》

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.8

壕に入って6メートルほど進むと、右側に小さな小部屋のような空間がありますが、この空間が手術室だったと言われています。手術の為のベットその他手術備品などの配置をイメージするとそれほど広くはないですね。手術室がむしろ狭いと感ずるぐらいです。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.9

手術室から戻り、本坑道を進んでみましょう。壕入り口からみて左側に曲がっています。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.10

壕は構築壕ですから縦横一間×一間以上の空間があります。平坦ではなく勾配が結構きついですね。坑道の左右には二段ベットが設けられ、手術を終えた患者さんらが横たわっていたと思われます。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.11

50メートルも進まないうちに、坑道は右側に曲がっています。空間は少し狭くなっています。奥の方に出入り口が見えますね。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.12

一緒に入壕した菊池さんが立っておられるので、壕空間の大きさが解りますね。ギリギリ立って歩ける状況です。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.13

壕の壁面を撮影しています。煤で黒くなっている部分は沖縄戦当時のままの姿です。激しい馬乗り攻撃を受けた事が想起されます。そして左側の白い部分は沖縄戦当時の岩肌が剥落しています。風がよく通り岩肌が乾燥してしまうのか、壕内至る所で同じように剥離しているのが目に付きます。昔はこうした状況にはありませんでしたから、岩肌の風化が進んでいるとみて間違いありません。剥離部の厚みは、ごく薄いので落盤に至る恐れはありませんが、戦跡の存続を脅かす事態である事は間違いありません。

ところで南風原の一般公開されている20号壕では、壕の入り口と出口に引き違い戸を設けて気温や湿度を一定に保つように工夫して、壕内環境の安定化を図り、それにより風化による劣化を防ぐ努力をしています。

2018年1月17日/遺骨収集の様子no.14

こちら側がもう一方の出入り口です。周囲の地形から、この出入り口は容易には見つからないという好条件の出入り口です。

過去写真の掲載はここまでです。

「白梅学徒看護隊之壕」の裏側に廻ってみましょう。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.25

壕口は二カ所あると書きました。しかし立ち入り禁止なので、山の斜面をグルッと回って、もう一カ所の壕口を見てみましょう。写真中央部の通路になっている部分から入っていきます。この写真風景は駐車場前の道路から見えますのでね。見学したいという場合は探してみてください。「白梅学徒看護隊之壕」碑から右側に50mぐらい行った先に写真の風景が見えてくるはずです。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.26

ここが二カ所目の壕口です。やはりこちらも立ち入り禁止となっています。ここは公園内の道路から近いですよ。50mも入らない内にこの風景が見えてきます。因みに、この壕口は上空を飛ぶ米軍の偵察機やグラマンなどからは絶対に見えない絶妙な位置に口が開いています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.27

壕内部は暗くて見えにくいですが、坑道が緩やかに右側に曲がっています。また壕口付近は少し屈まないと入れない高さとなっています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.28

この写真は、八重瀬公園駐車場から見える風景を撮影したものです。ごくありがちな普通の風景ですが、沖縄の古墓なのです。駐車場から歩いてゼロ分、しかも風葬骨もしっかり残存しているなどというのは、極めて貴重な存在です。僕は何時かは移設もしくは閉じられてしまうのではないか?と推測しています。ぜひそうなる前に、皆様も一度ご覧くださいませ。気軽に古墓の中を見学できる場所は早々ありません。古来よりの風習の一つが残る、沖縄旅行の貴重な一つの体験として有意だと考えます。

因みに、この写真に写されている古墓は30年ぐらい前から今日まで、外も中も一切人為が加えられた形跡がありませんので、所有者不明の古墓になっているのだと思われます。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.29

古墓の中を見ています。瓶が見えますね。そして白い風葬骨も‥。私は一個の石も移動していませんよ。30年ぐらい前から古墓の中が見える状態になっているのです。 この古墓の構造は背後のしっかりした岩盤を利用し、前面は石を積み上げてお墓とした様です。内部空間は畳一畳分ぐらいの広さが確保されているのが見て取れます。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.30

風葬骨も長い歳月を経て、ごく少量になっているのが見えます。大腿骨などの足のとか腕の骨などの大きい骨が残っているようです。元々はこの瓶は大人の人骨一体分が入る大きさで作られているようです。割れているので瓶の全体像は解りにくいですけどね。写真に写されている瓶は、南部島尻地域で見られる一般的な風葬骨を納める瓶と言えるでしょう。一方沖縄でも首里や中部に行くと、瓶も豪華な装飾が為された厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる瓶が用いられたようです。浦添の古墓で一度そうした装飾の施された厨子甕の蓋を見た事があります。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.31

「白梅学徒看護隊之壕」の慰霊巡拝を終えた後、少しだけ八重瀬グスク跡に向かう階段を登り、桜並木を写しています。八重瀬公園は、南部では随一の桜の名所として知られていますよね。公園内には約500本の緋寒桜(ヒカンザクラ)が植えられています。「やえせ桜まつり」は、毎年2月の第1日曜日に八重瀬公園内で開催されるそうですよ。遊歩道階段の両脇には沢山の桜が植えられていますから、満開の時などはさぞ見応えのある桜並木となる事でしょう。私も一度だけ「やえせ桜まつり」を松永さんに連れられて見学した事があります。(^o^)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.32

すでに緋寒桜も咲き始めています。

八重瀬公園は桜の名所で知られているのはご承知の通りです。そして毎年桜祭りが開催されるという話が出ましたので、平成24年(2012年)の遺骨収集で松永さんと共に、第6回やえせ桜祭りを見学した時の写真があるので、ここに転載しご紹介致します。(^o^)

《過去の写真ご紹介》

やえせ桜まつりの様子29

【第6回やえせ桜まつり/平成24年(2012年)撮影】
本土と同じように今年の沖縄はとても寒くて桜の開花も大幅に遅れました。ご覧のように桜は一分から二分咲きといったところでしょうか。

やえせ桜まつりの様子30

天候にも恵まれ大勢の人たちで賑わうさくら祭り会場の様子です。

八重瀬町は東風平と具志頭が市町村合併して生まれました。さくら祭り全体を通して合併した町民の懇親を深めるための演出を強く感じましたね。寒い冬から解放され綺麗な桜の花の下で、子供からお年寄りまで楽しめる各種アトラクションが用意され、イベントに参加したり観覧したりそれぞれの立場で終日楽しめるよう配慮されている印象でした。(^o^)

やえせ桜まつりの様子31

ご存じピーマンですが、大きいですね~。飛ぶように売れていました。

やえせ桜まつりの様子32

子供向けのシーサー作成教室といったところですね。沖縄らしいイベントですね。

やえせ桜まつりの様子33

作業する机の上は大変なことになっていますが、粘土を整形するところからスタートしていますから、完成した時はきっと嬉しいでしょうね。きっと良い思い出になるでしょう。

やえせ桜まつりの様子34

彼らの “作品” を紹介しますよ。可愛い顔をしていますね~。(^o^)

やえせ桜まつりの様子35

ユニークな顔のシーサーが次々に生まれていますね~。

やえせ桜まつりの様子36

子供の発想の豊かさを改めて感じますね。

やえせ桜まつりの様子37

この「シーサーのルーツ」を見ると、シーサーはエジプトがルーツであり、イスラムの中東を経て東南アジア、そして沖縄へと伝わったみたいですね。勉強になりました。

やえせ桜まつりの様子38

歌謡コンテストと銘打ってカラオケ大会が開催されています。皆さん歌がとても上手でしたが、それ以上に司会者の現地語を交えた軽妙な語りで会場を沸かせていた司会者が印象的でしたね。右側に立っている方が司会者です。

やえせ桜まつりの様子39

メインステージ前には、雨に備えてのテント付きの観覧席がもうけられていました。地元のお年寄りなどを招待しているみたいですが、踊りなどのイベント用の服装をしている方も居ましたから、観覧したりイベントに参加したりと見て踊って楽しんでいる雰囲気でしたよ。

やえせ桜まつりの様子40

出店も沢山出店していましたから販売されている食べ物は豊富でしたね。奥の方に見えるのは子供向けのさながら移動遊園地といった感じで、子供が楽しめる施設が設置されていました。

やえせ桜まつりの様子41

獅子舞の様子です。こんなに近くで沖縄伝統の獅子舞を見るのは初めてですが、かなり迫力がありました。

やえせ桜まつりの様子42

よく観察すると独特の動きがあり、この動きのパターンも多かったです。

やえせ桜まつりの様子43

この姿勢も獅子舞君のお気に入りの体勢みたいですよ。(^o^)

やえせ桜まつりの様子44

やえせ桜祭りのメインイベントと思われる大綱引きが始まったようです。東西から大きな大蛇に見立てたと思われる綱を大勢の人たちが担いで登場しました。東西の綱は男綱・女綱と呼ぶらしく、女綱を扱うときは優しく、男綱は粗々しく…。というようなイメージで綱を操るのだそうです。

やえせ桜まつりの様子45

綱は蛇に例えられるのでしょうかね。場内を蛇がクネクネするように練り歩きます。

やえせ桜まつりの様子46

東西の綱がここで合体しましたが、棒が男性のシンボルに見立てどうやら男女の合体をも意味するようです。実際にそのようにアナウンスしていましたが、もちろん神事という意味ですから、神聖な行事という意味です。時間をかけ神妙に作業が進められました。日本の祭りにはそうした男女の絡みを含めた祭りが多いですね。

やえせ桜まつりの様子47

大綱引きは準備が完了した時点で一度休止し、棒術の演舞が始まりました。

やえせ桜まつりの様子48

沖縄は空手が盛んであるのはよく知られていますが、伝統の棒術も様々な武器が登場し、また演舞のいろんな型があるようですよ。

やえせ桜まつりの様子49

複数の団体が参加している印象です。各地域に伝統芸能を守る組織があるのかもしれません。

やえせ桜まつりの様子50

単独で演舞したり、複数人で演舞したり、また動作も実に多彩です。

やえせ桜まつりの様子51

後ろ姿で少し解りにくいのですが、沖縄県自由民権運動の父、謝花昇先生を讃えるデモストレーションです。謝花昇先生「東風平謝花」と称えられて県民の尊敬を集め、地域の英傑として現在でもこのように地元のイベントで顕彰されているのですね。

やえせ桜まつりの様子52

こちらは、汗水節を書いた仲本稔先生を讃えるデモストレーションです。「汗水節」は働く喜びを歌い、社会奉仕を説く沖縄の代表的な教訓歌で、沖縄県人の社会生活向上運動に貢献し、現在でもこうして謝花昇先生 と共に地元で顕彰されているようです。

やえせ桜まつりの様子53

やえせ桜祭りのメインイベントである大綱引きが始まりました!。写真では紹介できませんが、見物する町民の皆さんも大きなかけ声を発して、会場が大きな歓声に包まれながら燃え上がりました。(私は決着がつく前に那覇空港に向かいましたが、結果は一勝一敗だったようです。また祭りの最後には、字富盛青年会のエイサーが演舞されたそうです。見たかったな~。)

過去写真掲載はここまでです。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.33

とある壕口を写しています。「第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕」又は「下の壕」と呼ばれた壕です。よく見ると水道工事で使用する塩ビ管が少し見えますね。壕口を埋める際に用いたものです。例えば木材で壕口を塞ぐと、10年後とかに腐って再び壕口が露出してしまう恐れがありますが、塩ビ管は腐る事がありません。

因みに写されている壕は、第二十四師団(山部隊)第一野戦病院本部壕です。別名「下の壕」とも呼ばれていた壕です。この壕の所在場所を知っている方は少ないかもですね。本部壕は収容人員500名と最初にご紹介した案内板には記載されていましたね。500名とは結構大きな壕です。ここは「下の壕」ですから、当然「上の壕」もある訳ですが、「上の壕」は最初に見学した手術壕がそれですね。

病院長:安井二郎軍医少佐が病院長で以下軍医、衛生兵186名、陸軍看護婦や補助看護婦、そして46名の(白梅学徒看護隊員が配置されていました。そして戦況の悪化に伴い6月3日には新城分院や東風平分院に居た白梅学徒看護隊員も、ここ本部壕に引き上げていましたが、6月4日には本部壕も又閉鎖される事となり、白梅学徒看護隊員にも非常呼集が掛かり解散命令が下されました。学徒らは戦野を彷徨するかのように、それぞれ数名ずつ班を作って南部に向かいました。一部の学徒は「白梅之塔」横の病院壕に合流した後に、米軍の馬乗り攻撃を受けて戦没されたとの事です。

※ 手術壕の所でご紹介した、「NHK戦争証言アーカイブス 八重瀬岳の病院壕」に、この本部壕の見取り図が示されて説明が為されています。かなり広大な壕となっているのが解ります。ぜひご覧下さいませ。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.34

もう一つの壕口を撮影しました。こちらの方が塩ビ管がよく見えますね。私も昔三カ所の壕口を見ていますので、更に前方に進むともう一カ所あるはずです。以前壕口から内部空間を見た時に感じましたがが、内部空間の通路はしっかり広さ高さが確保されていて、かなり動きやすい印象を持ちました。

本部壕は、元々は壕口が五カ所あったとう話です。内部坑道は縦横に走り、本部をはじめ病室や薬局、そして炊事場等が配置されていました。「下の壕」で調理された食事を「上の壕」即ち手術壕に運んでいたようです。食事の運搬は白梅学徒看護隊が行いました。食罐5つ6つ肩に掛けて運ぶという、命がけのかなり危険な作業だったようです。

今回は時間が無いので三つ目の壕口を探すのはパスです。ネットで調べても本部壕の中の様子は出てきません。私も本部壕の中には入った事がないので、機会があれば見学したいですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2014年6月と言いますから、今からの琉球新報の記事に、第24師団(山部隊)第一野戦病院本部壕の内部調査が為され、壕の構造の詳細が判明したという記事がありましたので、ご紹介させて頂きます。(^o^)

八重瀬・第一野戦病院本部壕 構造の詳細判明

【琉球新報】平成26年(2014年)6月5日

〇沖縄戦で白梅学徒隊が看護要員として動員され、戦後、落盤により立ち入りが困難だった第24師団第一野戦病院跡(八重瀬町富盛)の本部壕の内部調査が行われ、構造を詳細に描いた見取り図が4日、公表された。

これまでは元衛生兵が記憶に基づいて描いたスケッチや、1977年に厚生省(当時)が行った遺骨収集の際に作成された概略図などしかなかった。専門家は調査成果について「詳細な見取り図で非常に貴重な戦跡が残っていることが判明した。安全対策を施し、本部壕を保存・活用すべきだ」と話している。

白梅同窓会の依頼を受けた沖縄平和ネットワーク文化財・ガマ部会が2012年12月から内部調査を進めていた。同日、元学徒らに作製された壕内の見取り図や遺留物について説明した。

同窓会の中山きく会長(85)は「ちょうど69年前の6月4日、この本部壕で解散命令が出された。見取り図は私たちの記憶を補うだけではなく、沖縄戦を語り継ぐ上でも非常に重要な資料になる」と話した。

調査結果によると、本部壕の内部は東西約70メートル、南北約40メートルに広がる。八重瀬岳の北の斜面に四つ、北東に一つ、計五つの入り口があった。

それぞれの入り口から坑道が南側(第1~4坑道)と南西側(第5坑道)に延びており、中で東西の二つの坑道に交差し、つながっていたことが確認された。

調査開始時は落盤でどこに入り口があるのかも不明だったが、第2、第4坑道の上部から穴を開けて進入。第3坑道と、第2坑道の南半分を除くエリアを計測し、図面化した。

当時は坑道に沿って負傷した兵士が寝かされており、2段ベッドの骨組みとみられる木材、未使用の薬品アンプル、薬ビン、茶碗、軍靴なども見つかった。

白梅学徒隊は県立第二高等女学校の生徒で編成され、動員された56人のうち、22人が死亡した。第一野戦病院には、ほかに手術場壕(上の壕)、新城分院(ヌヌマチガマ)などがある。

同窓会では本部壕の見取り図などを記載した説明板を近くに設置したいとしている。内部調査後に再び入り口がふさがり、入れなくなっている。(安田衛)

「琉球新報」から転載させて頂きました

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.35

初めて「富盛の石彫大獅子」を探そうとする方は、この場所に到達するのに、かなりの時間を要するかも知れません。写真左側の坂道を50m程登ると駐車場が右側にあります。(^^;)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.36

近年に専用の駐車場が開設されました。昔は道路脇に駐車せざるを得ませんでしたが、これで安心して駐車できるので、ゆっくり見学できます。小高い丘の山上も見えていますね。(^o^)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.37

「勢理城」(ジリグスク)と言う石碑があり、「富盛の石彫大獅子」と言う掲示物はありませんが、この高台に鎮座しています。

所在地ご紹介

「駐車場はあります。トイレはありません」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.38

標高163mの八重瀬岳を写しています。山上右側に崖のようになっている部分がありますが、崖部分辺りが八重グスクから撮影した時に見える場所ではないかと思われます。八重瀬岳山上には陸上自衛隊八重瀬分屯地があります。ご覧のように、山上には自衛隊の居住棟と思われるコンクリート製建物が少し見えていますね。

島尻陣地帯の山脈のながで、一番高い山が眼前にある八重瀬岳です。首里退却後の沖縄守備軍は、東西約6km、南北約4kmの断崖続きの天然の要塞に守られる喜屋武半島に立てこもり、最後の戦いを試みんとするものです。天嶮の八重瀬岳はその中でも最も要衝と言える最重要の地でした。すでに標高は書きましたが163mありますから、北側の低地帯から見ると、ご覧の様にそびえ立つ様に立ちはだかっていて、その標高差は90mもあると言われており、米軍も容易に近づけないと言うのが解ります。八重瀬岳の形状から同軍の将兵は、この山を「大きなリンゴ」と呼んだそうです。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.39

カメラをもう少し南側に向けて撮影しました。摩文仁方面に向かうに従い、急傾斜も緩くなっているのが見えますね。奥まった場所は安里方面です。主に独立混成44旅団が布陣した地域です。八重瀬岳はの戦いは6月6日から中旬にかけて行われました。この山稜は米軍との激闘が繰り広げられた大地でもあります。

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.40

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:(東風平町富盛)
撮影日:1946年 1月
写真解説:【原文】 Yaeju Dake Escarpment.
【和訳】八重瀬岳の急斜面

平成31年(2019年)1月18日/沖縄遺骨収集の様子no.41

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:米国陸軍通信隊 沖縄関係
撮影地:
撮影日:1945年 6月14日
備 考:第96歩兵師団
写真解説:【原文】Riflemen of the 2nd Battalion, 381st Regiment of the Tenth Army's 96th Division, peer cautiously ahead as they advance across the summit of Yaeju-Dake escarpment (Big Apple Ridge) on Okinawa.
【和訳】警戒しながら八重瀬岳(ビッグアップル・リッジ)の頂上目指す第10軍第96歩兵師団第381連隊第2大隊のライフル兵。

「富盛の石彫大獅子」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「富盛の石彫大獅子」とご対面です。実に331年前に据え付けられた石彫大獅子に、久しぶりのご対面です。(^o^)

目的の狛犬(シーサー)の「富盛の石彫大獅子」は、八重瀬岳の道路を挟んだ向かい側、その昔に勢理(じり)グスクがあった山上にあります。同グスクのあった場所にある事から、別名「勢理城の石彫大獅子」とも呼ばれるそうです。「富盛の石彫大獅子」は(ともりのいしぼりうふじし)と読みます。因みに『うふ』は、沖縄の方言で『大きい』を意味するそうですよ。「うふ、大きい」 と書くと何かいやらしいですね。(笑)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.43

「富盛の石彫大獅子」設置の由来は、当時村中に不審火が多いことで困っていた富盛村の住民が、久米村の蔡応瑞(大田親雲上)に風水を占ってもらった結果、「八重瀬嶽に火の性がある。早く獅子の形を作って八重瀬嶽に向けて立てよ」と教えました。その助言を受けて設置されたと伝えられています。実際に火事はなくなったというので、村人たちは「良かったさぁ~」「嬉シーサー」と、喜んだそうです。(笑)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.44

この大獅子は、火除け(火返し)として琉球王朝時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものです。高さ141cm 長さ175cmで1つの岩から彫られおり、沖縄に現存するシーサーの中で最も古いとされています。当初は牙があったそうですが、欠けてしまったようです。実際によ~く見ると、欠けたと思われる部位が確認できます。

大獅子はフィーザン(火山)といわれる八重瀬岳(嶽)に向けて建立されています。沖縄各地にある村落祭祀上の目的で作られた獅子の中でも最大最古のものであり、民族資料としても貴重なものであるといわれています。 1974年には沖縄県指定有形文化財に指定され,今は町のシンボル的存在となっています。

沖縄戦当時の富盛の大獅子88

比べて見て下さい。
米軍側が撮影した沖縄戦の写真で、「富盛の石彫大獅子」の周囲で、八重瀬岳に布陣する日本軍守備隊の動向を監視しているところです。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.45

弾痕の跡が一致している様に見えますね。

令和年(2020年)1月13日/沖縄遺骨収集の様子no.46

こちらも弾痕の跡が一致している様に見えますね。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.47

「勢理城」広場から東側方面を撮影しています。写真奥の山稜との中間点辺りに、具志頭に至る県道507号線が走っています。現在の県道507号付近の平坦地を、米軍は攻め上ってきたと推測されます。因みに向かいの山稜にある新城グスク跡を含む稜線には、八重瀬岳との間で挟撃する為の守備軍陣地や、その南方に戦闘の激化に伴い、収容患者数がピーク時で千名にも及んだと記されてい「ヌヌマチガマ」があります。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.48

「勢理城」があったと言う広場です。勢理グスクの築城時期や誰が築城したとかの情報は、文献が残っていなくて不明だそうです。またグスクの石垣や遺構も無いとの事です。ただ八重瀬岳にも八重瀬グスクがありますが、両グスクの領主は同じだとされているようです。と言う事で、今は草地となっている、この場所にグスクがあったと言う事でしょう。この広場も昔は巨木に囲まれて、暗く鬱蒼としていました。しかしながら、その後は台風で巨木が倒れたり、枯れたりしたのでしょう。ご覧のように、随分と明るい広場となりました。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.49

すでに帰路についています。駐車場から「勢理城」があったと言う広場を撮影しています。ご覧のように、石灰岩の巨岩が崖を形成しているのが見えます。「勢理城」の周囲はほぼ同じような石灰岩により崖に囲まれているとの事です。

「島守の塔」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.50

「島守の塔」です。同塔は平和祈念公園内にありますし、主要道路上から見えるので、発見しやすいと思われます。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレは、平和祈念公園内の施設を利用します」

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.51

「島守の塔」の説明書きです。読めますね。島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長の遺体は未だ発見されていないと記されています。「島守の会」が主体となり、消息を今も探しているとの事です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.52

島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る「島守の塔」の全景です。写真奥のジャングル内に軍医部壕があるわけですが、島田知事と荒井警察部長の消息は、軍医部壕を出た所で途絶えているために、ゆかりの軍医部壕前に慰霊塔を建てました。私達も遺骨収集にやってくると、国立戦没者墓苑への参拝と共に必ず立ち寄るのがこの『島守の塔』です。

「島守の塔」の名称は、県下の公募で寄せられた七百余通の中の一等入選作から命名されたといいます。 塔の除幕式と第一回慰霊祭は、昭和26年(1951)6月25日に行われました。島田知事夫人の美喜子氏をお迎えし、5000人近い沖縄県民も参列して式典は執り行われたそうです。

摩文仁には50を超える慰霊碑、慰霊塔が建立されていますが、その中でもいち早く県民の浄財により『島守の塔』は建立されました。 その事からしても、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなどした、沖縄戦前後における島田知事、荒井警察部長、そして県職員への沖縄県民の感謝の気持ちが、『島守の塔』の早期建立を実現させたのかもしれません。そして両氏は、いわゆる内地出身であるにも関わらず、戦後から現在に至るも沖縄県民の敬慕を集めていると言えるでしょう。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.53

歌碑です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.54

戦没した島田沖縄県知事、荒井警察部長、県庁職員468名を祀っている「島守の塔」です。

大阪府の内省部長の地位にあった島田氏は、内務省の命による第二十七代沖縄県知事就任について、この話を断ることもできる地位にいましたが、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、神戸弁で沖縄県知事就任を即決したといいます。文官は軍人と違って、殉職を予想しての任官はそうそうあるものでは無いはずですが、島田氏は沖縄の困難な時局を背負う覚悟で引き受けられたのだと思います。拳銃と青酸カリを懐中に忍ばせ、死を覚悟しての沖縄入りと思われます。昭和20年1月31日赴任、そして6月下旬に島田知事は消息不明となりました。知事在任期間およ五ヶ月…。予期された殉職のその日まで、多くの仕事を成し遂げた五ヶ月でもありました。

一方県外疎開などの県民保護に邁進した荒井警察部長は、在任ちょうど二年で殉職されました。荒井警察部長は立場上東京で開かれる全国警察部長会議に行く機会が何度かありましたが、会議より県民疎開の仕事が大事だと、結局就任以来沖縄本島から出ることはありませんでした。ご家族は郷里である栃木県に引き上げさせていましたから、上京の機会を利用すれば家族との面会もできたにも関わらずです。また荒井警察部長は、壕を転々とする頃から不衛生な壕生活などが原因と思われる、赤痢になってしまったようです。激しい下痢に悩まされ、壕内でも横になっている事が多かったといいます。

島田沖縄県知事が43歳、荒井警察部長が44歳で殉職されました。島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人は、沖縄の戦時体制下における沖縄県民の生命を守るべく、車の両輪のごとく共に力を合わせ献身的に、困難な状況下での60万県民の保護という戦時県政業務すなわち疎開政策と食糧不足対策に尽力されたのです。前任の知事時代は、色々と問題があり疎開業務がすスムーズに進まなかったようですが、特に二人が軍と協力して推し進めた沖縄県民の県内外疎開政策により、沖縄戦を生き延びた県民は二十万人にも達したのです。

島田知事は、6月9日米軍による島尻掃討戦が迫る中、「轟の壕」内で同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じたのです。島田知事は、生きて生還しようとは考えておらず、解散を命じた以降、死に場所を求めて荒井警察部長と共に、摩文仁の第32軍司令部壕を訪ねたといいます。

島田知事は、沖縄守備軍第32軍牛島満司令官に、「行動を共にさせていただきたい」と頼みましたが、牛島司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は非戦闘員なのだから、死ぬ必要はない」と諭したと言われています。島田知事は牛島司令官が勧めた「軍医部の壕」に移動したと言います。

牛島軍司令官は6月23日に軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は収束しました。そうした中で、通説が幾つかありますが、島田沖縄県知事と荒井警察部長の二人は、所在が確認されている摩文仁之丘にあった「軍医部の壕」を25日か26日に出た後、その数日後荒井警察部長は、アメーバ赤痢が悪化して亡くなり、島田知事は摩文仁南斜面の自然壕でピストル自決したと見られています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.55

歌碑です。故仲宗根政善先生が詠まれた詩です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.56

歌碑です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.57

歌碑です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.58

階段を登ってみましょう。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.59

霊域最上部には「沖縄県知事島田叡 沖縄県警察部長荒井退造 終焉の地」と書かれた塔が建立されています。沖縄戦当時、この附近に「機関銃の銃座」があったとされています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.60

V字谷の東側の様子です。見事なV字谷になっているのが見えます。因みにV字谷の底に降りる事は可能です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.61

東側の更に奥まった部分を撮影しています。奥まった所に壕があるにはありますが、谷に並行してある壕ですし、形状がまるで違いますので「軍医部の壕」ではありません。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.62

V字谷の西側を見ています。こちら側は窪みはありますが、「軍医部の壕」のような奥深い壕はありません。このV字谷も一見わかりにくいですが、慰霊祭に使用された物品が大量に捨てられていて、露天の範囲については、遺骨収集をするのは困難だと思えるほどゴミが堆積しています。まずゴミを片付けないことには、沖縄戦当時の地盤には絶対にたどり着けないでしょう。

私達は、島田知事と荒井警察部長のお二人が最後の時を過ごされたと言われる、「軍医部の壕」を見つける事が一つの目標となっています。未だ果たせてはいませんが、いつの日か必ず見つけたいと念じています。碑の背後のV字谷部分は土砂が、すぐに降りられるぐらいに堆積していますが、この土砂は慰霊碑を建立する際に出た残土ではないかと私は疑っています。この土砂に埋もれた範囲内に「軍医部の壕」があるのではないかと推測しています。

『沖縄の島守』(田村洋三著/中央公論新社)によれば、「島守の塔」裏手にあるとされる「軍医部の壕」について次のような記述がありますので、転載させて頂きました。

【摩文仁之丘の軍医部壕内見取図】

摩文仁之丘の軍医部壕内見取図

さて、島田らを迎えたころの軍医部壕は、どんな様子だったか。大塚は著者の取材ノートに壕内の略図(挿図22)を書きながら、説明してくれた。

「あの辺には軍司令部のほか、経理部、獣医部、法務部などが、それぞれ壕を構えていましたが、軍医部の壕が一番狭く、お粗末でした。

雨が降りますと、やんでからも三時間はポトリ、ポトリと雨漏りがするので、奥の方はいつもジトジト濡れていました。
そんな所に軍医部長の篠田重直・軍医大佐以下36人が、すし詰め状態で入っていました。そこへ知事以下4人を受け入れたのですから、一層狭くなりました。

あの壕は九師団が台湾へ去った後、島尻へ配備された山部隊(第24師団)が掘っておいたもので、入口に機関銃の銃座がありました」

島守の塔は下に島田知事以下の戦没県職員を祀る慰霊塔、背後の数十段の石段の上に島田と荒井の終焉の地を示す石碑が立つ二段構えの造りになっているが、銃座は上の碑の場所にあった。

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました。

その鍾乳洞で我々は命拾いをするのですが、それは後でお話しするとして、大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル、奥行き10メートルぐらい、天井は大部屋より低い細長い部屋がありました。将校三人はそこに居ました。島田さんたちも、ここへ入って頂きました。

両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅ぐらいの湿気よけの木製の簀の子を敷きまして、縦二列に寝ていました。

配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、二番目が私と島田知事、三番目が県庁職員(仲宗根官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした。」

「沖縄の島守」から転載させて頂きました

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました」

この大塚氏の証言は実に具体的でリアルなので、大いに私たちを喜ばせてくれるものですが、この文面を頼りに「軍医部の壕」を捜しても、残念ながらどうしても見つかりません。

いずれにしてもこれまで何度がチャレンジして徹底的に「島守の塔」周辺部の壕発見を目指して精査しましたが、「軍医部の壕」に該当するような内部構造を持つ壕に出会うことはありませんでした。

《書籍ご紹介》
島田沖縄県知事と荒井警察部長の軌跡について、更に詳しく知りたい方はぜひお読み下さいませ。(^o^)

「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」

田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)初版

「10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡」

TBSテレビ報道局『生きろ』取材班著 (株)ポプラ社 平成26年(2014年)8月初版

島田知事と荒井警察部長に関わる記事がありましたのでご紹介します。

【住民に「生きろ」沖縄戦時の島田知事、顕彰の動き広がる】

「産経新聞」平成27年5月2日

太平洋戦争末期に沖縄県最後の官選知事として住民保護に尽力し、本島南部で消息を絶った島田叡氏を顕彰する動きが広がっている。命日とされる6月26日には那覇市で顕彰碑が除幕され、出身地の兵庫県との交流会も予定される。国に命をささげることが礼賛された時代、住民に「生きろ」と呼び掛けた島田氏のメッセージが戦後70年を経て再評価されている。

米軍の上陸が迫る1945年1月、島田氏は大阪府内政部長から沖縄に第27代知事として派遣された。44年10月の空襲で那覇は壊滅的な被害を受け、前任者は東京に出張したまま戻らなかった。

当時、県人事課にいた板良敷朝基さん(97)は「死を覚悟して沖縄に来られたはずなのに、非常に穏やかな表情だった。この人となら運命を共にできると思った」と振り返る。

着任後、食糧確保のため自ら台湾に渡り、県民約10万人の日本本土などへの疎開を陣頭指揮。日本軍が首里の司令部放棄と南部への撤退を決めると、知事も職員らとともに糸満市の「轟の壕」に移動した。だが米軍の猛攻は収まらず、壕で県庁を解散。同市摩文仁の陸軍司令部壕に向かい、消息を絶った。43歳だった。

旧日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓から、住民にまで集団自決を強要していた。だが島田氏は県庁を解散した際、県警察部職員の山里和枝さん(88)に「米軍は女性と子どもには手を出さないから、最後は投降しなさい。必ず生き抜いて、戦後の沖縄のため尽くしてほしい」と言い残したという。

戦後、戦没職員とともに「島守」とたたえられた島田氏。主人公にしたドラマの影響もあり、有志でつくる団体が2013年から顕彰碑建立への協力を呼び掛け始めた。

賛同の署名は3万に上り、建立のため沖縄県内外から600万円以上の寄付が集まった。島田氏が学生時代に野球に打ち込んだことから、那覇市の球場近くに建立される。那覇市で開かれる兵庫県との市民交流会には、井戸敏三知事も出席する方向で調整している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】

「産経新聞」平成27年6月11日

郷土史研究家が功績伝える

終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。

講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。

■7万3000人を県外疎開

荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。

「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。

4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。

日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。

戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。

■顕彰へ機運高まる

塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

調査・遺骨収集作業開始です

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.63

本日が最終日です。今日曇りのち晴れで天気は問題ありません。最終日の晴れは有り難いです。気持ちよく作業を終えられるからです。本日は後列右から三浦さん、吉井さん、松永さん、そして原田さんで、前列右から福岡さん、琉球新報社の記者さんです。それでは最終日の今日も頑張って参りましょう。(^o^)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.64

調査・収集作業開始に先立ち、沖縄戦戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m
今日は最終日です。悔いの残らないように、しっかりと取り組ませて頂きましょう。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.65

壕の中に入っていきます。昨日はベトベトに濡れていた壕口も、今日はカラカラに渇いていて、服も汚れなかったし入りやすかったです。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.66

作業開始です。壕内の土も、まだ湿っぽいですが、雰囲気的に乾く方向に向かっているのが感じ取れます。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.67

福岡さんの小物入れです。非常に便利だと私も実感しました。他の遺骨収集団体の皆様にも、この小物入れの活用を推奨したいです。(^o^)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.68

昨日は雨水の水滴がビッシリ付着していた壁面も、今朝は全く水滴がありませんね。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.69

この辺りも同じく、今朝は全く水滴がありませんね。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.70

この辺りもそうです。今日は乾いています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.71

福岡さんです。左手の手袋をご覧下さい。まだ湿気があり手袋に土が付着しますが、昨日は粘土のように扱いにくかった土も、今日はかなり軽く感じるとの事です。今日はグングンと作業効率が上がる事でしょう。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.72

吉井さんが作業しています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.73

三浦さんが作業しています。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.74

福岡さんです。地面が綺麗になりました。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.75

この時点での収集された少量のご遺骨と遺品類です。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.76

アップしました。写真中央は万年筆の部品みたいです。左下のガラス製品は、先日の壕底でも同じ物が沢山見つかりました。ガラス製の何の部品なのか知りたいですね~。(^o^)

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.77

この錆びた鉄製品は何でしょうか?

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.78

人骨も少量でました。右上の丸いご遺骨は膝蓋骨と思われます。膝蓋骨も一人に二個あるので、意外に多く発見するご遺骨でもありますね。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.79

「レオソート丸」と書かれていますので、「クレオソート丸」の瓶と言う事になるでしょう。この瓶もよく見かけます。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.80

福岡さんが取り組んでいる場所から、色々と出てきますね。

令和3年(2021年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.81

左に見えるのは発射された小銃弾です。また新たにご遺骨も見つかりました。足の骨である腓骨だと思います。右側の骨は間違いなく腓骨と言えますが、左側は骨端部が微妙に腐熟して無くなっていますから、腓骨と断定は出来ませんが、二つの骨が同じ場所から発見されたと言う事で、腓骨の両端が一緒に見つかったとみるのが順当だと思います。

本年の私達の遺骨収集も、残すところ半日となりました。過ぎてしまえばあっと言う間の12日間でした。行き当たりばったりで取り組んでいる私達の沖縄遺骨収集ですが、来年遺骨収集する場所を探すべく、福岡さんとサイト管理人とで、ジャングルを徘徊して見たいと思います。皆様もご一緒に、摩文仁のジャングルを徘徊して見ましょう。(^o^)

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まずは下っていきます。幅150mの範囲で、崖上と下とを往き来出来るのは、ここだけしか無い事を把握していますのでね。遠回りするのは面倒なので、ここを降りていきます。

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谷地ですからクワズイモなども結構繁茂している場所です。

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ジャングルを徘徊していて、遠くの風景を見るのはとても大切です。距離感が把握出来る場合が多いからです。ジャングル内に居ると、距離がとても遠く感ずる事も多いので、そうした誤った感覚を正すためにも、こうした行為は時折やる必要があります。遠くが見えそうだなと言う場所では、なるたけ高い場所に登って観察する習慣をつけたいですね。この写真でも遠くの風景が見えているのですが、写真では明るくてちょっと見にくいです。

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被弾を防ぐに良い場所がありました。

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人が隠れるに十分なスペースがありました。またご覧のように手榴弾がありました。

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険しい場所が多いです。それは又、隠れ場所があるという意味でもあります。

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良い隠れ場所が見えます。降りて入ってみましょう。福岡さんが向かいます。

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目の前に窪みがあるのですが、素直に行かせてはくれませんね。またまた回り道をしなければなりません。

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目的の窪みは特に何もありませんでした。次を探しましょう。

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蔓植物が繁茂し行く手を阻みます。

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人が隠れるに十分なスペースがありましたが、特に何もありませんでした。

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壕がありました。入ってみましょう。

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割れた瓶がありました。いわゆる一升瓶というやつですね。戦後投げ捨てられた瓶ではないと思います。平和祈念公園から投げ捨てても、ここまでは届きませんからね。

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ここにも立派な壕がありました。

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少し入るとこんな感じです。

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結構な広さがありますね。

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更に奥があるようです。

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金属探知機の反応がありますね。

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少しずつ奥へ移動しています。

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ご覧下さい。岩肌に水滴が付着しているように見えますが、この細かい粒々は全部鍾乳石なんですね。水も回って来ている事から、鍾乳石は成長を続けている印象です。写真ではキラキラが薄くなっていますが、現地では粒々がやけに光っていたのが印象的でした。

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福岡さんの手に注目です。右手に金属探知機。左手に草刈りガマを持っているのが見えます。遺品類は金属的な物も多いので、結構効率よく遺品を発見出来ると思います。

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少し探しただけですが遺品が出てきました。

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複雑な壕です。引き続き移動しながら探します。

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まだまだ横に移動出来ます。一本大きな鍾乳石がありました。

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複雑ですね~。

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やっと壕口がありました。

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出ました。ここは良い壕です。頭の中に入れておきます。

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大きなキノコがありました。

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藪です。強行突破します。

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福岡さんが見つけました。弾丸だと思いますが、羽根がついていますね。

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横から見ています。先の部分にはネジ山が切られていますね。ですから弾丸の頭ではなくもっと先があったと思われます。

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一緒にあった物ですが、丸い形状をしているので、この弾丸の一部かも知れませんね。

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同じくこれも丸いです。一部ですね。

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更に前進を続けます。

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ここも方角からして、良い隠れ場所です。

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巨大な一枚岩の下です。

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まだ奥がありました。ここら辺りは安全安心な場所だと思います。

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次はどこか無いかな。辺りを見渡す福岡さんです。

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ありました。中に入ってみましょう。岩の割れ目のようです。

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場所を移動しました。大きな一枚岩の下です。

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金属探知機の反応があったので調べています。

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急斜面が目の前に現れました。勿論超えて行きましょう。

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地際に壕がありました。

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水瓶がありました。沖縄では風葬墓としてジャングル山中の岩穴などに設けられます。裕福な家は立派な厨子甕(骨壺)に入れますが、裕福でない家は、ご覧のような水瓶とかに入れる事が多いようです。南部島尻で見つかる風葬墓には、この水瓶が圧倒的に多用されているのが実情です。因みにこの場所は相当ジャングル奥深い場所なので、風葬墓ではないと思います。また瓶にも人骨の、特に粉になった人骨が全くないので、この瓶は日本軍将兵か避難住民が水を入れておいた瓶だと思われます。

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ここも良い隠れ場所です。中は特に何もありませんでした。

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時間も押してきたので、来年の為の調査はこれで終了です。戻ります。

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行けど行けどジャングルは続きます。気がつけば、かなり遠くまで来たようです。

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見覚えのある風景が見えてきました。間もなく帰着出来そうです。(^o^)

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帰ってみると、松永さんが壕に脚立を設置しておいて下さいました。後で見たいと言っていた壕です。中に入ってみましょう。

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深さ4mぐらいの壕です。沖縄戦当時も小さなハシゴを作れば出入り出来たと思われます。中は結構広いです。

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行き止まりになっていますが、落盤ではないようです。

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反対側の一番奥はこんな感じです。非常に居心地の良さそうな壕ですが、天井に二カ所大きな穴が空いている事から、空からガソリンを蒔かれたり、ナパーム弾攻撃をされたら、ひとたまりもありませんね。

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金属探知機の反応はありますが、目視していても特に遺品は出ないですね。この壕の壕口は目立つので、すでに調査は何回もされていると思われます。

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本日の作業も終わりました。帰る途中、崖の壁面に10m以上の長い棒があると思って良く見たら、木の根でした。ご覧下さい。長い棒の右側は岩からポコッと根がでて、左上に10m以上伸びています。その根は、間違いなく生きている印象です。私もこの根のように強く生きよう。(笑)

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国立戦没者墓苑で参拝今次遺骨収集も全日程を全員無事故で終える事が出来ました。感謝感謝です。願わくば、来年は摩文仁にメンバー全員が集えますように‥‥。

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