令和03年(2021年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月21日(木) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今朝の時点での天気予報は「曇り夜遅くに雨」で、最高気温23度、降水確率は30%、30%です。雨の心配は不要と思われますが、今日も暑くなりそうですよ。本日朝の慰霊巡拝は、「沖縄陸軍病院第二外科壕」「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」「国立沖縄戦没者墓苑」を訪ねました。

「沖縄陸軍病院第二外科壕」

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.1

「陸軍病院第二外科壕」に向かいます。国道331号線から脇道を100メートルぐらい進むと、小高い稜線の切り通しありまして、その切り通しを過ぎる際に右側を注意深く見て進むと、この写真の場所に出ますから、見落とさないように注意して下さいね。ご覧のように車も一台止めることが出来ます。専用駐車場と言えるかもです。また40メートルぐらい離れた場所にも駐車場もありますのでご安心ください。壕のあるこの場所は、東西に延びる小高い稜線の裾にあたり、前の方には畑が広がっていますし、海も見えますが、北側斜面はちょっとした断崖となっています。

所在地ご紹介

「駐車場は、近くにある「シーサー屋」の駐車場を利用させてもらいます。トイレはありません」

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.2

「陸軍病院第二外科壕」と書かれた石碑と共に、第二外科壕の開口部が見えてきました。糸洲第二外科壕とも呼ばれます。この壕は陸軍病院壕として使われていました。ひめゆり学徒隊も引率教諭と共に、ここで看護活動を続けたのです。この壕は6月18日に米軍に発見され馬乗り攻撃を受けましたが、動ける人は夜間に脱出し第一、第三外科壕方面に逃れた事から、学徒等は間一髪で脱出に成功したと言われています。第二外科長・目源逸医大尉は自決し、翌19日未明、佐藤医少佐は、各科長に斬込み、及び国頭方面に突破を下令し、生存者を率いて斬込みを敢行しました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.3

壕口の背後は、ご覧のような丘陵となっていて稜線もすぐ上にありますから、それほど高い山ではありません。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.4

数年前までは、この壕開口部は閉ざされていましたが、何者かにより壕口が開けられ中に入れるようになりました。最も壕口は土を持って壕口を塞いだという状況でしたから、20年以上前から小さな穴が開いていて、何時も中が見えるような状況ではありました。

壕は構築壕です。古墓であった場所を拡張した可能性もありますね。出入り口は二カ所あります。またこの壕口の右側は切り通しの道路となっていますが、拡幅の際に斜面に人が通れるぐらいの大きな穴が開いたという話ですが、切り通しの道路を作る際に潰されたという情報も聞いた事があります。ただその開口部が「陸軍病院第二外科壕」と繋がっているかどうかまでは知り得ませんでした。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.5

それではご一緒に第二外科壕に入ってみましょう。入るとすぐにコンクリート製の納骨室が設置されています。そしてご覧のように、納骨室の蓋が外されたままになっていて、納骨室の中が丸見え状態です。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.6

天井面をご覧下さい。煤で真っ黒になっていますね。色合いがかなり薄くなっていますが、往時の米軍による馬乗り攻撃の残像として、しっかり残っていますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.7

納骨室の蓋の部分をよく見ると、手前側のコンクリートがハンマー等で打ち砕かれ、鉄筋が露出し錆びだしているのが見てとれます。この様子を見ただけで、誰かが固定されていた蓋をハンマーとかバールを用いて、こじ開けて中にあるご遺骨を持ち去ったかも知れません。因みに納骨室の中にある土砂は、納骨室のすぐ横を掘った際に出た土砂を投げ入れたと考えられます。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.8

この写真が納骨室のすぐ横を、誰かが深く掘ったとみられる場所です。掘った土砂は、捨てる所が無かったので納骨室の中に投げ入れたと考えられます。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.9

この写真は納骨室の背後を写しています。納骨室の奥には、坑道があるのをお目にかけたくて撮影しました。写真でも左側に坑道があるのが見えますよね。坑道の先は別の壕口があると言う話は昔から聞いていました。私はまだ坑道の奥へ行った事が無かったのですが、今日は少し時間があるので、納骨室の裏側に廻って、その坑道を観察してみる事にしました。それでは奥へ入ってみましょう。(^o^)

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.10

納骨室の裏側に廻ってみました。そして東側の壁面を撮影しています。東側には坑道とかは無いので、よく話に出てくる「道路の切り通しを作る際に穴が開いた」という話と、この第二外科壕とは直接的な関係は無いと言えますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.11

納骨室の裏側に廻って、今度は西側の壁面を撮影しています。ご覧のように、坑道が続いていますね。そんなに深くは無さそうですから、前に進んでみましょう。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.12

5mも行かない内に、ご覧のように壕口が見えました。ここは陸軍の病院壕ですから、銃眼とは違う意味で壕口が設置された可能性が高い印象です。通常の壕は二カ所以上出入口を設けて、一カ所が攻撃を受けたら、違う壕口から脱出すると言うような話も聞きますが、この壕口は本来の壕口と5mぐらいしか離れていないので、一カ所の壕口が攻撃されたら‥‥。と言うような説明はキツいですね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.13

壕の外に出ました。第二の壕口を探します。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.14

距離が近いですから、すぐに見つける事が出来ました。写真中央部に壕口があります。沖縄戦当時から、ご覧のように狭い壕口だったのか、遺骨収集を終えてから壕口を埋めたのか?

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.15

壕のある場所から南西の方向を見ています。解りにくいですが東シナ海が見えていますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.16

ご覧下さい。大きな建物を作る工事が進んでいるようです。昨年もほぼ同じアングルで撮影しましたが、このような建物はまだありませんでした。5階とか6階建ての建物が出来るのでしょうか?

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.17

「沖縄陸軍病院第二外科壕」を慰霊で訪れる場合は、壕の前にも駐車場はあるのですが、この場所に駐車させて頂くのもアリだと思います。写真右奥の林の中に壕がありますから、凄く近いですしね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.18

「シーサー屋」と言う看板もありますね。この施設は、糸洲集落の方々が執り行う年中行事などで、御願で廻る拝所の一つだそうです。施設として駐車場があり、休憩所としての東屋と拝所と思われる家屋もあります。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.19

敷地内には歴史を感じさせる立派なガジュマルが生えていました。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.20

「シーサー屋」と言う拝所です。棚の上には、幾つかの香炉も置かれていました。建物内の左下にも、香炉らしき物が置かれています。

「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.21

国道331号線上に「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」と書かれて看板がありますから、案外探しやすいのではないかと思います。

※轟の壕が山裾の林の中にあるのと対照的に、こちらはいろんな野菜が栽培されている畑の一角に壕入り口があります。専用駐車場は用意されていません。駐車場は限られたスペースでの路上駐車となります。農家さんの往来に迷惑を掛けないような配慮が必要と思われますので、見学時はその点を十分にご注意下さいませ。実際に過去には農家さんと深刻なトラブルに発展し、糸洲の壕は一定期間立ち入り禁止となった経緯があります。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレはありません。路上駐車は場所を慎重に選んで下さいませ」

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.22

平成29年(2017年)に改築された「鎮魂の碑」です。左側の碑ですね。この碑の下に糸洲の壕(ウッカーガマ)があります。同壕は第二十四師団の第二野戦病院でした。沖縄戦開戦時は豊見城城跡にあった第二四師団の第二野戦病院(山3487部隊)が、第三十二軍司令部の南部撤退に伴い、5月27日頃移動して来ました。私立積徳高等女学校生徒で編成された積徳部隊は、3月31日に同師団第二野戦病院に編入されたものです。

二つの慰霊碑が建立されていますが、右側の「鎮魂の碑」は、ここで亡くなられたご遺族が建てられた慰霊碑みたいですね。「仲村家」の亡くなられたご家族の記名が見えます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.23

碑文です。読めますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.24

備忘録として改築年月日を掲載します。初代の慰霊碑は昭和60年6月となっています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.25

糸洲の壕は、この狭い通路を降りていく事になりますが‥‥。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.26

ご覧のように、立ち入り禁止となっています。ここで撮影して終了です。ここから手を合わせました。

この糸洲の壕(ウッカーガマ)は、爆雷やガス弾を連日投げ込まれるなど、米軍の執拗な馬乗り攻撃を受けましたが、幸いに学徒隊の戦死者は出て居ません。沖縄戦が終わっている6月26日解散命令が出た事もありますが(これは小池隊長が意図的に解散命令を遅らせたという話です)、第二十四師団小池隊長は「決して死んではいけない、必ず生きて家族のもとに帰りなさい…」と看護隊員一人一人の手を握り云われたそうですから、そうした訓示が生徒を勇気づけたのかもしれません。小池隊長ご自身は、その後この壕で自決されました。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.5

【平成29年(2017年)1月22撮影】
この写真は「鎮魂の碑」がある場所を撮影したものです。「鎮魂の碑」のあった場所は、ご覧のよう工事中で碑は何処かに移動されてありませんでした。工事は地下5~6メートル程の所に下水道管でしょうか、太い配管が設置されようとしています。本来の「糸洲の壕」入り口は、こんもりとした木々の下にあると思われます。しかしながら気のなるのは、「糸洲の壕」の洞窟空間の方向を考えますと、もしかしたら工事空間と重複している可能性があり、工事区間に露出した洞窟空間は埋め戻された可能性もありますし、一方でもしかしたら下水配管の下を洞窟空間が通っていて温存された可能性も無きにしも非ずです。高さ的に非常に微妙です。いずれにしても、壕へ至る階段が立ち入り禁止になっているので、現在の壕の様子は何とも言い様がありません。(^^;)

過去の写真掲載はここまでです。

この壕は前年の米軍による奇襲、いわゆる十・十空襲以降から地元部落民により避難壕として使われていましたが、日本軍の戦線後退に伴い、第24師団第二野戦病院糸洲分院壕として、5月下旬から使われはじめ、学徒動員された私立積徳高等女学校の学徒看護隊員も同時に入壕したようです。

第三十二軍司令部からの病院解散命令を受けた際も、この状況下で解散命令を出すのは危険だと判断して軍命を握り潰したのです。そして牛島第三十二軍司令官と長参謀長の自決の報を受け取り、日本軍の組織的抵抗の終焉を確認した上で、6月26日に解散命令を出したのです。

結局この糸洲壕も6月20日頃から、米軍による馬乗り攻撃を受け、ガス弾や爆雷を投げ込まれるなど激しく攻撃され、重症患者など100名以上の犠牲者が出た模様ですが、数日に渡る馬乗り攻撃に耐え、この壕内で陣頭指揮に当たっていた山第二野戦病院小池隊長は、6月26日の解散命令に際しての最後の間訓示では、私立積徳高女学徒看護隊の生徒一人一人に労りの言葉を掛けると共に、「捕虜になるのは恥ではありません。本当の恥は死ぬことです。なので決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰り、この凄惨な戦争の最後を後世の国民に伝えて下さい」と語ったと伝えられています。

「沖縄戦の学徒隊」 愛と鮮血の記録

金城和彦著 日本図書センター 平成4年(1992年)初版

【手記・うるまの島の夢破れ】

(197頁)
それから間もなく、壕内に緊張した空気がみなぎり、看護隊に集合の命令があった。小池隊長は、「長いこと軍とともに行動していただき本当にご苦労であった。しかし、もはや事態はこれ以上皆さんを一緒に行動させることはできない。兵隊は最後まで戦うのが当然であるが、皆さんは勉強途上にある生徒であり、しかも将来国を背負ってもらわねばならぬ大事な身である。死ぬことだけが、国に対するご奉公ではない。私にも皆さんぐらいの子供があるが、皆さんを見ていると、自分の子供のように思えて、何としても、一緒に死地に連れて行くのは忍び得ない。皆さんは、他府県の生徒に比べるとかわいそうでならない。それだけにぜひ生きのびて、沖縄戦を他府県の生徒に知らせてもらいたい」

と訓示し、私たち生徒の一人一人の手をしっかり握って、別れを告げられた。少佐の頬は涙で濡れていた。やがて小池少佐が30分後に自刃されたことを私たちは知った。それは、壕外に出た友の一人が、忘れ物をしたことに気づき、壕に引き返したとき、すでに割腹して最後を遂げられた少佐の遺体を見たからだ。

壕外は危険であるから、決して団体行動をとらず、いつでも、二三名ぐらいで行動せよ……。という少佐の言葉を守り、私たちは二三名づつ組を作り、十四五分おきに壕を出た。

私は真栄田さん、仲地さんと一緒に、壕の中で拾った一発の手榴弾をしっかり持って、最後の時はこれで自決する決心で、三人固く手を握り合い、死の脱出に向かったのである。

【積徳高等女学校四年生津波古照子さん「手記・うるまの島の夢破れ」の記述部分】

「沖縄戦の学徒隊」から転載させて頂きました

山第二野戦病院小池隊長は、当初この壕に配属された生徒に対し、驚くことにいろんな理由をつけて50名中25名を家族の元へ帰してしまいました。また居残った25名の生徒に対しても優しく励ましてくれたり、危険に曝さないようにとの特別の配慮が為された事により、この壕での学徒看護隊員の犠牲者は3名に留まりました。

沖縄にあった女子校は、公立私立を問わず7校すべてが、動員命令の対象になりましたが、私立積徳高等女学校徒看護隊は動員64名のうち犠牲者は4名だけという事で、他の学徒隊との比較をしても際だった生存率であったようです。大正7年(1918年)に沖縄家政実科女学校として創設された積徳高等女学校は、戦後は復興されず、28年の歴史に幕を閉じ廃校となったとの事です。

糸洲の壕(ウッカーガマ)の壕内部を撮影した写真がありますのでご紹介致します。

《過去の写真ご紹介》

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.9

【平成27年(2015年)2月11日撮影】
「鎮魂の碑」です。この碑の下に糸洲の壕(ウッカーガマ)があります。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.10

鎮魂の碑の碑文です。読めますね。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.11

この狭いスロープと階段を降りると「糸洲の壕」(ウッカーガマ)があります。それでは一緒に降りて見ましょう。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.12

例年この辺りに宿根草とも言えるインパチェンスが咲き誇っていましたが、今年は全く咲いていませんね。咲いてないというより、インパチェンスの株が見当たりません。どうしたんでしょうか。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.13

ここが壕口となります。第二十四師団の第二野戦病院として利用されました。壕口は二カ所ありますが、私はまだもう一カ所の入り口から入った事はありません。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.14

壕入り口で献花し手を合わせました。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.15

壕に少し入った所から振り返ってみますとこんな感じです。壕口はかなり大きくて、米軍に容易に発見されたでしょう。実際に数日間、米軍の激しい馬乗り攻撃を受けたそうです。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.16

20mほど奥に入って撮影しました。黒く太い線のようなものが這っていますが取水ホースです。農家が設置したもののようです。この壕は水は豊富だったようですね。他方湿気が高いので梅雨の頃の壕生活は悲惨だったと推測されます。実際にすぐにカメラレンズが曇ってきたほどですから。積徳学徒等も湿気の多い壕生活により、風邪を引いたり、下痢や発熱する者が続出しましたが、戦傷者が続々と運び込まれる状況下で、自身の不調は横に置いて看護活動に従事したと言います。

この壕は連日爆雷やガス弾が投げ込まれるなど、米軍の執拗な馬乗り攻撃を受けましたが、幸いに学徒隊の戦死者は出て居ません。沖縄戦が終わっている6月26日解散命令が出た事もありますが(意図的に解散命令を遅らせたという話です)、第二十四師団小池隊長は「決して死んではいけない、必ず生きて家族のもとに帰りなさい…」と看護隊員一人一人の手を握り云われたそうですから、そうした訓示が生徒を勇気づけたのかもしれません。小池隊長ご自身は、その後この壕で自決しました。

2016年2月19日/遺骨収集の様子 NO.17

糸洲の壕(ウッカーガマ)の水上側を撮影しています。同壕は轟の壕と繋がっているようです。

過去の写真掲載はここまでです。

「国立沖縄戦没者墓苑」

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.27

作業着手前に「国立沖縄戦没者墓苑」を訪ねました。昭和54年(1979年)に創建された「国立沖縄戦没者墓苑」ですが、創建後38年が経過して参拝所を中心に傷みがひどくなったようで、参拝棟は平成29年(2017年)に建て替えられました。基礎工事の段階で不発弾が見つかり、その対応と措置に、かなりの時間を要したと聞いています。ちなみに納骨堂は真っ黒になっていた石灰岩の表面が、平成25年(2013年)に表面が削られて本来の白っぽい石灰岩の色合いとなり、荘厳な石造りの納骨堂が復活しました。今は再び黒っぽくなっていますが、それでも昔と比べると白い色合いが残っています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.28

「国立沖縄戦没者墓苑」は、昭和54年(1979年)に創建されました。昭和32年(1957年)に政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設しましたが、転骨が進み同所が手狭になった為に、摩文仁に「国立沖縄戦没者墓苑」が建設されました。この納骨堂は、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が使用され、琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。現在は沖縄で収集された戦没者ご遺骨のすべてが、この国立沖縄戦没者墓苑に納骨されます。

創建された初代納骨堂が戦没者ご遺骨で一杯になった事から、二棟目、三棟目の納骨堂が収骨状況に応じて順次建築されました。ご遺骨は現在でも発見され続けていますし、沖縄でDNA鑑定が始まって以降は、長く続いた戦没者ご遺骨の焼骨は、DNAを破壊するとの理由で中止され、全てのご遺骨は焼かずに保存するという方針になりましたから、将来的には四棟目の納骨堂も必要になるかもですね。

【国立沖縄戦没者墓苑の建立から現在までの経緯】

沖縄戦においては、軍民合わせて18万余の尊い命が失われました。この戦没者の遺骨収集は戦後、いち早く地域住民の手によりはじまり、各地に納骨堂や納骨堂を兼ねた慰霊塔を急造し、収集した遺骨を納めました。

昭和32年(1957年)には、政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設し、納骨してまいりましたが、次第に収骨数が多くなるにつれ、中央納骨所が狭隘となってまいりました。このため、国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきであるとの要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられ、厚生省(現厚生労働省)の配慮により昭和54年に本墓苑が創建され、中央納骨所から本墓苑に転骨したものです。

しかし、その後、毎年のように約100柱が新たに収集納骨されたことから、昭和60年に後方に納骨堂が増設されました。現在、本墓苑には戦没者18万余柱が納骨されております。

正面の参拝所の屋根は沖縄の伝統的技法により焼かれた赤瓦を使い、紋には桜の花を用いています。納骨堂には、沖縄産の琉球トラバーチン1千個が琉球王家の墓を模した古来の技法で積み上げられています。納骨堂はコの字形となっていますが、これは祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味しています。

納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は福島県産の黒御影石で、どっしりとした万成御影石の台座にのっています。石棺の中には、沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められております。

「沖縄県平和祈念財団サイト」から転載させて頂きました

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.29

作業着手前に、国立戦没者墓苑で献花し手を合わせました。

本日は松永さん、福岡さん、三浦さん、そして私の四人です。日本を守るために大東亜戦争を戦い抜いた方々の児孫である同世代を代表して、今年も金光教の皆さんが語るところの三つのお陰(健康・時間・金銭)を蒙り、無事にこうして激戦の地摩文仁に立てたことにまず感謝し、悲しくも沖縄戦で果てた二十万余の戦没者に対し、心からの慰霊の言葉を申し述べました。

私達の活動が単なる骨探しではなく、戦没者の方々が今も尚抱き続けているであろう深い悲しみに寄り添い、何よりもそうした慰霊の心を最優先にして戦没者と向き合う事を心掛けています。また目に見えない事象感覚や人としての感性をも含めて、メンバー間でしっかり共有しながら遺骨収集に取り組む事を目標としています。そして願わくば、ここ摩文仁に未だ眠る、誰にも看取られることなく戦野に果てた戦没者一柱が見つからんことを祈願致しました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

調査・遺骨収集作業開始です

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.30

ジャングルを移動中にナナホシキンカメムシ君が作業服に付着していました。(^o^)
金緑色の美しい金属光沢で、正に黄金色に輝くカメムシ君ですね。色合いから離れていてもすごく目立ちます。あまりに目立ちすぎて、天敵のターゲットになりはしないかと心配されるほどですよ。ちなみに本種は触れても悪臭を放つことはないそうです。(^o^)

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.31

本日もNPO法人沖縄鍾乳洞教会理事長の山内さんのご協力を仰ぎ、壕底での作業を継続します。山内さんが降下の準備と安全点検をして下さっています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.32

壕底部への降下が始まりました。今日初めてワイヤーラダーを降りるメンバーの写真を撮る事が出来ました。ステップに足を乗せるに際し、オーバーハングしているのが見えます。このようにすると、ワイヤーラダーは振られずに、ご覧のように垂直状態を保つ事が可能となり、結果として安全に、そして楽に降りられるようになります。(^o^)

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.33

全員無事に壕底に降りまして、狭い坑道部での作業を開始しました。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.34

福岡さんがフルイを用いて細かい遺品を探しています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.35

三浦さんです。地際にある遺品を見てます。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.36

福岡さんが作業しています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.37

八九式重擲弾筒弾が二発あります。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.38

こちらにも八九式重擲弾筒弾が沢山ありますね。八九式重擲弾筒は、口径50ミリ、銃身長254ミリ、全長610ミリ、重量4.7キログラム。約800グラムの八九式榴弾を最大670メートル前方に投射する事が出来たようです。ご覧のように単純な構造で、持ち運びも容易です。照準は勘に頼らざるを得ませんが、日本の将兵は正確に照準を定められる者が多かったと言われ、榴弾の破裂音が野砲並みに大きかったり、有効半径10メートルと言う威力の大きさもあって、日本軍の兵器の中で米軍を恐れさせた兵器の一つだと言われています。

通常では、小隊は4個分隊で編成され、分隊には軽機関銃1丁を装備する機関銃分隊、擲弾筒3門を装備する擲弾筒分隊で編成されていました。擲弾筒1門は3名の班で運用し、1人18発(計54発)の弾薬定数を持っています。擲弾筒分隊はこの班が3個と分隊長の合計10名から編成されていたという事ですから、この縦穴壕を陣地としていた部隊は、擲弾筒分隊を含んでいた可能性がありますね。

八九式重擲弾筒について、ウィキペディアに情報が掲載されているので、詳しい情報をお知りになりたい方は、検索して見て下さいませ。(^o^)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.39

【八九式重擲弾筒】(ウィキペディアから転載させて頂きました)

令和年(2020年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.40

【八九式重擲弾筒を構える兵士】(ウィキペディアから転載させて頂きました)

《サイトご紹介》

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.41

三浦さんのところも細かい遺品が出ているようです。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「擲弾筒弾が埋まっている」との事で見に来ました。埋もれていたのがありますね。露出しているだけでなく、結構埋まっている八九式重擲弾筒弾もありそうですね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.43

露出してきましたね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.44

八九式重擲弾筒弾が三発増えました。土中に埋もれている弾の方が、地表に露出している弾よりも、酸化するスピードが遅いのでしょうか。劣化の度合いが全然違いますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.45

革製の遺品です。木材も見えますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.46

福岡さんが作業しています。福岡さんが手に持っているのはクマデではありません。農家の方が雑草を刈る時に使用する道具ですから、草刈りカマと呼ぶのでしょうかね。クマデよりも多用途に使えるので、ある意味クマデよりも便利かも知れません。(^o^)

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.47

三浦さんが作業しています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.48

福岡さんが作業しています。細かい遺品が出ていますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.49

福岡さんが「中身が入っている瓶が出た」と見せてくれました。本当だ。中身が結構入った状態というのが見て解りますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.50

福岡さんが作業しています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.51

八九式重擲弾筒弾がまた一発増えました。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.52

福岡さんも沖縄戦当時の地盤がどこなのか、ちょっと解りかねるようです。ご覧のように、確かに微妙ですね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.53

こんな感じです。確かに難しいですね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.54

福岡さんが見つけた遺品です。見慣れない白いガラス製品がありますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.55

福岡さんが作業しています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.56

八九式重擲弾筒弾がまた一発増えました。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.57

八九式重擲弾筒弾がまた一発増えました。埋まっている弾が、これからも出てきそうですね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.58

これまでに収集された遺品類を見てみましょう。この白布は居住区域東側で発見されたものです。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.59

場所を移動して、この白布は居住区域西側で発見されたものです。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.60

この白布は、同じく居住区域西側で発見されたものです。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.61

大きなカスガイの長さを測りましたら、ご覧のように30cmありますね。このカスガイの用途は、壕の出入りにハシゴを設置した際に使ったとしか思いつきませんね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.62

現代で言うところのクリアーケースと言ったところでしょうか。寸法的にもご覧のように、現代のはがきよりも少し小ぶりと言った感じです。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.63

そしてこの白布が、今日取り組んでいる狭い坑道部分から収集された遺品類です。居住区域と同じように革製品が多いのが特徴と言えるでしょう。また写真上側の左に白いガラス片が多数出ました。これは何なのかちょっと不明ですね‥‥。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.64

カメラアングルを少し下げて撮影しました。こうしてみると軍靴意外の革製品が頷けるでしょう。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.65

アップしました。薬瓶と思われますが、こんなにありました。これら瓶類は居住区域には無くて、坑道部分のみ出ていますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.66

この黒っぽい瓶が中身が入っている瓶です。戦後76年経過していますが、瓶の蓋がしっかりしているので、内容物がそのまま残存しているのですね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.67

この形の瓶は珍しいと思います。高さ約12cmぐらいですね。私も初めて見る瓶かも知れません。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.68

アップしました。白いガラス片をアップしてみました。参加記を見て下さっている皆様、これは何でしょうかね~。解った方は教えて下さいませ。(^o^)

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.69

アップしました。昨日発見されたひげ剃りですね。個人の持ち物なので名前が彫られているかなと精査しましたが、残念ながら名前は彫られていませんでした。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.70

アップしました。写真中央の物は、皮で出来た取っ手ですね。ご覧のように取っ手の固定部は金属が使われているのが見えます。左側に見えるのはビニールで被覆された電話線ですね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.71

アップしました。将兵の下着の襦袢などに使われているボタンが出てきました。一回り大きなボタンも見えますね。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.72

アップしました。四角い金属製の物も多いですね。それぞれ大きさが違うので、それぞれ色んな用途に使われていたのでしょう。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.73

これがバリカンですよね。私も初めて見るので、何か印象深いものがありまして、何度もご紹介してすいません。(^^;)

この垂直壕で、本日まで徹底して調査が為され、多くの遺品が発見されましたが、残念ながらご遺骨については、歯の一本、指の骨一本も見つかりませんでした。また小さなご遺骨だけでなく、ご遺骨の破片さえも見つからなかった事から、この壕では戦死者は居なかったと断定出来そうです。

今回の壕がある地域は、金光教の遺骨収集で第一回目に調査された場所です。また第一回目以降、7回に渡り繰り返し調査が為された地域でもあります。そうした経緯を踏まえ、昔から「摩文仁には垂直壕があって、中には不発弾が沢山並べてあった」と言う話を、私もかなり昔から聞いていました。

今回私達の垂直壕での調査をするに当たり、金光教の遺骨収集を主導したある方に電話して、その昔、垂直壕に入った際の措置や状況について問い合わせてみました。今回私達が降りた垂直壕が、金光教の遺骨収集で、初期の頃から言われていた摩文仁の当該壕である可能性があったからです。電話でのお話では、やはり同じ壕で間違いないようでした。

当時の金光教の、その壕での対応や状況をお伺いしたところ、「ご遺骨は見当たらず、不発弾が沢山あり危険なので、写真に収め日報に書くレベルの調査はしたが、作業そのものはせず撤収した」との事でした。このお話を伺いまして、これは適切な措置と感じますし、安全を最優先した対応だと思えます。事故が発生したら垂直壕ですから、速やかな救助活動もままなりません。

30年40年前は、不発弾や手榴弾はまだ現在ほど錆びておらず、今でも使えそうな雰囲気があり、凄く重くて迫力がありました。守備軍の手榴弾なども、安全装置のピンが今でも抜けると感じるものも少なくありませんでした。また金光教の遺骨収集でも、手榴弾ではありませんが、黄燐弾に触れてやけどをして病院に行かれた方も居られました。当時はまだ砲弾がまだ生きていた証左です。因みに黄燐弾は焼夷効果を持つ砲弾で、全てを焼き尽くしていく兵器です。人体に付着すると高熱で体内深くまで焼き尽くすと言われ恐れられていました。

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壕底は居住区域も狭い坑道部分も全て探し尽くしたので、これで一度作業は終了となります。午後はご遺骨が少し見つかっている壕で作業継続する予定ですし、警察と文化財課の職員が調査に見えられるので、その対応をする予定です。

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全ての資機材を持って公園に出て昼食を食べる予定です。

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公園にて発見された歯ブラシ入れケースを洗ってみました。残念ながら記名はありませんでした~。(^^;)

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「大坪」と掘られた定規もしっかり洗いました。しっかりと大坪と掘られているのが見えます。何時の日にか、定規の残り半分が発見される事を願わずには居られません。

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午後に糸満警察署警察官がお見えになりました。

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松永さんがご遺骨の発見現場などで、発見・収集経緯を警察官に説明しています。また壕の中に不発弾が沢山あるという説明をしましたら、通常は警察署の署員が居られる間に自衛隊の不発弾処理班に来て貰うのですが、今回は特殊な装備が無いと入れない壕なので、不発弾の回収は後日という事に決まりました。

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何時警察官の方が来られても対応出来るように、この時点までに発見されたご遺骨と遺品類を白布に並べてあります。

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下着である襦袢のボタンが数多く見つかっていますね。また四角い金属製の締める部品と言うのでしょうか。沢山出てきました。

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被甲(ガスマスク)の部品である、アセテートのレンズを調整する為に取り外せるようになっている金属プレス製のレンズ押さえと、吸収缶と呼ばれるガスを濾過する物質が入っている缶です。また左側に小銃弾があります。

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黒く四角いセルロイドケースは、被甲(ガスマスク)のレンズの内側に取り付けられる曇止板を入れる容器ですね。黒いケースの蓋を開けてみると、未使用の透明円盤である丸い曇止板が入っていました。また写真右側に黒い棒のような物が二つ並んで見えますが、被甲(ガスマスク)のレンズ面が曇った時に不凍液を塗る事がありますが、これらはその不凍液を塗るための道具で、ディスペンサーとスポイトですね。

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人骨と断定出来るご遺骨が並べられています。

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こちらは細かくて、人骨か動物の骨か迷いがあるご遺骨です。一応分けておきました。

私達は壕などの現場から人骨だけでなく、動物の骨も全て出すという方針で取り組んでいます。と言うのは、30年40年前なら、沖縄戦戦没者の人骨と動物の骨を間違える可能性はほとんどありませんでした。また同じく30年40年前なら、沖縄戦戦没者の人骨と風葬骨とを間違えると言う事も、まずあり得ませんでした。

しかしながら戦後七十余年が経過して、沖縄戦戦没者の人骨だけでなく、動物の骨、そして風葬骨なども共に風化や劣化が進み、骨としての形状が崩れるに従い骨端部が無くなるなどして、それぞれの同定が極めて難しくなっています。ですから、動物の骨なども壕内に置いておくと、10年後20年後、再び遺骨収集団がやって来て、形状が崩れている動物の骨を人骨と見誤ってしまう可能性がありますので、それを防ぐ意味で、私達は壕内から全ての骨を出すという方針で取り組んでいます。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.86

糸満警察署の署員の方の実況見分が無事に終わりました。さあ現場作業再開です。(^o^)

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三浦さんが土砂の入ったバケツを運び出しています。

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壕の中では福岡さんが一人で頑張っています。

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搬出された土砂は、松永さんと吉井さんとで、目視やフルイに掛けるなどして遺品を探します。

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調査を終えた土砂は、最終的に現地の形状を復元するように可能な限り埋め戻すので、堀った部分などに埋め戻していきます。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.91

三浦さんが土砂の入ったバケツを引き上げています。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.92

二人でフルイ作業をするので速いです。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.93

午後四時過ぎに、今度は遺骨収集情報センターの方々と糸満市文化財課の職員さんとが調査に来られました。要請したその日の内に来て頂いて本当に助かります。

令和3年(2021年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.94

文化財課の方々は、史跡に不当に加工や破壊が為されていないか調査するのが目的です。沖縄は古代からの史跡が多くあるので、史跡であると知らずに変更を加えるなどしたら大変です。その点だけは注意しなければなりません。

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しっかり壕の中に入って、松永さんの説明を聞かれる文化財課の職員さんです。

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壕口に置いてある四発の迫撃砲弾です。これら不発弾は、後日壕底にある沢山の迫撃砲弾と共に回収して貰う予定です。

私達がこの壕で発見したご遺骨に関して、琉球新報社様が新聞記事にして下さいました。ありがとうございました。(^o^)

糸満市摩文仁で沖縄戦当時の遺骨 砲弾破片も多数発見、日本兵か 鍾乳洞協会が収集作業

【琉球新報】令和3年(2021年)1月29日

〇【糸満】糸満市摩文仁の黎明の塔周辺で19、20の両日、沖縄戦で亡くなった日本兵とみられる遺骨と遺品が見つかった。発見したのは遺骨収集作業をしていたNPO法人沖縄鍾乳洞協会理事の松永光雄さん(67)と有志数人。遺骨と同じ場所には砲弾の破片も多数落ちていた。破片はずしりと重くさびていて、作業員の男性は「この砲弾を受けて亡くなった可能性がある。無念だっただろう」とけわしい表情で話した。

遺骨は脊髄や喉仏、あばら骨や頭骨などが見つかった。近くに防毒マスクのレンズや不凍液、日本兵が使用していたとされる靴底などがあったことから、遺骨は日本兵と推測される。数メートル離れた場所には不発弾も数発あった。松永さんは「まだ多くの遺骨が残っている。一つでも多く見つけ出してあげたい」と話した。

遺骨収集作業が進められた辺り一帯は、ビニール袋や空き缶などのごみが散乱していた。松永さんは「ごみがあまりにも多くて、遺骨収集作業に支障をきたしている」として、行政主導による早急なごみの撤去を訴えている。

「琉球新報」から転載させて頂きました

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